ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

今更な後発ソシャゲプラットフォームの生存戦略

■Fgの話、エンタースフィアの話

前回のこの記事がどうしょもない与太であったことをお詫び申し上げます。

 

何がダメかって立体物(フィギュア)専門SNS「Fg(http://www.fg-site.net)」が、今でこそ株式会社クロメアってとこの運営だけど、クロメアに事業譲渡される前はエンタースフィアが運営していたってのを僕が知らなかったということです……。

 

エンタースフィアは任天堂で「ピクミン」とかのエグいテキスト書いてた岡本基が独立して作った会社。

これ、2chのゲハ板とかでは衆知のことみたいで、不明を恥じますね……まったく。先生。とても。

今は「閃乱カグラ」のマーベラスAQLに買収されております。

買収額とか見る限り、なんだかあまり楽しい買収という雰囲気がしないのですが(今HPみたらマーベラスと同じビルに移転してるし)、エンタースフィアが GREEに出している「煉獄のクルセイド」はソーシャルゲームの中ではかなり早い段階で独自IP育成に取り組んでいたのが好印象でした。ラジオとかやって たし、公式で抱き枕まで作っておりましたから、もっとブイブイ言わかしてキャラクターソングぐらいは出してほしかったです。

モバマスがCD出したのだって、あれはあれですごいけど、出戻りというか予定調和ですよね。買ったけど。

 

とらのあなの話、ブシモの話

Fg/エンタースフィアの話はそれぐらいにして、前回いろいろな糞プラットフォームまとめで書きました、<同人誌ショップとらのあなソーシャルゲームに参入すんのかどうなのか>という件について考えてみたいです。

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http://www.toranoana.jp/mailorder/gen/pagekit/0000/00/05/000000052630/index.html

 

ソーシャルゲームに参入! といっても、パターンは現状3つ(くらい)あります。つまり、

 

A、新規プラットフォームを立ち上げる

B、既存プラットフォーム(GREEmobage等)に自社ゲームを提供する

C、作家からイラスト/版権をかきあつめてゲームデベロッパーに提供する

 

より細かく言うとBとCの間に「リリース後の運営だけ請け負う」ってのもありますが、それはどっちかっつとPCネトゲ方面の文化ですね。たぶん。

当然ですが、A、B、Cの順にリスクとコストが高く、かつ成功時のリターンも大きくなります。

Aをやる場合、内製タイトルが何本か無ければ話にならないので、99%Bを兼ねる。ブシロードのブシモなんか典型ですね。まあ、ブシモの場合は「自社の非電源カードゲームをアプリ化したい」という点が強く作用しているというのもあるのでしょう。

そういう意味ではブシロードの場合、完全な異業種参入というわけではありませんけれども、とらのあなの場合は完全な異業種ですから、社内にソシャゲ運営スタッフを置いているわけでも無いはずで、必然的に外部委託となります。

ブシロードにしたって「コミュニティとしてのカードゲーム運営のノウハウは十分にある」とは豪語していましたが、それをポチポチの仕様に落とし込んで行くのはまた別のスキルが必要になりますから、結局どうしたって外部のデベロッパーとの恊働となるはずです。

まあ、ブシロードの場合は広告展開などを見る限り金遣いの荒い会社ですから、1000万くらい積んで既存のSAPから何人か引き抜いてるって可能性も無くはないかな……。

ただ、それでもプラットフォームの上流でプロモーションの統括とかしてるだけで手一杯の筈。さすがに個々のコンテンツを直に運用できるだけのスキルを持った人をそんなに何人も囲ってはおけないでしょう。

 

そんなわけなので、肩すかしですが、Cが一番現実的なのかなあと思ったり。よく問題になってる未来少年とかのパターンですね。

もともと同人ゴロのコネだけで成立しているような会社でしょうし、そこを使わんでどうするんだと。

た だその場合、イラストレーターにとっては「とらに卸すくらいなら自分で開発会社に売ったほうが割が良くね?」という話になりがちなことと、とらのあなに とっても「同人でネームバリューのあるイラストレーターやエロゲーの原画家がソーシャルゲーム市場にどの程度訴求力があるのか?」というところが懸念点。

だいたい、同人で名前が売れている人って、昔の七尾奈留とか思い出せば分かるかと思いますが、<上手/下手>とか<魅力的である/ない>とかいうのとは別の、何か呪的な付加価値を持った担保流通性が形成されることで成立するものですよね。

あ る種の信用創造のような。もちろんソーシャルのカードゲームだって、あんなデジタルデータ一枚の為になぜ課金回復薬ガブ飲みするのかといったら、そこに ユーザーが何らかの原価以上の価値を見出しているからであって、じゃあその価値とは? みたいな話になると承認欲求がどうたらとか新清士とか頭でっかちの AKB信者みたいな方向に行きますので、それは差し置きますと、まあつまりイラストレーター/作家との利害合致を考えた場合、Cもそんなに上手く行きそう にない。

するとやっぱAか!?みたいな話にループする……。結論は出ない。

 

余談ですけど、

「株式会社虎の穴が運営する『とらのあな』」と、

「グリー株式会社が運営する『GREE』」って似てますよね。

社名をそのままサービス名にしてるけど表記が何となく違う的なやつ。

 

■DMM、カラ鉄、クローディア

次回はやはり後発の中では資金力&マーケット独自性が際立つ、最近やたらと広告が出ているDMMソシャゲ(DMMオンラインゲーム)について調べたいな〜と思います。

DMMの売り上げは一説に1500万円? サイバーエージェント超えてる? ということは30億使って渋谷ジャックもワンチャン……。

実写のAVメーカーの最大派閥で、AKB利権まで持ってるわけだから、キナ臭いパワーも満載の筈。

 

毛色の違うところで、カラオケの鉄人を運営している会社・鉄人化計画が4月にリリース予定とか言ってるソーシャルカラオケ出会い系・オハコ(http://www.ohaco.in)にも若干注目。

鉄人化計画、ストラテジーアンドパートナーと組んで、得意のブラックロックシューター版権でMobageに出してはいるけど、あれはどこまで売れているのか。

ソシャゲ講座とか開いてるけど、そもそも自社のコンテンツが売れてるのかどうなのか、そのへん大変気になります。

当然プラットフォーム戦略まで考えてのことだろうし。

 

あとは国産のTwitterパクリSNS・クローディア。これもゲームプラットフォーム化しようとしててワロタ。

https://croudia.com

 

しかし個人的にはやはり、「ゆかし(http://yucasee.jp)」のゲームプラットフォーム化を強く望みます。

「純金融資産1億円以上の人々が集うプライベートクラブ」……きっと「1000回セットガチャ」とかが並んで物凄いARPPUが出るに違いない。

2013年一発目 美少女ソーシャルゲーム概況、怪しき新興プラットフォーム達

まあ概況なんて言えるほど適切な篩に掛けられる知識量かと言われればそこは。

 

■昨年後半あたりの流れから

巷 で言われておりますように、昨年はgloops、ポケラボ、エンタースフィア、インブルーなどチンイラ系イラスト満載のソーシャルゲームを作ってきた大き い会社が軒並み買収され、一気に業界の統廃合が進んだ印象でした(ってみんな言ってる)。まあ業界っていうほどの長い業界でも無いのですけれども。

今のところ独立しているgumiなんかも、外から見ているとGREEの一部なんじゃないかぐらいの雰囲気漂わせてますが、その昔、日本で最初にプラットフォームを作った会社なので、そのへんの意気を見せてほしすなあ。

 

 

さて一般に、ソーシャルゲームの場合ざっくりいうと100万人のユーザーを10万人ずつ10タイトルのアプリに流すよりも100万人全員を1タイトルにぶち込んで蠱毒っぽく争わせたほうがアプリが売り上げ総額が増すと考えられています。

ま してプラットフォームとの協業タイトルであれば手数料もより多く取れますから、プラットフォーマーは内製および1.5stパーティー的な大手デベロッパー のアプリを積極的にインプレッションさせます。GREEで言ったらgumiとかオルトプラス、コナミ、ボルテージあたり。モバゲーでいったらサイゲーム ス、gloops、クルーズ。あとバンナム

だからこのへんが「勝ち組デベロッパー」とされていて、それ以外は極端に冷遇されている印象が あります。ちょっと昔はモバゲーがデベロッパーに対して高圧的と言われていて、そのへんを糾合するために一時期GREEが弱小デベロッパーに優しい、と言 われていた時期があったのですが、コンプガチャ騒動前後からそんなことも無くなってきた感じがします。

 

 

■終了のおしらせ

ま あそんな中で確実に撤退組も出てきているのが現状で、たとえば昨年8/16にビットマークからリリースされた美少女モノのカードバトル「Flower」 が、11月3日には既にサービス終了予告を出していてびっくりしました。その間3ヶ月未満。12月12日16時をもって課金アイテム停止、2013年1月 11日16時をもってアプリ削除。って今週じゃん。

同社が10/15に出したタワーディフェンス要素のある「トリモリ」に至っては11月 12日にはサービス終了予告が出て、12月12日に課金停止、2013年1月11日15時でサービス終了。リリース→終了予告→課金停止→サービス終了ま でそれぞれ一ヶ月開いてない。これが真の爆速PDCAだ!!まあこれは極端な例で、成否二極化のアオリもありつつ同社内で運営が続けられるだけの人的・資 本的リソースが確保できない状況になったのだろうとお察しするわけなんですけれど、当時としてはわりとユニークなUIを採用していたり、「厨漢字+厨カタ カナ」系のタイトルがあふれる中に短い英単語で切り込んでいったり、そこも含めた全体的なコンセプトが面白かったりして、ガワ部分の変化球の新しい潮流作 るかも、とか密かに期待していたのですが、まったくそんなことはなく。

とはいえ胴元のアプリであっても必ずしもうまくいくとは限らず、鳴り 物入りで始まったモバゲーの「夕暮れのバルキリーズ」とかシステム的にはかなり斬新だったのですが会員50万人を抱えながら年末年始に何の要素追加も行わ なかった為、近々消滅するのではないかと思っております。「学校の星」とかもね。ガワはコミカルですごく良かったのですが。

 

 

バトルえんぴつみたいな感じじゃないかなあ

モバゲーのユーザーというのは(GREEと比較しても)、ある意味では非常に目端の効く人たちが多いです。

ヘビーゲーマーは彼らを「ゲーマーではない」と言いますが、「このゲームは盛り上がるのか」ということを彼らは誰よりも的確に見抜きます。

盛り上がるというか、「アガる」という感じなんじゃないでしょうか。

これは僕らの世代の記憶でいうと、ドラクエのバトル鉛筆のアーリーアダプターだったようなタイプでは無いかと思っています。

将来的にどうか分かりませんが、現状ソーシャルゲームの機能として、いかに「ゲームをしている気分にさせるか」ということが重要なんだと思います。バトえんと同じで。

バトえんはドラクエに比べれば明らかに劣るゲーム性しか持っていないけど、ドラクエのブランドと世界観を借景にして教室で友達にザラキを連発することができるという謎の新快楽を提供してくれるわけです(もっとも、僕はドラクエをやったことがありませんが)。

その意味で、「夕暮れのヴァルキリーズ』は「ゲームっぽさ」はあるけど「ゲームらしさ」が無いんですよね。

キッズが本当に必要としたものはバトえんなのに、変に凝ったドラクエTRPG作っちゃったみたいな。せっかくTRPGビデオゲームにしたのに、もとに戻してどうする。

あるいは、「映画みたいなゲーム」を本当に映画にして大失敗のFFとか。貴様ハリウッド版スーパーマリオブラザーズから何も学んでいないな。

レベルファイブの「レイトン教授ロワイヤル」なんかもこのタイプですね。「人狼」のエッセンスを取り入れていて非常に意欲的なゲームだったのですが、あれはなかなかアガらない。

ただ、スマートフォンネイティブアプリ化の流れが強力なので、こういう厚みのあるコンテンツを作る力はいずれ必ず生きて来ると思います。レベルファイブがんばって!

 

 

■モバゲーに18禁のゲームがあった件

そのモバゲーさんですが、モバマスの成功で「オタも意外に金落としてくれる」と気付いたのか、昨年なかばに「一騎当千バーストファイト」は何と18禁アプリとしてリリースしています(リア充の想像に反してオタは一騎当千読まないけどな)。

 

http://gamebiz.jp/?p=60553

 

びっ くりですね。尤も、内容的にはせいぜい15禁だろうという程度の服が裂けたりする程度(少なくとも無課金の範囲)なのですが、とにかくモバゲーのような最 大手プラットフォームにおいて明示的に18禁とされたアプリが運営されていることがなかなか意外じゃないでしょうか。同タイトルはゲーム開始ページに赤字 で「※年齢制限あり」と書いてあるだけですが、どうも18歳未満にはそもそもアプリへの導線自体が表示されないようです。未成年からの見え方を確認した かったのですが、手近なところに幼いアカウントが無かったので見れませんでした。非表示に関してはスレ情報です。

ちなみに年齢を詐称してア プリで遊んだ場合、発覚するとつまみ出されるようなのですが、「Mobage(Yahoo! Mobage)での登録上の年齢の詐称により遊戯不可となった場合であっても返金等の対応はいたしません」というクールな断りがあり、その昔「ふたりエッ チ」をレジに持っていけずやむなく万引きして補導された友人のことを思い出しました。個人的には一騎当千に課金するのは金ドブ感があるのでこれに課金する ならgumiとかgloopsあたりのちょっとエロっぽいカードがある三国志モノにでも課金しますが、特にレアリティの高いカードにおいて、GREE版と の絵柄のエロさに違いはあるのかどうか、そのへんは大変気になります。

年齢制限でゾーニングを導入するモバゲーと、全体を全年齢ボトムに合わせるGREEということで、非常に対照的です。

ちなみにアプリそのものは、なにげに箱庭要素があって伊達にコンシューマ開発してないなあという感じ。

 

 

■そしてエロとオタの新しい刺客

http://toaru-sipro.com/?p=2615 このあたりでもまとめられてたけど、そういえばdゲームの話って全然聞きませんね……

 

まあdゲームは置いとくとして、AV屋のDMMと出会い系のワクワクメールがソーシャルゲームをやりだしたのは大きいと思います。

18禁要素とソーシャル性ってある意味では真逆のものなので(いや、フーコー的に考えればそれこそ同じものかも知れないが、少なくとも現状の商環境として)、そこをどう止揚していくのかは大変興味深いところ。

DMM がエロいねボタンなる珍機能を導入した時は100万人単位のAV評論家集団でも作るつもりなのかと思った反面、もしこのままこの流れが大きくなるようなこ とがあればあけっぴろげにセクシュアリティについて語ることが常識であるという西海岸SF的な人間性の解放が到来するのでは?と思わないでもない。

そんなわけで、今回はサイプロじゃ扱ってもらえないような泡沫・エロ・オタ系プラットフォームをざざーっと書き留めておきます。

 

1、DMM

DMM プラットフォームリリース時はなんだかふざけたゲームしか無いように感じましたが、最近始まった「男ノ頂」は「龍が如く」や「アウトレイジ」みたいなネオ ヤクザ的世界観を見事にソーシャル化していて、一時代を築いたgumiの「任侠道」がボクたちこんなに大きくなりましたみたいな感じ。

こういうのが、毛利家が「学園」で戦国なのにいきなり「ダンジョン」があって「スライム」が出てくるような『ももせん』(ただしエロへの着地は上手い!)と一緒に並んでいる感じが日本ソーシャル百景という感じで良いです。

全年齢版のほうでは秋葉原の大手メイド喫茶のキャスト使ったカードバトル「メイコレ」とか作ってますが、盛り上がってなさそう。やはりのっけからエロを求めてきているからこんな眠いアプリやってられっかということでしょうか。

 

2、ワクワクメール(ワクプラ)

出 会い系のかなり大きいところ。出会い系の強みは、課金アイテムを女の子に貢ぐという導線が作れそうなことですね。僕が運営だったらネカマのサクラ雇って男 性客にアイテムおねだりしちゃうでござる。まあそれは冗談としても、オフで即ハメを地でいく子作り討魔道中(別名:ソードアートオンライン)が可能になる ような一連の仕組みがプラットフォームに揃っているというのは、考えようによってはかなり面白いのではないかと。つまりこう、ネトゲだったら「出会い 厨」って言われるようなプレイスタイルを運営が推奨しているわけですよ(金とられるけど)。これって広義のARだぜよ?

ただ、悲しいことに現状そこまでワクワクしそうなゲームがあまり出ていないことですね。

http://wakuplu.com

ソーシャルゲームプラットフォームはこの「ワクプラ」の側で「出会い厳禁」であり、出会い系は「ワクワクメール」ということで一応切り分けられてはいるようですね。

でもさぁ……そんなこと言っても……。

 

出 会い系といえば、『禁断のサモンドール』を提供しているアンドロックは出会い系システム開発のアイコールの子会社。アンドロック自体はけっこうまじめに面 白いアプリを紹介したりしてますが、親がその感じだとどうしても色眼鏡で見られてしまうところはあるんじゃないかと。アイコール自体がプラットフォームを 開発しているとかってことは無いのでしょうか。資金は持っていそうなので、やっていてもおかしくないのではないかと思いますが……。

 

3、FC2

次に、アダルトといえばここ!という感じのFC2。提供してるサービスが全部ゴチャゴチャしてて常によく分かんないところですが、ここもなんと「FC2ゲーム」という18禁ソーシャルゲームのプラットフォームを持っています。

http://game.fc2.com/landing/

まあ……あの……全年齢版のほうが恋姫とかあって、うん、いいですね(棒)

 

4、Pixiv

Pixivにも実は「Pixivゲーム」というのがある(らしい)のですが、こちらフィーチャーフォンのみ対応で中身どうなってるのかよく分からない。

何の話も聞かないところを見ると少なくともヒットはしていないわけで、Pixiv本体がソシャゲ絵師牧場として機能していることに鑑みるとPixivの運営は札枕で寝ている場合では無いのではないか。

http://m.pixiv.net (※ガラケーのみ)

まあ、目下スマホ対応に急ピッチで取り組んでいるのだろうとは思います。

 

5、萌。

「もえたま」と読むそうで。運営している会社は「ディスガイア」の日本一ソフトウェアの子会社的な存在。

http://moetama.jp

モ バイルではなくPCブラウザ用なんだけど、さすがにコンシューマーのデベロッパーだけあってアニメ風3Dモデルのキャラクターを育てつつ使役するという、 試み的にはかなり面白くて意欲的な感じですね。自分で育てたキャラでスターシステム的に色々なゲームが遊べるというのは楽しそう。ただ一方向に特化しすぎ てユーザーデータの汎用性が無くなりそうな諸刃の剣でもありますが、たぶんマネタイズがどうだとかいうより前に新しい遊びを提案したいんじゃないかという 風にむやみに好意的に解釈しておきます。

 

6、ニコニコアプリ

これもおそらくPCブラウザゲームオンリー。

http://app.nicovideo.jp

ブラゲでは大手だなあって感じのところが入ってたりしますが、2年くらい前のアニサマでやたら宣伝していた割にはどうも盛り上がっている感じはしない。

ニコ動にくっ付いているメリットが一切生きてなさそうな感じなのは、非同期なのに同期っぽく見せるのがすごいニコ動とガチリアルタイムなブラゲの食い合わせが悪い、ってあたりもあるんじゃないかと思うのですが、やってないので何とも。

 

7、モエゲーム

本当は元祖エロソーシャルゲームプラットフォームなんだけど最近息してなさそうで。

http://moege.jp/s/app/

と 思って久々に見に行ったら普通にアンケートとか取ってて笑った。元々はガラケー時代に未来検索ブラジル(ニワンゴ子会社)が運営してたものが、どういう経 緯かスピンアウトして独り立ちしてモエゲームに。DMMに失敗例を示す礎石的存在になっちゃったんじゃないのか感もありますが、公式Twitter見てる と中の人が健気なのでがんばってほしい。

 

8、ブシモ

期待のニューカマーですね。ブシロードのカードゲーム(紙のほう)戦略って、嫌な言い方をすると「カードゲームの出会い系化」だと思うのです。

僕が小中学生だった頃、カードゲームといえばマジック・ザ・ギャザリングとかモンコレとかで、当然プレイヤー人口の99%が男性。

デュエルスペースのある近所のゲーム屋に行くと、ああオタクだなあって感じの大学生のにーちゃん達が攻殻機動隊読みながら相手してくれるわけですよ。

もうだいたいみんな青黒の性格悪いデッキで、しかもTRPGの変な癖引きずってるから小学生相手にも敬語で打ち消し呪文使いながら「させませんよw プホォwww」とかですから。まあそれはそれで楽しくてああこういう大人になっちゃダメなんだなと思ったらなってた。

今なんか秋葉のそういう店行くと痛カワイイ感じの女子が普通にヴァンガードとかやってたりして歯ぎしりします。女の子多かったら、カッコいいとこ見せようとして強くなるよなあ。

で まあ、ブシロードの社長が常々言っているように、カードゲームというのはコミュニティ性が無ければそもそも成立しないので、そのノウハウだけ追い続けてき た同社にはかなりの地の利はあると思います。そう踏んで相当な資金をぶっ込んでいるようで(まあ同社にはキャッシュフローという概念が無さそうなのでたと え勝算無かろうとも全力投球しそうですが)、オタの客からも舐められないように全部のゲームがネイティブアプリ。さらに自社や自社に関係のある人気IPを 惜しげも無く投入していて、三森すずこも多用。ラブライブは第二のモバマスとなることは出来るのか。

http://www.bushimo.jp

ただ、あの豚の鼻のようなアイコンは何なんだとか言いたいことも色々ある。

 

 

2005 年ごろに出てきた「オタク系SNS」というのももうほとんど死んでるし、あとはエロ絵専門SNS『ニジエ』とかフィギュア専門SNS「Fg」とかは独自色 あって面白いけど、前者は個人運営らしいいし後者は現状ですらサーバーが瀕死だからソーシャルゲームはあり得ないなあ。ユーザー規模も2桁くらい違うだろ うし、そもそもユーザーセグメントとしてあまりにソシャゲに向いてなさそう。

 

最近「黒字化した」って宣言してたGMOのGゲーなんてのもありますが、こちらはプラットフォームだと思っていたらただのゲームポータル。見てると2000年ごろのベクターを思い出す……。

 

コミケットが運営してる作家向けSNSCircle.msがゲーム備えたら面白そうだけど、現状ですらあまり活用されてない感じなのでまあ、無いよな。

エロ系・オタ系だとこんな感じでしょうか。

 

ひょっとすると、同人誌ショップのとらのあなも参入考えてたり……?

http://www.toranoana.jp/mailorder/gen/pagekit/0000/00/05/000000052630/index.html

やるならがんばってほしいですが。

http://www.toranoana.jp/dojin/osirase/20121226_illust/index.html

このへんと組み合わせるとすごいものが出来そうだけど、発狂レベルに複雑すぎて運営が無理だな。

 

個人的には「ゆかし」にソシャゲ付けたらさあ、最高におもろいと思うんですよね。http://www.yucasee.jp

富裕層の課金見てみたいー!

 

 

 

 

 

■おまけ

 

女性向けだと、携帯乙ゲ最大手のボルテージが女子ゲーというのをやってますが、コンテンツ数も少なく盛り上がってなさそう。

http://pf.joshige.jp/

 

オタ女子向けサービスの「フォレスト」とかで有名なビジュアルワークスがBLに特化したゲームPFのBLobby(ビーロビー)をやっている。

http://blby.jp/

 

アリスマティックがフィーチャーフォンの自社コンテンツ「かれぺっと」をプラットフォームにしてその下にほかのコンテンツをぶら下げて運営していたのですが、最近スマートフォンに対応した模様。

http://sp.karepet.jp

ハードウェアとユーザ体験のこと(いわゆるはてなのクソ的な記事)

 ほんの半年前まで、人々は「プラットフォームの制御可能性を高める為には連動したハードウェアの構築が必須」とかドヤ顔でほざいてたと記憶しております。念頭にあったのはiTunesソリューションとiPhoneであって、Amazonの「黒船()」ことkindleであって、だからFacebookさんもハードウェア開発してるんやで、みたいな話を土鬼の聖都シュワでの出来事みたいにひそひそしていました。だからkoboがあんだけクソだったときも、心のどこかでは「頑張ってほしいな」とか思ってた人、けっこういたんじゃないかと思うんですよね。僕は貰って翌日売ったけど。

 それがたった半年でどういうことでしょう。「ハードウェアはプラットフォーム(orサービス)のUXのメタファーである(でしかない)」とかみんな言ってるじゃん。くたたんがそれ言ってた時みんな鼻で笑ってたんじゃないの……?

まあ、iPhone5があれだけ普通だったのと、Wii Uが結構クソ←New!!ってことですよね。

OUYAとか、こんなタイミングじゃなかったら普通にネタ扱いだと思うんだけど。中身Androidだよ? あのコントローラーの形状とか、昔売ってたスライム状の玩具「ギャッグ」のケースを思い出しちゃったんだけど、今ぐぐったら何も出てこなかった。名前記憶違いでしょうか。

 まあそんなわけで、クリスマスだしピクミン信者だし、Wii U欲しいけど、ファームの更新に一時間とか出足くじかれるから買わない。

 腐ってやがる……出すのが早すぎたんだ……っていうクロトワさんの声がまた聞こえる。巨神兵の肩に乗るクシャナ書いたら駿にビリビリに破かれたっていう庵野の挿話も思い出した。「巨神兵 宮崎駿」ってクレジットして、「創造主ばかりが神ではない」って舞城に書かせて林原に読ませたりのあたりが、こう、Q本編よりもよかったです。本編は本編で好きですが。

 

 出社前なのでこのへんで

文学フリマに出てます

明日は

東京流通センター 第二展示場というところで

文学フリマなるイベントがありまして

そこで僕は同人誌を売ったり昼寝をしたりしているでしょう

 

オ-05 中島総研 というサークルです

諸般の事情により

ほとんどブログに載っている内容の再録のようなものになるでしょう。。。

値段は適当に200円前後です

よろしくです

 

微粒子レベルのピコ手なので

まず完売することはありえませんが、

もし完売刷るような事態になれば

 

僕のツイアカ

https://twitter.com/gakushow

 

が「トルティーヤ!」(ボリビアの都市部メスティソの間で「妙だ」の意味」※)

と叫びますので、

そしたら諦めてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※むろんこの部分は事実ではありませんがな。

乙女ゲーというサバルタン 岩崎大介と声優とキャラソンを取り巻く環境について

1、声優の現在
 いきなりですが、男性女性問わず、いまや声優を取り巻く言説環境は、極度に重層化した、ハイコンテクストな世界になっています。
 たとえば釘宮理恵の声は、今となってはもはやその声紋単体で「ツンデレ」以外の何物でもなく、もし釘宮が今さらおしとやかな病弱少女の役にでもキャスティングされようものならDVD及びBD発売時の店頭POPには「釘宮なのにツンが無くてつら……これはいい」とでも書かれるに違いありません。
 また、キャスティング時の声優同士のシナジーにおいても、ブログやTwitterやラジオ等で供給される「誰々ちゃんのおうちにお泊り!」だとか「○○さんっていつもそうなんだよwww」的な交友関係の情報を前提にした設計がなされます。仲の良い声優同士を起用するほうが収録現場も和むでしょうし、それ以上にファン達が、声優同士をなかばセットとして扱い、その関係を常に気にかけておりますから、自然な流れとしてそのような起用方法が一般化してきているのだと思います。一時期の堀江由衣田村ゆかりだとか、その後の田村ゆかり水樹奈々だとか、今ではあまり見ませんが中原麻衣清水愛だとか、男性だと小野大輔神谷浩史だとか、杉田智和中村悠一だとか、男女ペアだと神谷浩史斎藤千和とか、日野聡釘宮理恵だとか。誰しも心当たりのある組み合わせがあるんじゃないでしょうか。
 つまり声優というのは、アニメの作品内世界を音声化する役目を担いながら、その過程でアニメ外での自身にまつわる情報をアニメ内にフィードバックする存在でもあるわけです。「○○という作品において親友同士を演じたあの2人が別の作品で今度は主従関係を……しかもヘタレSと腹黒な手下だと……? ハァハァ」というような見方は、今となってはむしろごく一般的なアニメ視聴の作法であります。


2、役者の中の「声優」
 むろんこれは声優に限らず役者全般に言えることであり、たとえば北大路欣也が小心者の役で映画に出演することなどまずありえないかと思います。これは主に彼の力強すぎる顔に起因するわけでもありますが、基本的に彼はその顔(や芸名)から連想されうる「豪胆な実力者」的な役以外で出ることはまず無いでしょうし、万一彼が気弱な青年……青年はさすがに物理的に無理だわ、気弱な年金生活者の役だとかを演じることがあれば、これは意図的な「ギャップ」狙いの配役ということになります(例えば、ソフトバンクのCMの犬の声なんかがそうじゃないかと思います)。僕は実写俳優にはあまり詳しくないのですが、こんな感じで実写俳優においても、こうした外見的身体的要素だけでなく、声優たちのように作品外での交友関係などが作中に上書かれることが、確かにあるとは思います。ただしそれは、それが声優において行われる度合いに比べればじつにたかがしれているように思います。
 なぜなら声優の場合、声による演技は、顔や外見と違ってある程度随意的に変えられるため、声優は実写俳優にとっての「身体」に相当するものを複数所有することが容易(容易とまではいかないかもしれませんが、鍛錬によって可能になる度合いは大きい)であり、それまでに演じた役(=出演作品から作品外部へ持ち出せるキャラクターイメージのストック)がそもそも多いこと、そして、役者なんだか歌手なんだかラジオパーソナリティなんだかよくわからないという、「声優」という芸能人カテゴリの明らかに進みすぎた局所的マルチタレント化によって、一人一人の声優が保持し作品内に供給することができる情報の属性や種類もケタ違いに大きくなっていることが挙げられます。

 たとえば神谷浩史の役柄を抽象すると「頭の回転が速く警戒心の強い饒舌な皮肉屋だが本当は臆病な強がりで、世間的な感覚を鋭く持ち立ち回りに長ける反面、ピンポイントにどこか大きく抜けたところや致命的な欠陥がある」といったところで、神谷浩史名義で発表された楽曲も基本的にはこのラインを外さないような作詞作曲がなされているように感じます。また、猫好きであることを買われての『ぱにぽにだっしゅ!』猫神様役や、本人の飼い猫の名前と同じ「ニャンコ先生」が登場する『夏目友人帳』に出演したことと、その長期化、『化物語』における羽川に対する阿良々木暦役の演じ方などを以って、総合的に「猫関係の声優」であるような扱いも存在します。
 こうした、複雑なハイパーリンク的コンテクストの重層性こそが、コンテンポラリーアニメの楽しみの醍醐味であり、しかし同時にアニメをもはやバラエティ番組とそう変わらない芸能環境にしてしまっている元凶でもあって、アニメ視聴者諸兄にとって両義的で大変に悩ましい課題であるかと思います。


3、ポルノグラフィと語り、岩崎大介
 さて、そういった現代声優文化を踏まえた上で、男性声優の大きな活躍フィールドの一つである乙女ゲームと、乙女ゲー界で異様な存在感を放つ岩崎大介という人物について見て見ましょう。
 岩崎大介は乙女ゲーメーカーRejet(リジェット)を率いて『スカーレットライダーゼクス』『TOKYOヤマノテBOYS』『Vitamin』シリーズ(これはリジェット立ち上げ以前の作品ですが)などを手がけるディレクターであり、これらの作品の無数のテーマソングやキャラクターソングの作詞も担当しています(完全に余談ですが、ディレクターとしての彼のコンセプチュアリティは、乙女ゲーディレクター時代のぼくのひとつの目標でした)。
 さて岩崎大介という人には、雑誌やblog等のメディアにおける本人の露出過多と自分大好き感(経営と創作の二足草鞋の俺TUEEEE感)、女性向け作品なのに滅却し切れていない男性的感性、一本のタイトルを分割発売する商法、そのわりに最近あまりヒットに恵まれていない商業的実績、ときに訴訟モンだろこれってくらいの露骨すぎるインスパイアっぷり……などから批判者やアンチも多いわけなんですが、彼のメディア露出にはもっと分析的な目が向けられてもいいんじゃないのと思うわけです。岩崎大介の言動は、乙女ゲーという、酷く汚い言い方をすれば「オタク女性向けの間接的/代用ポルノグラフィ(というか時としてオタク女性用ポルノそのもの)」であり、しかしポルノ的効用を持つプロダクトの中でも、ヘテロであることでむしろ主流(主流とはつまりBLです)を外れた「マイノリティ」であるもの、ポスコロ的な言説を弄するならいわばサバルタン(=自らを語る言葉を持たないもの)とも言える乙女ゲーの世界において、例外的に表出し顕在化した言説だからです。

 男性向けポルノにおいて、「日活ロマンポルノはエロという様式美を借りることで却ってあらゆる前衛的・批評的な表現を可能にし映画藝術の開拓者になった」だとか、「2000年代のエロゲーは可塑性と不可塑性が入り交じったゲーム内世界に没入することの実存不安に対する自己言及として自覚的なループ構造の導入という文学的転回をもたらした」というような、充実した分析(という名の自画自賛でもある)が溢れているのは、それ自体が社会のジェンダー的構造、ジェンダー的抑圧に基づくわけですけれども、その構造への敏感さを自認する諸般のジェンダー的研究が、乙女ゲー分析においてはパッとしないというか、乙女ゲーというものの存在を等閑視しているのは片手落ちの感があります。
 通常は抑圧されているとされる「女性の(による/ための)性的言説」それ自体は、多くの社会学的な目線での性的メディア分析(つまり、多かれ少なかれジェンダー的視線を内在した、サブカルチャー研究)の対象とされています。レディースコミックやTL(ティーンズラブ…若年層向けの性愛コンテンツ)を含む少女漫画、ドラマ、映画、ファッション雑誌などのジェンダー的分析ですね。しかし、言うなればこれらは「女性一般」のための性的メディアであります。ではポルノグラフィに高い文脈性を求めるオタク女性向けのメディアを対象とした分析はどうなのかといいますと、これは一目で分かる異形性(ヘテロ視点で)と市場規模から、もっぱらBLのみが有難がられて研究されているという現状があるかと思います。まるで研究者達が口を揃えて「オタク女のヘテロ性愛など分析に価しない」と言っているかのようにも見えます。そこには「オタクの女はみんなBLにしか興味がないし、それ以外に興味を持つべきではない」というような、オタク女性たちが自らに課した規範的空気すら感じられます(「ホモが嫌いな女子なんかいません!!」)。都市伝説レベルでは、腐女子による抜け忍狩りなども聞いたことがありますぞ。まあこれは冗談だとしても、オタク女性という少数派のなかの、さらに少数派である「二次元(準)ポルノにヘテロセクシュアリティを求める女性」なんか絶対数が少なすぎて「研究」としての一般的妥当性を欠くとか、あるいは業績的収穫が少なそうだからやりたくねー、という事情もあるのかもしれせん(とはいえ僕も血眼になって探したというわけでは無いので、すぐれた先行研究をぼくが見落としているだけという可能性も大いにあります。最近では谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』という作品のような言及も見られますが、この作品は「喪女」という<安全な女>に対して注がれる男性の性的視線に寄り添ったものと言えますし、色情狂じみた少女というのも、その対象がもっぱら二次元のイケメンに注がれているという点さえ除けばむしろエロマンガ的文脈においては古典的であり、「その点」には本質的な差異はありません。つまり単なる「喪女萌え」マンガだし、もっと抽象すれば「えっちな女の子大好き!」というだけの話です。この点では亜樹新『フェティッシュベリー』などがかなり鋭く切り込んでいる数少ない作品ではないかと思います)。


4、岩崎大介と「意味の過剰」
 そんな状況ですから「盛んに自己言及する乙女ゲー提供者」という岩崎大介が非常に例外的な存在である、ということは段々お分かり頂けてきてるんじゃないかと思います。

 さて、作詞家としての岩崎大介の特徴です。
 第一に、露骨なエロ。ただし、ヘテロなエロを志向しているにもかかわらず、むしろ聴き手の気恥ずかしさを逸らす目的で同性愛的な読み替えも可能なエロ表現(ただしこの同性愛的な逸らし方は本人の意向なのか、共同作詞者である栄裕美子の手腕なのかは不明です)。
 第二に、ジャニーズやヴィジョンファクトリーの男性アイドルの影響を感じさせる、ルビ・当て字・連想・ダブルミーニング、略称・略語・極端な口語やスラングなどによる言葉遊び、日本語と英語がちゃんぽんになった極めて日本語的な(外来語を積極的に取り入れることはむしろ日本語の特徴です)語呂合わせや押韻、対比……などの修辞法による、「意味の過剰」が見られること。
 第三に、この意味の過剰による1曲ごとの絶対的な歌詞分量の増加が、ラップやセリフの明かな多用を惹起していること。

 ……とだけ言われても大概の人は「は?」って感じだと思いますので、僕の申し上げていることが伝わりやすいと思われる歌詞を引用してみましょう。『スカーレットライダーゼクス』のキャラクターソングで、ヨウスケ (CV鈴木達央)とタクト (CV宮野真守)によるデュエット『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』の、ラップ部分です。


ヨウスケ:L.A.GでHUG 愛のSPLASH 接吻[キス]で殺す炎天下
タクト:我慢限界FULLでスロットル? ストロベリィなSmileでBreak a 紅夜[スカーレット]
ヨウスケ:What Your Name?からBed Inまで キミとBeyond Beyond タイトにRide on
タクト:真夏の戦場[サマースクリュー] いわば 煩悩だらけ 狼に「変身!」で奪っちまわNight
ヨウスケ:EveryTime EveryWhere 愛[ラヴ]なJUICEを何回MIX?
タクト:108[ワンオーエイト]? Not 1008[ワンオーオーエイト] とにかくキミがほしいだけ
ヨウスケ:Ah,Motto! 悩ましげに
タクト:Ah,Zutto! 振りきってよ
ヨウスケ:オマエの声[ボイス]
タクト:脳溶解[メルトダウン]
ヨウスケ:もう何も?
タクト:いらない?
ヨウスケ&タクト:Just Feel It 「……愛してくれないか」(※セリフ)


 イカレてますねぇ。一応解説しますと、「L.A.G」は主人公達の所属するヒーロー組織(とかその基地)の名前ですが、床に敷かれた「ラグ」とのダブルミーニングであり、床でもつれあったまま交わされる衝動的なセックスの隠喩ですし、「我慢限界FULLでスロットル」は性交中の動作の表現と思われますが、それをヒーロー達がバイク(作中での呼称は「フェイザー」)に跨がるイメージに重ねています。いちいち解説するときりがないのですが、この調子で全編にレトリックが張り渡されているのがお分かりいただけるんじゃないかと思います。そしてこの歌詞はヒロインがヨウスケとタクトによって取り合われる(あるいは複数人との同時性交を享受する)描写とも取れますが、部分的には、ヨウスケとタクトのヒロインを介さない攻撃的な同性愛的関係に読み替えることも可能かと思います。ちなみにタイトル『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』というの発音は「あいのぜろきょりしゃげきらぶしゅーと」ではなく、「らぶしゅーと」だけが正しいのです。なぜなら「愛の(LOVE)」と「0距離(ラブ)」が掛詞となっていて、「射撃」に相当する語が「shooooot!!!!!」だからです。

 あるいは、たとえば『VitaminZ』のオープニングテーマであるキャラクターソング『絶頂[クライマックス]HEAVEN』において「教室(batle field)」と打たれたルビは、『月華繚乱ROMANCE』のオープニングのキャラクターソング『Crazy 4 Me』では「教室(Jail)」になります。同じオブジェクトをバックストーリー設定によって読み替えているわけですが、岩崎歌詞においてはこれらは単に最初からカタカナや英語で「バトルフィールド」「ジェイル」と表現すれば良いというものではありません。同じ「教室」というオブジェクトが『VitaminZ』のキャラクター達にとってはヒロインを巡っての「バトルフィールド」であり、『月華繚乱ROMANCE』のキャラクター達にとっては「飛び出」すべき「ジェイル」である、という意味の複数性こそが問題なわけです。これらの二曲において「教室」がルビによって読み分けられている一方、「絶頂(クライマックス)」というルビは両方に共通して用いられています。ストーリー上『VitaminZ』と『月華繚乱ROMANCE』は世界観を共有していることも特に無い為、これらの2曲を縦貫する共通項は岩崎大介だけであり、これらの共通するルビと共通しないルビ両方が混在しているという事態は、岩崎による自作の刻印のようでもあります。

 このようにして岩崎ワールドにおいては一つの言葉が複数の意味を持ち、拡張された意味はそれぞれ別の連想を次々と呼び込み、相互に参照し合い、しばしば岩崎大介本人にも制御や切り分けが不可能なほどの強度で増殖します。その結果「一曲分のコンテクストなのに一曲に収まり切らない分量で、しかも少しでも削ると意味が成立しない」という謎の歌詞が生成されているかのようですが、収まらなくなった部分はメロディパートに乗せず、セリフとして独立させて、もしくはラップとして凝縮してでも採用されることになります。
 ラップそのものについては既に上で引用してしまっていますが、この、過ぎた饒舌によるラップの多用は、第三の特徴と位置付けることができます。同様に、ダブルミーニングやルビを伴わない即物的な言表は、メロディを伴わずラップでもない独立したセリフの形で、これも頻繁に入れ込まれます。「もう離さない」「恥じらってんじゃねぇよ」「教えてくれよ」「愛してくれないか」「楽しもうぜ」「これからだろ」「分かってんだろ?」「かかってこいよ」等々。
 勿論、キャラクターソングというもの全般が、声優のポピュラリティに強く依存したプロダクトであり、音楽自体を主体とした「一般的」な音楽商品ではまず用いられない、セリフという表現形式が用いられているという側面もあるのですが、岩崎大介の歌詞におけるセリフの登場率は、キャラクターソング市場全体から見ても顕著な高さを示しています……というかセリフ無しの楽曲がそうそう思い当たらないくらいですし、ラップの採用率はそれ以上に有意な高さを見せています。
 そして前掲のように、岩崎詞の真骨頂はデュエット曲にこそあり、二人の声優が「意味の過剰」をポリフォニックに間断なく浴びせかけてくるさまはそれだけで圧倒的なのですが、注目すべきはそのデュエットの声優の組み合わせがほとんど何の文脈性も具えていないことです。たとえば前掲の『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』における鈴木達央宮野真守という組み合わせの間には、この論考の最初に述べましたような<多層化した、ハイコンテクストな世界>というものが、私の思いつく限りではほとんど存在しません。それはまるで、歌詞外にある既存の声優文脈や情報の持ち込みを遮断するためにそうしているかのようです。


5、『うたプリ』における外部文脈挿入
 作詞においては技巧の限りを尽くして多層的な言語/音声的表現を追究している岩崎大介が、アニメ/声優周辺でごく一般的に行われている<作品外からの「持ち込み」による意味の多層化>は断固として拒絶している、という状況は、少し奇妙に映らないでしょうか。
 これと真逆の例として、乙女ゲー発のコンテンツでありながら、乙女ゲープロパーのユーザー以外にも広くリーチした『うたの☆プリンスさまっ♪』というタイトルがあります。『うたプリ』はアイドルになることを目指して早乙女学園へ入学してきた少年たちとヒロインとの恋愛をテーマにしていますし、早乙女学園を経営している人物・シャイニング早乙女が名前からしてどう考えてもジャニー喜多川を元ネタにしていることから始まって、音楽的にもジャニーズ事務所などが作り上げてきた男性アイドルの様式美の上に成立しており、その意味では岩崎大介同様、借景的世界観にある程度依存したコンテンツではあるのですが、その上に構築されている情報環境の様相は岩崎大介作品のそれと大きく異なっています。
  率直に言いますと、『うたプリ』においてはまず作中の男性キャラクター同士の関係性に大きなウエイトが割かれており、さらにそこには、そのキャラクターを演じている声優同士の、作品外での関係性がある程度反映されていると見ることができるのです。実例をご覧頂くのが最も分かりやすいかと思いますので、以下に具体的に引用して参りましょう。

 この作品で初期からメインを張っているのは、

 

Aクラス
一十木音也 (CV寺島拓篤)
聖川真斗 (CV鈴村健一)
四ノ宮那月 (CV谷山紀章)

Sクラス
一ノ瀬トキヤ (CV宮野真守)
神宮寺レン (CV諏訪部順一)
来栖翔 (CV下野紘)

の6人のイケメン高校生ですが(現在はアラブ人が攻略可能になったり先輩とか白人とかいろいろ出てきてます)、デュエット曲やドラマCD、グッズ展開、版権イラストなどではもっぱら、

Aクラス           Sクラス
一十木音也 (CV寺島拓篤)と一ノ瀬トキヤ (CV宮野真守)
聖川真斗 (CV鈴村健一)と神宮寺レン (CV諏訪部順一)
四ノ宮那月 (CV谷山紀章)と来栖翔 (CV下野紘)

の2人ずつの単位で扱われます。現在となっては追加メンバーを加えた派生ユニットの楽曲や、ユーザー投票によるシャッフルユニット企画なども持ち上がっていますが、楽曲面以外も含めればこの2人単位を重視する方針は今も変わっていません。
「ハート」を重視する感性派の一十木音也と完璧主義な理論派の一ノ瀬トキヤ、どちらも名家の生まれで幼馴染み同士でありながら融通の効かない聖川真斗と絵に描いたようなチャラ男の神宮寺レン、6人中最高の身長(186cm)で一見乙メンだが眼鏡を取ると凶暴化する二重人格の四ノ宮那月と、低身長と可愛い外見がコンプレックスのオレ様キャラで実は双子の弟がいる来栖翔……と、キャラ設定もおそらくはこのツーマンセルをある程度前提として対照的に考案されています。
 次にこれらキャラクターに割り当てられている声優について見てみましょう
 一十木音也役の声優寺島拓篤はいわゆる「オタクが高じて声優になった」パターンで、ギャルゲーをこよなく愛し、キャラクターソングでは歌唱力は二の次とばかりに、役に入り込んで歌います。『うたプリ』で一十木音也として歌う際の無邪気で開放的な歌い方と、『ルシアンビーズ』のジェシー役として歌った、RIZEを思わせるダミ声のミクスチャーロック風楽曲『ガチンコfreedom』、『月華繚乱ROMANCE』の鹿野葵役での耽美な一昔前のV系風楽曲『Crazy 4 Me』、ユニット「G.Addict」でアルビレオとして歌う際の、R・O・Nなどが手がけるデジロック風味楽曲、『猛獣使いと王子様』シルビオ役での『Hello again』……これらはどれも全く違っており、寺島はじつにオタクらしく「キャラソン」本来のミッションに忠実であると言えます。
 一方、音也と対になるトキヤ役の宮野真守は、幼少から劇団ひまわりに所属し、実写や舞台でのキャリアを積んできたいわゆる「リア充」「パンピー」サイドの声優です(ちなみにデキ婚という点でも「リア充」「パンピー」的です)。乙女ゲーにも多く出演していますが、キャリア上の代表作は(腐女子向け魔改造が施された『00』だとはいえ)『ガンダム』や、『ウルトラマン』シリーズに連なる『ウルトラマンゼロ』、『デスノート』『ポケットモンスター(ベストウイッシュ)』といった、いわゆる「権威」のある作品の数々です。声優というものに興味が無い人にも、出演情報をもとに宮野のことを説明することは可能ですが、寺島を説明することは非常に困難です。基本的に、寺島の出演作の名前を聞いてピンと来るような人は、そもそもてらしーをよく知っているオタクです。
 寺島も2012年6月にソロ名義のアルバム『NEW GAME』での歌手デビューを果たしていますが、先行する宮野は現時点でソロ名義でのシングルを7枚、アルバムを3枚リリースするに至っています。宮野は、トキヤのキャラクターソングでは確かに神経質で完璧主義を匂わせる歌唱をしているものの、それをソロ名義での楽曲と比較した場合――これは私的な印象となってしまいますが――少なくとも寺島拓篤ほどの歌い分けが志向されているようには感じられません。
 勿論宮野もプロ中のプロですから、『STAR DRIVER 輝きのタクト』ツナシ・タクトのキャラクターソング『First Galaxy』においてはトキヤよりは朗らかな歌い方が志向されていたり、『デュラララ!!』においておそらく「カラオケに行った紀田正臣」の設定のもとで歌われているTHE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』で確かに高校生のカラオケらしい微妙な力みなどが表現されていたり、『桜蘭高校ホスト部』の須王環役での『GUILTY BEAUTY LOVE』では環の脳天気なナルシシストらしさが表現されてはいるのですが、そうは言っても本人の安定した高音域と伸びやかなビブラート(通称マモラート)を活かした歌唱というラインは外さず、基本的に宮野真守は何を歌っても宮野真守です。これはキャラクターソングでもノンタイアップでも同様で、先天的な本人の声質や音域という物理的諸条件に規定されている部分が少なからずあります。
 こうした「一般人」的出自と、生得的な歌唱(ごく普通に歌を上手く歌う)の性質の両方から、宮野の音楽活動のコンセプト自体も必然的に「リア充」的なものになります。彼のソロ音楽活動の「一般人っぽさ」を物語るエピソードとしては、ソロ出演した2011年のアニメロサマーライブが挙げられます。ここで彼は、韓流っぽさも感じさせるR&B~ハウス風味のノンタイアップアルバム曲『BODY ROCK』を披露し、ごく一部の熱心なマモラー以外にトイレ休憩を提供しました。ちなみにこの曲の作曲者は、EXILEなどにも楽曲提供をしているSTYという人物です。直前に歌った『うたプリ』OPの『オルフェ』や、公演後半で『デュラララ!!』OP『裏切りの夕焼け』を谷山紀章とデュエットで歌唱した際には会場を大いに熱狂させていただけに、『BODY ROCK』での水を打ったような静まり方は多くのオーディエンスの印象に残りました……。
 『うたプリ』内で常に対として扱われ好対照を見せている音也とトキヤにおいては、その中の人(=『うたプリ』世界外存在)である寺島と宮野の対照性もまた、視聴者が参照するべき多重的な情報の1つとして存在しています。

 同様に、聖川真斗役の鈴村健一と神宮寺レン役諏訪部順一の関係性を見てみましょう。『うたプリ』以前から鈴村と諏訪部は「謎の新ユニットSTA☆MEN」(※全角表記が正式)の中核メンバーとして長期的に活動しており(まあ、活動自体は断続的なんですが……)、STA☆MENの結成は、方々で鈴村が吹聴していた(とされる)ユニット結成計画を酔った諏訪部がブログ告知したことで実現したとされています。呑気で楽観的なレンを真斗がブツクサ言いつつ教導するような『うたプリ』作中での二者関係は、STA☆MEN結成エピソードの反転図にも見えます。こうした関係性を反転・複層化する要素が、乙女ゲーである「うたプリ」が腐女子にも人気を博す原因の一つにもなっているのではないかと推測されます。

 最後に四ノ宮那月と来栖翔のペアですが、ゲーム内においてマイペース(眼鏡装着時)な那月に翔がキレツッコミを繰り返す関係は、来栖翔役の下野紘が日頃谷山紀章にいじられるままキスマークまで付けられるような関係の変奏として見ることが可能です。また、歌唱力において下野紘は下手とまではいかないまでも上手いとも言いがたく、少年を思わせる声質をしていることもあって役になり切った「音痴もの」のキャラクターソングを何度も歌っています(『みつどもえ』の矢部智『わが名はチェリーボーイ』、『神のみぞ知るセカイ』における『集積回路の夢旅人』桂馬ver.、『かんなぎ』での御厨仁役でのカラオケシーン等)。
 対して谷山紀章は、飯塚昌明とのユニットGRANRODEOとして華々しくミュージシャン活動を繰り広げており、現時点でシングル17作、オリジナルアルバム4枚(秋にはさらに1枚出ます)を数え、日本武道館や各地のZEPなどでの無数のライブをこなし、声優業界で1、2を争う(とされる)歌唱力を前面に押し出していますが、宮野真守以上の「誰のキャラソンを歌っても紀章にしかならない」感から、谷山の歌唱法を敬遠する人が多いのも事実で、地獄のミサワカッコカワイイ宣言!』のWEBアニメにおける蒼夜薫への谷山のキャスティングはこうした文脈を踏まえてのメタ的なキャスティングであるとすら言えます。
 このように<歌はさほど上手くないがキャラになり切って、時には音痴にすら歌う>下野と、<抜群の歌唱力だがキャラソンがキャラソンらしくない>谷山の対照性は、先述した寺島・宮野の対照性と同質のものですが、程度においてはそれを上回っていると言えるかもしれません。
例えばアニメ版6話では、谷山演じる那月(正確には眼鏡が取れた「砂月」)は、トキヤの失敗したライブステージを乗っ取り、例の、完全に谷山紀章そのものとしか言えない歌唱(曲は『オリオンでSHOUT OUT』)を見せつけます。
 このシーンは、自分の古いキャリアであるHAYATOを「双子の兄」と偽っている、つまり制度的な二重人格者であるトキヤ/HAYATOを、トラウマに由来する「真性」の二重人格者である那月/砂月が攻撃するという、うたプリ内に張り巡らされたコントラストとコンテクストが一段と複雑化する大変面白いシーンです(ちなみにストーリー的にはかなりクソな場面です)。
 このように『うたプリ』においては盛んに作品外の文脈が作品内に持ち込まれ、熱心なファンの間ではそれらの情報と作品内の設定を照合して楽しむ岡田斗司夫的な営みが行われております。


6、セクシャルな語りへのジェンダー的抑圧
 ここで挙げた「うたプリ」は、アニメ化作品であり、おそらくは当初からアニメ化を見込んでの企画であって、乙女ゲー市場の中でもどちらかといえば外部文脈の持ち込みの度合いが高い作品ではあります。一般論としては、乙女ゲー全体においては、おそらくアニメほどには、<作品外からの「持ち込み」>は行われませんが、ただ岩崎大介の場合は、作品全体のコンセプト自体は露骨な借景である(たとえば『SRX』は、「変身ヒーロー」という現在では一般化したテーマを扱っているとはいえ、名前からも分かるとおり実態としてはぶっちゃけピンポイントに平成仮面ライダーそのものですし、そもそもリジェットのキャラクターソングにおいて多用される、時に露骨にセクシャルな表現を行いつつもそれを男性同性愛的なニュアンスでズラしてゆく手法自体がジャニーズ事務所の長年のマーケティング成果の横取りと言えなくもありません)という事情を踏まえると、作品のマクロな設定においては他文脈からの借用を多用しますが、それと対照的に、ミクロな設定においては他文脈の持ち込みを行わないのが岩崎大介の特長だと言えます。
 つまり岩崎大介は、着想においてはパクリと言われても仕方がないようなネタの引っ張り方をしますが、そこから先は完全に自分のフィールドとして閉め切り、ほとんど独善的なまでに「自作」であることに拘り、外部の文脈の侵入を許しません。このような事態を指して、僕はリジェットのプロダクトにおいては<岩崎自身が表現しようと意図したもののみが表現されること>に心血が注がれていると言うこともできるかと思います。この迸ったエゴが岩崎大介の魅力でもあり、しかし「一緒に仕事する人は大変だろうな……」という思いも抱かずにはおれません。
 でもなぁ。岩崎の手を離れてyura(アイマスの作詞の人です)が手がけるようになったアニメ版Vitaminの歌詞には「キレイに作ってんじゃねェよ……」と、それこそ岩崎大介が入れるセリフのような感想を抱いてしまうんですよなぁ。

 繰り返しになりますが、乙女ゲー周辺においては、ジェンダー構造的に「語り」は抑圧されています。研究者の目が向けられないというだけでなく、同じオタク女性の中でもBL愛好者の女性からは、乙女ゲー愛好者やドリーム(登場人物名前を自由に設定できる小説)の愛好者はしばしば「女々しい」感性として、逆説的ですが、じつに「マッチョ」な差別を受けます(男性同性愛ドリームについてはどのような扱いか僕には不詳)。一時期Twitterで流行した「ホモォ」連呼が、オタク内あるいはWeb上で性癖においてもはや多数派を勝ち取ったことを高らかに顕示する、ファルス的な欲望に駆動された「環境型セクハラ」とどう違うんだろうねえと僕は思いました。これは「BLが家父長制的な規範を一見それと分からない形で保持していながら、同時にその書き換えを予期したものである」というような、能天気なクィア・スタディーズ的「解放理論」からすら決定的に後退した、単純な男性原理の内面化でしかないように僕には見えてしまいました。とにかく、乙女ゲーには語る言葉、語られる言葉が無い。あるいは極端に少ないというのが僕の印象です。
 岩崎大介が男性であること(社会的に男性であることそれ自体と、さらにいえば男性的男性であることから帰結する旺盛な自己顕示欲)は、エロ歌詞という形を取ってのセクシュアリティへの言及に、例外的に豊富な語彙をもたらしていると言えます。しかし、やはりどこまでいっても彼は男性であり、そのうえ乙女ゲー一般の話に敷衍することができない独自性まで備えてしまっています。それをこのようにドヤ顔で指摘して書き散らす僕もまた男性的男性であり、「乙女」としての乙女ゲーマー自身と、「乙女」がプレイするものとしての乙女ゲー(男性の手による商業娯楽、という意味付けを問わない位相での「乙女ゲー」)は、いまだ語るべき言葉を持たないサバルタンのままなのでありますが、そこに語られる言葉があるべきだというような僕の考えそのものが、とことん男性的なお節介であり、当の乙女ゲーマー的には静かに暮らさせてくれよという感じだとは思います。


 今回の論考の概案自体は数年前から持ち続けていたものですが、このたび言語化しようと思い立ったのは昨日『月華繚乱ROMANCE』のOP曲『Crazy 4 Me』を聴いて久々に血が滾ったからであります。※試聴

まあ黙ってこれ聴けや。かっこいいよね。
僕も「恥じらってんじゃねェよ……」とか言ってみたい(アスナに対して)。
 そういえばアスナって乙女ゲーとかやるのかな……普段ゲームはしないって言ってたけど、ガラケー時代はそういう人でも携帯アプリの乙女ゲーの二三はやってるものだったし、何しろ恋に恋する年代やからな……。

アクセル・ワールド試論 ハルユキの3人の母と3人の父、合計5人の親たち

0、序論
 今から述べることは、「こういうオチだったら嫌だな」という話なのですが……『アクセル・ワールド』を読んでいる間、我々は「加速世界」をリアル世界の上に貼り付けられたARだと思っています。つまり加速世界は「リアル世界」にとっての付属物、世界内世界、ミニ世界だと思っています。
 しかし、作品内の「真実」としては、実は「加速世界」こそが物理的な現実(かりに「真実世界」とでもしましょう)であり、登場人物達が「リアル世界」と呼んでいるものこそシステムが作り出した夢、「減速世界」でしかないとしたらどうでしょう。「減速世界」の中では、人々の行動には多くの制約が付きまとい、その制限を解除して一時的に加速世界=真実世界に戻ってこられるのは、ブレインバーストという特権を手にしている一部のアカウントのみ。人類が「減速状態」から開放され、「真実世界」に回帰できるかどうかは、バーストリンカー達が現実=加速世界のどこかにいるこのシステムの管理者を探し出し、それを倒せるかどうかにかかっている……。
 なんでこんなこと考えたかというと、ざっくーーりまとめると、まず『AW』を同じ作者の『ソードアート・オンライン』と比較してもしなくても、『AW』における家族の扱いというのはかなり特徴的で、それについて考えるうちにそれが『AW』において加速世界およびデュエルアバターとは一体何なのかという思考につながってゆき、それが「外部」の存在と、そこへの到達可能性を示しているのではないか、という結論に至った、というような感じです。めっちゃ長いんですが、なるべく噛み砕いて書いた結果なので、読んでいただけるとありがたき幸せ。じゃ始めまーす。


1、アクセルワールドにおける家族
 『アクセル・ワールド』において、主人公ハルユキの母と父は、それぞれ3人のキャラクターに分裂しています。っていきなり何のことやら、とうとう気でも違ったか! 噛み砕いて書いたってのは嘘か! という感じかと思いますが、この作品を読み進めて行く中で、僕の中にそのような印象がどうしても拭いがたく生まれてきたので、この論考ではとにかくはじめに、『AW』における家族の表象を扱ってみたいと思います。僕の川原礫作品知識は現在、『アクセル・ワールド』文庫5巻とアニメ12話、『ソードアート・オンライン』文庫2巻とアニメ2話まで、というところなので、ひょっとするとこの先読み進め・見進めて行くうちに、僕の今の印象を完全破壊する展開が待っているという可能性もあり、そうなってくれるとむしろありがたいのですが、とりあえずは今の時点での僕の所感を理論化してまとめていきます。
 以前、別の論考で述べましたように、アニメ、ゲーム、ライトノベル的な世界では、家族というテーマは殊更重く扱われるか、もしくは等閑視されているかの、顕著な二極化傾向があるのではないかと思います。同じ川原礫作品の『SAO』においても、家族の扱いはなかなかに重いのですが、『AW』において「家族」が果たす象徴的な意味の重さは『SAO』におけるそれの比ではありません。あとはじめに断っておくと、僕は「だからSAOよりAWのほうがすごいのだ」などいうことは全く考えていません。だいたい黒雪姫よりアスナだし。


2、ソードアート・オンラインにおける家族
 『SAO』において、キリトとアスナはそれぞれ現実の家族関係に難を抱えています。キリトは家族内で自分だけが両親の実子ではないこと、そのことを(「両親」はいずれ明かす予定だったとはいえ)隠蔽されてきたこと、そして優秀でかつ血の繋がりのない異性である妹への接し方などに悩んでいます。いわば、「家父長制のもとで家長として家を背負って立つ者の資格」を全て剥奪されたような状態にあります。同様にアスナは優等生であれという両親の期待が重圧となり、「期待に応えられなければ棄てられてしまう」という、AC的な強迫観念と抑圧のもとで引っ込み思案になってしまった、と自ら述べています。さっそく余談ですが、このACっぽさに由来する説明がアスナから若干の神秘性を奪ってしまっているとはいえ、それが帰結する健やかな前向性のヤンデレ具合のもとに満を持して放たれる「キリト君が帰ってこなかったら、わたし自殺するよ。もう生きてる意味ないし、ただ待ってた自分が許せないもの」の一言が持つ視野狭窄な怜悧さは、このところ僕をハルユキのアバターなど比較にならないくらいのガチ豚に変えつつあります。

 無論、(作品外の)現実世界において、家族関係に何らの問題も抱えていない人のほうが少ないわけですが、フィクションの世界においては描写されないものは存在しないものなのであって、『SAO』においては2人がともに(アインクラッド外の)現実の家族関係に悩みを抱えているという事実は、2人が恐ろしいほど前向きにゲームの中で「結婚」し家族となる展開の下支えとして存在しています。アスナのキャラクター造形は、今どきのラノベとしては(SAOの初出が「今時」なのかどうかは微妙になりつつありますが)むしろ例外的なくらい「家庭的」で、料理が上手く、武装においても女性らしさを忘れず、身持ちは堅いが「亭主」に対しては2秒で股を開くという、実に 「良妻賢母」的なものとなっています。「安直だなあ」と思いつつも、まだ幼い2人が現実世界における互いの家庭内喪失感を埋めるようにアインクラッド内では全力で求め合い、同居し始めたその日のうちに速攻拙い性交に及ぶ展開(すみません16.5話読んだの黙ってました。あれヤバかったです)は、読んでいて微笑ましくも気恥ずかしくもあり、そして思い返すだけで今日も奥歯が3ミリくらい磨り減る羨ましさなわけですが、そんな時は三木一馬の顔写真でダーツでもやることで気分を鎮めまして、『AW』の話に移行しましょう。


3、アクセルワールドにおける親
 『AW』を読んで、僕は家族にまつわる場面で、奇妙な心証を何度も受けました。それは特に次のようなものです。

・ハルユキの母親(有田沙耶)が、不自然なほどに登場しない。にも関わらず、その存在自体には、やはり不自然なほど頻繁な言及がなされる。
・ブレインバーストへの勧誘が「親子」のメタファーで語られ、BB内での「親子」関係に関する度重なる言及があり、その都度「親」「子」という言葉が連呼される。

 『AW』は、現実世界において父を持たず、母子関係にも恵まれているとは言いがたいハルユキが、加速世界における「親」である黒雪姫の後を、傷だらけになりながら縋るように追いかけ続ける話なわけです(この点で、アニメ1期のED映像は涙無しには見られませんでした)。黒雪姫自身が「加速世界における『親子』は血よりも濃い絆で結ばれている」的な発言をしていることも象徴的かと思います。これらの本文中での明確な言及だけでも、『AW』における「現実世界の『本当(血縁的な意味で)の』親」と「加速世界の『本当(実存的な意味で)の』親」という、それぞれ違った意味での「本当の」「親」、2種類の親をめぐる話として整理することができるのですが、僕はこれだけでは飽き足りなくなるような、奇妙な印象をもう一つ受けました。それは

・1巻において、ハルユキを取り合う黒雪姫とチユリの対立が、女同士での男の取り合いでありながら、部分的にはまるで教育方針をめぐる夫婦喧嘩のようにも見える。

ということなのです。これは完全な印象論なので、読む人によっては「ハァ? こいつ頭おかしいんじゃねえの?」って感じかとも思いますが、僕には、完全に的外れであるとはどうしても思えなかったのでした。その理由は以下のようなものです。
 黒雪姫は、ハルユキとチユリの間に、<お互いを異性として意識している気配>を嗅ぎ取って警戒します。この警戒は、無論黒雪姫がハルユキに恋していることから、チユリを「恋のライバル」として警戒している、ということなのですが、しかしその警戒が、現実にはどのような言表を取ったでしょうか。黒雪姫は、「チユリはハルユキを『(ブレインバーストでの)子』にしようとしていたのではないか」と警戒したのです(1巻P150)。ストーリー上、実際にはチユリはBBのことなんぞ1ミクロンも知らないただの短気なJCであり、黒雪姫の懸念は的外れもいいところなわけですが、このシーンは黒雪姫の「性愛関係の相においてはチユリからハルユキへの恋心を警戒し、ゲーム内覇権の相においてはチユリとハルユキの親子関係化を警戒する」という、二つの意味合いの「警戒」が重なったシーンです。そしてこの「二つの警戒」は、それぞれ位相を異にしながらも完全には分離できません。つまり「(異性として)好きだから、(ゲームにおいて)『子』にする/したい」という、性愛関係と利害関係、配偶関係と母子関係のマトリクスが溶け合った状態にあるわけですね。だから、下校時の黒雪姫とチユリの言い争いは、少なくとも黒雪姫にとっては「親VS親」の戦いという面があったわけです。
 では、その「親VS親」の諍いが、僕にとって「母VS母」ではなく「母(チユリ)VS父(黒雪姫)」に見えたのはなぜでしょうか。
 ここで表題に掲げた、「ハルユキの3人の母と3人の父、合計5人の親たち」というふざけたフレーズに繋がっていくのです。どういうことか説明させていただこうと思います。
 まず、「ハルユキの3人の母」とは、有田沙耶、黒雪姫、チユリの3人を指します。
 そして、「ハルユキの3人の父」は父(母と離婚し別居中、名前不詳)、タクム、黒雪姫の3人を指します。
 黒雪姫が2回出てきてんじゃねーか。
 そうです。だから「合わせて5人の親」なのです。なんということでしょう!


4、精神分析という考え方について
 ここでいう「父」「母」は、いわゆるフロイト的な「精神分析」というやつに立脚したものです。そして、父と母それぞれが3人ずつになっているのは、ラカンのいう「現実界」「象徴界」「想像界」という分類に基づいています。はい、一気に胡散臭くなってまいりました。
 なぜフロイト的な解釈をするのか、そしてフロイトを元にさらにへんてこにしたラカンの図式を、無批判に、それもこんなにざっくり使うのか、といった非難が当然ありうるかと思います。映画や小説のフロイト的読解、という営みには前例が多くありますが、よく行われていることだからといって批判を免れるわけではありません、当然。その批判はまったくその通りであります。
 しかし前述のように、僕が『AW』を楽しむ上で、なぜかもやもやと引っかかった感覚を、これらの図式に当てはめて整理してみるとなんとなく納得できるなあ、というような感じがあったことと、そもそもブレインバーストの設定自体が、<睡眠中に脳を走査し『劣等感』を濾し取ってその陰画としてのデュエルアバターを生成する>というもので、<無意識の反映>が振る舞いの全てを規定するというフロイト的な精神分析理論をある程度肯定しているように思えることから、このような論展開もそこそこ説得力のあるものとして書けるのではないかな、と思った次第なのであります。

 少し話が逸れますが、ブレインバーストに関する説明は、それが<神経接続された機械の内部で行われる情報処理>という意味で生理学的な、「科学的」なものとしてなされているのですが、同時にその理論(アバター生成方法など)はほとんど精神分析そのもの(にしか見えない)という、こう言って差し支えなければ、「理系」と「文系」の奇妙な野合によって成立しています(精神分析は時として「科学」を自称しますが、それは「科学」概念自体の変容を迫ってのことであり、少なくとも精神分析は贔屓目に見ても狭義の「自然科学」には相当しませんから、それはこの際置いておきましょう)。
 さらにはその「文系」的な知見における人間精神の機微と、「理系」的な理論における脳内物質が組織化する電気信号のフロー、という物理的/化学的な現象を統合する説明として「脳内のマイクロチューブが抱える量子ベクトル」という、作中での実質的な意味合いとしてはほとんど<物質化された精神(or物質のようでもある精神)>とも言えるものの存在に言及した5巻は『AW』全体を通しての大きなターニングポイントなのではないか、と考えています。ほら、マイクロチューブとの絡みで初めて宇宙とかも出てきますし。まあ僕にとっての最新巻だからそう思ってるだけかもしれませんが……。

 ちなみに「精神」を名指す言葉は英語では「サイコ」ですが、「サイコ(Psycho)」の語源はギリシア語で霊魂を意味するプシュケ(Ψυχή)であり、プシュケとは元々、ギリシア神話に出てくる、<背中に蝶の羽根を生やした女神>であります。ブレインバーストの先に、人間精神の変革・革新っぽいものを見据えている(P134「思考を加速し、カネや、成績や、名声を手に入れる。本当にそんなものが我々の戦う意味であり、求める報酬であり、達し得る限界なのか? もっと……先があるんじゃないのか……? この……人間という殻の……外側に…………もっと…………」)黒雪姫が、「人間という殻」としてはこれ以上ないスペックの肉体を有しており、同時に「精神」そのものの象徴を冠した外見をしている、というのは、おそらく意図的な設定だと思いますが、なんか軽くググった感じあまり言及されていないように思います。

 さてさて、合計5人の親の話をする前に、一応僕がどのような意味で「フロイト的」&「ラカン的」精神分析タームを使っているか、ざっくり説明させていただきます。基本的に、ごく一般的な精神分析の文脈で使っておりますから、それ系の話題に詳しいかたはこのへん読み飛ばしていただいて問題ありません。


■■■(こっから精神分析の一般的な説明)■■■

●母・父・子について

 フロイト的な精神分析においては、生まれてから大人になるまでの人間の精神の変化(あるいは発達)を、父・母・子の3者関係を使って読み解きます。生まれたばかりの子供は、母親と自分の区別がついておらず、というか「自分」「他人」なんて区分をそもそも持っていないため、母と自分を完全に一体のものとして認識しています。それは母親から一方的に無条件の情愛を注がれる、安逸で気持ちのいいものなのですが、それがある日ぶちこわされます。それをやらかすのが「父」です。「子」が「母」と楽しくやっているところに「父」はやってきて、圧倒的な力で「母」は本当は自分(「父」)の所有物であることを告げるわけですね。
 「父」によって「子」は「母」と引きはがされ、自分の力で色々と実績を出さなければ生きていくことはできない、と告げられます。ですから「父」とは「子」にとって社会だとか法だとかの代表者、代理人です。こういう、「父」の介入を「象徴的去勢」といいます。
 去勢ってのは男性器(ファルス)を能無しにしてしまうことですが、男性器というのは要は、「何かが存在していること」「何かができること」の象徴であります。表面上「ついてない」女性器と比べ、男性器というのはそこに確かに何かが「ある」ことは分かりますし、それを上手く使うと一族を増やすことができ、そして実際に「父」がそのようにしてきたからこそ「子」が今そこにいる、と気付くわけです。
 かくして、「父」によって「母」から引き剥がされ「象徴的去勢」をされることで、自分の想像上の男性器、すなわち、母親が自分を無条件に認めてくれることで成立していた<無根拠な全能感>が否定されることで、「子」は大人になり、社会に出て行くことが可能になります。いつまでも全能感を引きずっている人ってのは社会に出られませんし、出せませんし、うっかり出てしまっても、周りの人と本人とで見えている景色が違いすぎて、色々話になりません。
 さて、そうやって社会に出ていってしばらく経つと、幼少のみぎり自分と「母」の間に介入してきた、あれだけぶっ殺したいと思った「父」というのもどうやら大したことない、自分と同じように「去勢」された存在だった、ということが見えてきます。
 これがいわゆるオイディプス・コンプレックスという、複雑に絡まり合った一連の心理的葛藤の塊で、これが様々な神話や物語に見ることが出来る基本的構造だとされています。個人によって多かれ少なかれの違いはあるけど、人間の成熟の仕方ってだいたいこんなだよね、という話であります。


現実界象徴界想像界について

 ラカンの理論においては、人間にとっての世界というのは「現実界」「象徴界」「想像界」の三幅対で考えられます。「現実界」と「想像界」という言葉が、一般的な用法でのそれ(たとえば『SAO』においてアインクラッド内との対比で用いられる「現実」)と殆ど真逆なのでちょっと理解しづらく、しかもラカン自身の言うことも時期によってちょこちょこ変わったりするらしいのですが、大局としては次のような感じです。
 一人の個人にとって、自分に見えている景色そのまんまのものが「想像界」です。想像界は「目でみたまんまの世界」で、想像界では目に見えるものはすべて存在しているものだし、目に見えないものはすべて存在していない。見えているなら幽霊だろうが何だろうが存在している、そういう世界が想像界です。そして本人の意識にとっては、想像界こそが「現実」だということになっています。たとえば目の前に友達がいるとして、その友達が本当は心の中ではどう思っているのか分からない(友達だなんて思っていないかもしれない)けど、とりあえず、見ている側は、あ、こいつは友達、と認識している状態です。
 「象徴界」というのは、シンボル、つまり言葉あるいは文字の世界です。約束事の世界とも言えます。文字や言葉は、今現在実際に目の前には存在していないもののことも語ることができます。あるいはこれまでもそして今後も絶対に存在しないであろうものについても語ることができます。たとえば遠隔地に住んでいて、今現在目の前には居ない友達でも、それは確かに友達ですよね。目の前にいないから存在しない、ということにはならなりません。あるいは、嘘をつくこともできます。東京で「おれ福井に友達おるやん」と言ったら、余程変な状況でない限りはその発言は事実として扱われ、発言者は「福井に友達がいる」ということになります。それがかり嘘であっても、少なくともその場は「発言者には福井に友達がいる」という設定で推移します。こういった約束事や設定が営まれる場としての「社会」こそが象徴界であると言えます。
 そして「現実界」というのが、誰の現実というわけでもなく、とにかくただそこにあるであろう「現実」だということになります。しかし、実際に各人に見えているのは眼前の「想像界」と、「象徴界」が語る、本当か嘘かわからない視認できない世界が混ざり合ったものであって、その2つがジャマして、「現実界」というのは絶対に見えません。
 だから、ラカンにおいては現実とは、想像界のもっと先にあり、象徴界でも説明したり述べたりすることが不可能な、触知不能なもの、決して理解できない、到達できないもの、ということになります。「友達」の例えでいえば、その「友達」が本当にいたのか、そいつは話者のことを本当に友達だと思っているのか、そもそも友達って何なのか、確たるものは何もありません。それが「現実」というものです。
 というとなんだかムチャクチャな話のようにも思えますが、しかしこの「現実」というものを「絶対的真理」と同じような意味で捉えてみると分かりやすいかと思います。誰からみても共通であり、本物であるような、揺るぎない現実というものがあるなら、それは「絶対的真理」と言っても特に間違いではないかと思います。「絶対的真理」と言い換えてみると、ほら、確かに、そんなものは存在しなさそうだし、存在していても我々ごときには到達できなそう感満載ですよね。
 ですからラカン的な文脈では、「現実」を語る、と称する人間は全て、詐欺師かキチガイだということになります。ラカンは、完全な精神病者にはこのように言ってみると、確かに、という感じじゃないでしょうか。ネットの書き込みなんかでも、ほら、「事実。」とか「現実に」とか言ってるのって全部嘘っぽいですよね。たいがい出会い系の広告かオカルト隠謀論です。

■■■(ここまで精神分析の一般的な説明)■■■


5、分裂している父と母
 さて、こういった精神分析的な文脈を踏まえて、ようやく『AW』の5人の「親」についての話をさせていただきます。
 要は、「母」「父」という2人の親を、「想像界」「象徴界」「現実界」に振り分けていったら6人の親になり、そのうち黒雪姫が2人分兼任しているので5人だという話なのです。ここでの振り分けは、精神分析というものの性質上「こうやって配置してみると解釈がしやすいなあ」という程度のものなので、やや曖昧な部分が無きにしも非ず、人によってはかなり聞き苦しいところもあるかもしれないのですが、どうかご容赦いただきたい!
 分類はこんなです。

 A、「想像界」の母:チユリ
 B、「象徴界」の母:黒雪姫
 C、「現実界」の母:リアル母(有田沙耶)

 D、「想像界」の父:黒雪姫
 E、「象徴界」の父:タクム
 F、「現実界」の父:リアル父(名前不明)

 想像界、すなわち物語開始時点でのハルユキの視点では、血の繋がった「本当の」母親である有田沙耶はほとんど現れません。というか、沙耶は母親として「機能」していません。ハルユキとの接点は殆ど無く、家にいても昼間は睡眠中であるような状態であることが描写されます。夫(ハルユキの父)と離婚し、女手一つで高層マンションの家を守りハルユキを育てる為、数々の深夜勤務と海外出張をこなす、グローバルエリートととして労働しており、いわば殆ど<男性化した女性労働者>なわけです。生活上のその役割は一家の稼ぎ頭であり、母とも父ともつかないような状態にあります。ゆえにハルユキにとって、「現実」の母親というものは居ないも同然であり、求めても決して手に入らないものなのです。ハルユキは、いつも1人で冷凍食品を食べております。
 ちなみに、またしてもやや話が逸れますが、AW1巻のオマケページで川上稔が、ハルユキの部屋には窓があり沙耶の部屋には無いことを指して「窓のある部屋をハルユキにあてがう母親の優しさ」であると述べていますが、果たしてこれが「正しい」解釈かどうか、僕には少し疑問なのです。慢性的な激務に晒され、日中に睡眠を取ることの多い沙耶がむしろ窓の無い部屋をこそ必要としたのかもしれませんし、あるいはそのこととハルユキに窓付き部屋を与えることの両方が理由だったのかもしれませんが、しかし、とにかく本文において言明されていない状況が、少なくとも川上稔にはナイーヴに「母の優しさ」に映った、という点は少し面白いところであります。これが川原礫の中では本当のところどうなっていたのか気になるところです(じつは何も考えてなかったりして)。
 そしてハルユキの生活には、母だけでなく「父」もいません。父は、世界のどこかで生きているのでしょうが、とにかくハルユキの前には現れません。つまりハルユキにリアル父が「父」として振る舞うことは絶対にありません。

 沙耶の代わりに、母として機能している存在がチユリです。チユリはピザチビ汗っかきのハルユキのことをひたすら気に掛け、イジメに気付いてサンドイッチを持参します。どんなに不出来であっても母は無条件に我が子を庇護し肯定するという、フロイト的にいえば未だ父によって引き離される前の、ほとんど近親相姦的に密着した母子関係が、「想像界における母」であるチユリと、「子」ハルユキの関係です。「父」の介入が無いないまま、想像界の母=チユリの手厚い庇護を受け、その庇護に対して反発を感じつつも、結局は「母子」関係がいつ終わるとも知れないまま羊水の中で腐敗していくような状態が、物語開始時点のハルユキの置かれた想像的環境です。
 ある日、自暴自棄になって拗ねたハルユキは、チユリが持参したサンドイッチを粉砕するという暴挙に出るのですが、これはいうまでもなく母子密着状況において母親に対して振るってしまう家庭内暴力、DVのものです。ハルユキからチユリの攻撃をよもや本当に暴力として描いてしまうと、さすがにライトノベルとして出版できなくなってしまう(あと、誰も買いたくなくなる)ので、サイドイッチ粉砕はいわば、暴力行為の代替物的シーンであると言っても良いかもしれません。完全なひきこもりの人の家庭ではよく起きることだといいますが、子は無意識に<母の愛情が無条件のものであるかどうか>を確認したくなって暴力を振るうし、母はその暴力に耐えて受け止めようとするのですが、母が実際にその暴力を受け止めて耐えきってしまうと、それは子にとっては「無条件の愛の証」ではなく、「検証の為の暴力がまだ不十分だった」こととして理解されてしまうのです。かくして母子密着状況における暴力的共依存は「加速」する一方なのですが、サンドイッチ事変はまさにその典型的な形をしています。

 さて、この想像界における母子(チユリ-ハルユキ)密着状態に割り込んでくる「父」が2人います。1人は同じ想像界における「父」こと黒雪姫、もう一人は象徴界の「父」タクムです。
 黒雪姫が「父」? アホか、姫は女だろうが! と思われる向きもあるかもしれませんが、ハルユキの血縁上の母が社会的には男性労働者=父のそれと殆ど変わらないのと同様、精神分析的な位置付けにおいて、黒雪姫は女性でありながら想像界において「父」の役割を果たしている、と言うことには、さほど無理はないように思います。

 てか、いいこと思いついた。いちいち「●●界」って書くのめんどいから、想像界象徴界現実界は以下ではそれぞれI・S・Rで略記しますわ。例えば「父I」って書いたら、「想像界における父」って意味だと思ってください。今出てきているのが、母I=チユリ、父I=黒雪姫、父S=タクムです。
 想像界において密着している母子のもとに、「社会」や「法」を背負って、象徴界から「父」(父S)がやってきます。つまり「父」は想像界に介入してくる存在ではありますが、「父」のそもそもの性質というのは象徴界に属するものであります。だから、父I、つまり「象徴」性を持たない父というのは、「親だが、母ではない」という程度のもので、母子密着下の過保護な母親に対して、ちょっといい加減な所を見せる存在、様々な物語で見られる、テキトーなとーちゃん像そのものです(たとえば『クレヨンしんちゃん』におけるヒロシ)。
 想像界における母と父のやりとり、つまり梅郷中の校門前での母I=チユリと父I=黒雪姫のやりとりを見てみましょう。1巻P121「昨日ハルが暴力を振るわれたのは、先輩がちょっかい出したせいなんでしょう? なのにまだこんな風にハルを晒し者にして、どういうつもりなんですか? 何か楽しいんですか?」。これに対し、黒雪姫は次のように挑発します。「ン……、少々意味が解らないな。私が何か有田君の意に染まぬことをして楽しんでいると、そう糾弾しているのかな?」。
 ここが、僕が夫婦喧嘩のようだ、と受け取った箇所であります。まるで我が子の教育方針を巡る父母間の対立に見えてきませんか。母「もう、あなたったら、そんなこと! ハルユキの教育によくないわ」、父「まぁまぁ母さん、いいじゃないか、ハルユキももう子どもじゃないんだ」とでもいうような。


6、黒雪姫の越境と変質
 チユリに対してはDV的な甘えをぶつけているハルユキですが、ハルユキを母I=チユリと取り合っている父Iの黒雪姫に対しては、当初そのような態度に出ることはありませんでした。なにせ相手は母ではなく父ですから(黒雪姫がもたらす、何もかもが生まれて初めての加速世界におっかなびっくりでそれどころでは無かったという面もあるかとは思いますが……)。とにかく、父親はいつだって、「母さんには内緒だからな」と息子をちょっと危ない遠出に誘うものです。ブレインバーストの存在は多くの人々に対して隠蔽されており、当然母I=チユリにも秘匿されています。母には内緒の、父と子のヒミツの場所なのです。父I=黒雪姫は、想像界(リアル世界)において、全てを所有している存在です。地位、名声、容貌、知性、おそらくは財産も。黒雪姫は全能の存在です。つまりファルスを具えた人物です。
 これらのファルスが、黒雪姫をファルスの属する世界、象徴界へと招待するわけで、であれば黒雪姫は象徴界においても父の役割を果たし、父Sとして今度こそ母を奪わなければ話がおかしいのですが、ところがこのシーンで黒雪姫は、<ハルユキという1人の男を奪い合う2人の女の片方>としての振る舞いを前景化させるのです。P122「私は彼に告白して現在返事待ちだ。これから軽くデートするところだ」。母I=チユリとの近親相姦的関係にあるハルユキに対して黒雪姫は、チユリを奪うのではなく、女としての黒雪姫自身を与える形を取るのです。
 この瞬間、ハルユキにとって、母が2人になってしまいます。

 母I=チユリ VS 父I=黒雪姫

 だった争いが、

 母I=チユリ VS 母S=黒雪姫

 としての意味も持ち始めるわけです。
 この二重の「チユリ VS 黒雪姫」の争いは、黒雪姫の勝利に終わります。この勝利を母I=チユリ VS 父I=黒雪姫の争いの側から見た場合、それは父Iの勝利であり、父I子を母の目の届かないブレインバーストという異世界へ連れ去ります(母にはその詳細が知らされることはありません)。
 次に、この勝利を母I=チユリVS母I=黒雪姫の争いの側から見た場合にも、勝利は当然黒雪姫のものなのですが、ここにおける勝利は、母としてハルユキとズブズブの「母子」密着関係を形成する存在の、チユリから黒雪姫へのシフトでしかありません。黒雪姫はハルユキを別の世界、加速世界、「もっと先」へ誘う役目を果たしたはずなのですが、連れて行った先の加速世界においては、姫の果たす役割は「母」(母S)にシフトしはじめてしまいます。これは、前述のように黒雪姫がチユリとの口論においてハルユキに対して「女」としての自分の立場を打ち出してしまったことに由来します。
 このように子ハルユキにとっての黒雪姫の役割の重心が父Iから母Sに移るにつれて、ハルユキは、母Iチユリに対してサンドイッチ粉砕という暴挙に出たのと同様に、母S黒雪姫に対しても「母(RSI問わず)」に対する横暴な態度を取りはじめます。すなわち、「無条件の愛情」を渇望するとともにそれを疑い始め、母を傷付けてでもその確かさを試そうとするわけです。ハルユキは、黒雪姫の制止をものともせず、次々と「試し」の為の発言を続けます。
 P188「解っていますよ。なんなりと、ご自由に。僕はただの駒、ただの道具です。要らなくなったら捨てればいい」。
 P189「いいですよ、もうやめましょうよ/あなたは……あなたのことが嫌いなんでしょう?」。
 P190「あなたは、なにもかも完璧すぎる自分のことが嫌いなんだ。だから、自分で自分を貶めようとしている。そうなんでしょう/あなたは僕に……デブで、不細工で、嫌われ者の僕に言葉をかけ、手を触れ、好意を……好意のようなものを示すことで、ただ自分を汚そうとしているだけなんだ。……そんなことをしなくても、僕はあなたの言うとおりに働きます。僕は何も望まない。代償なんて要らない。ただの捨て駒、命令されるだけの道具、それが僕みたいな奴に相応しい扱いだって、あなたもほんとは解ってるんだ!!」。
 「好意を」を「好意のようなものを」と言い換えていることからも分かるように、ハルユキはこの一連の発言において、黒雪姫の自罰・自虐的傾向(むろんそれは殆どハルユキの妄想なのですが)それ自体よりも、黒雪姫から自分に向けられた感情の真偽(「好意のようなもの」の性質)をこそ強く疑っているわけです(まあ、思春期の少年ですしデブですし致し方ないところもあります……)。


7、略奪者タクム
 このようにして、物語の中で母Iと子の間に介入してきた父I=母Sですが、父I→母Sへの変化が始まると、ふたたび失われた父性をみたび埋め合わせる為に、父Sが投入されます。それがタクムです。
 タクムあらゆる面でハルユキを凌駕し、母Iチユリをハルユキから奪うチユリの「彼氏」であり、つまりは母Iチユリを独占する権利を持った「父」です。父Sであるタクムの「父」っぷりは、父I=黒雪姫の比ではありません。なぜなら象徴界こそは「父」の本来的な所属であり、父Sの介入とは「象徴的去勢」そのものだからです。
 そして父、なかんずく父Sとしてハルユキから母Iを奪うタクムが、ハルユキにとって自分と同じ年齢であるだけでなく、自分のたった2人の親友の片方であるということが、ハルユキの象徴的去勢を通常のそれと比べてはるかに重いものにしていて、そこが病院での対決の醍醐味であったことは、精神分析的な読解をするまでもなく首肯いただけるかと思います。アクセルワールド1巻は、ハルユキによる父殺しの話であったということですね。
 父S=タクムは、ハルユキから母を略奪します。母I=チユリを奪って自分のものとするだけでなく、加速世界において、病院で倒れている母S=黒雪姫(のバーストポイント)までもを自分のものであると主張し、ハルユキから永久に奪おうとします。
 父Sが母Sを奪おうとする場所とは、加速世界であり、加速世界とはつまり象徴界そのものだと言うことができるでしょう。タクムは想像界においては母Iを実際に占有し、象徴界においては母Sを消去しようとしているわけです。タクムが父としての性質を剥き出しにするのは、まさにタクムが加速世界のシアン・パイルであると発覚した直後です。
 P234「チーちゃんは僕の彼女だよ。だから当然直結だってするさ/君だって、チーちゃんと直結して、内緒でメモリを漁ったじゃないか? しかも、彼氏でもなんでもないのにさ/ずっと、ずっと昔からチーちゃんに、僕ってかわいそうだろ? 憐れだろ? だから優しくしてよ。もっと構ってよ。そう言い続けてきたんだ。言葉じゃなくても、態度で、目つきで……いや、君という存在そのもので/焦ってたさ。このままなら、チーちゃんは一生君の面倒を見ようとするだろう、ってね。/ハルの面倒を見て苦労するよりも、僕の隣で幸せになったほうがずっといい、ってことをさ。それが……現実的判断ってものだろう?/『いつまでも子供じゃないんだ』、だろ?/チーちゃんだって女の子……いや、女だよ。友達に自慢できる彼氏、幸せな結婚、満ち足りた生活、そっちのほうがずっと《幸せ》だっていつかは気付くさ。だから僕もがんばったよ。死ぬほど勉強して今の学校に入ったし、毎日走りこんで体も鍛えた。ハル、君が下らないゲームをしたり、ぐうぐう寝てるあいだにね」。もう十分ではないでしょうか。「母」を取り上げる「父」の発言として、これ以上的確で饒舌なものがあったでしょうか。「女の子……いや、女だよ」の裏にある、ハルユキに対するタクムの男性としての優位性の確信、「友達に自慢できる彼氏、幸せな結婚、満ち足りた生活」として語られる、タクムの社会的地位や経済的将来性、「いつまでも子供じゃないんだ」という、かつてハルユキが使った言葉の本歌取りによって自分のほうが一足早く「大人」となっている事実を告げ、自分は「子供」であるハルユキが決して敵わない象徴的「父」であることをことを誇示しているわけです。
 かつて『ガンダムSEED』において、「やめてよね……本気でケンカしたら、サイが僕にかなうはずないだろ」という、間違い無く劇中でNo1の強い印象を残すセリフがありました。『SEED』ではこの一言を境にキラがコーディネイターであるという自覚を強め、また視聴者に対してはこの瞬間における突発的な俺Tueee感がキラへの有無を言わせない強い同化作用をもたらすのですが、『AW』においてはSEEDのサイとまったく同じ仕打ちを主人公側が受けることになるとは……。


8、ブレインバーストとは何か
 ブレインバーストは、加速世界=象徴界において、自らが象徴となった者たちが闘争を繰り広げるゲームです。劣等感をモチーフとし、得意とする攻撃手段にちなんだ特徴とカラーリングを与えられたデュエルアバターとは、バーストリンカー一人一人の「象徴」そのものです。
 『AW』においては、想像界象徴界に相当する概念が、「現実世界」「加速世界」として作中で本当に空間的に存在しています。しかもこの二つの世界は、AR技術によって地理的に完全に重なり合っています。そして自らをデュエルアバター=象徴と化すことでその両方の世界を行き来することができるバーストリンカーという存在がいて、バーストリンカーはバーストリンカーであり続ける限り想像界ではほとんど何でも思うがに振る舞うことができますが、しかし想像界での権能を振るいつつ(=バーストポイントを消費しつつ)象徴界に留まり続ける為には、永久に闘争に明け暮れて貨幣=BPを稼ぐしかないのです。
 黒雪姫的な感覚からいえば、加速世界=象徴界には「もっと先」がありますが、それは精神分析的には「現実界」そのもので、人間精神には決して到達できない、その「到達できなさ」自体ですらあるのですが、黒雪姫だけはブレインバーストがまさにその為の手段であると考えている様子です。
 想像界において黒雪姫の持っている地位、名声、容貌、知性、財産等々……の、<社会的な「強さ」を保証してくれるパラメータ>は、黒雪姫をファルス的(ファルスの権能と同化しつつある/同化した)存在にし、ファルスを通じて加速世界=象徴界への参入権利を与えています。
 ラカン的理論においては、想像界から象徴界への移行は言語によってなされます。象徴とは言語であり、社会は言語によって書かれた法で規定されているからです。だから子供は言語を使いこなす能力を高めていくことで想像界から象徴界に向かっていく(=社会化されていく)わけですが、『AW』ではここに大きな断絶が存在します。想像界象徴界が「現実世界」「加速世界」として「ブレインバーストによって」重ねられているという設定が、想像界象徴界の関係を歪めています。端的に言って、「現実世界」「加速世界」の形で表現された世界においては、両方の世界の間で<何をもってファルスとするか>の基準が大きく変化します。
 加速世界=象徴界においては本人もしくはレギオンの端的な「強さ」こそがファルスです。「強さ」がファルス性を規定するのはリアル世界=想像界においても同様なのですが、ただしリアル世界=想像界では、地位、名声、容貌、知性、財産といったさまざまな形の<強さ>がありえます。それに比べ、加速世界における「強さ」は、端的な対戦の「強さ」だけです(それは移動の速さだったり技の攻撃力だったり装甲の硬さだったりしますが、それらは全て最終的にはHPの増減のみに収斂します。「現実」世界においても、あらゆるパラメータを総括して「人間力」とでも表すことは可能ですが、ご存じのように「人間力」などとという言葉は馬鹿の専売特許であり、何も言っていないに等しいわけです)。その点においてもブラック・ロータスの<強さ>は抜きん出ていたものの、同程度の力を持つとされる純色の六王と彼らが率いる各レギオンが、いまだ黒雪姫の前に抑圧として立ちはだかっており、黒雪姫は永い停滞を強いられてきました。
 その均衡を破る存在として召喚されたという意味においては、ハルユキは登場時からファルスと同化した存在です。なんせ登場時は母Iチユリとの密着状態であり、その閉じたディストピアからこそ、神懸かった「反応速度」が引き出されていたのです。
 リアル世界=想像界におけるファルスを用いて象徴的抑圧を撥ね除け、象徴界における版図を広げている黒雪姫ですが、彼女が新たに想像界から輸入したファルス的ブタを引き連れ、進んでゆく先には、当然「現実界」があるということになります。
 ではその「現実界」とは、『AW』においては一体何のことで、そこでは何が待っているんでしょう? それは、ハルユキの、あらかじめ失われた母Rと父Rが、そこにおいてどのような表象を取るかという問いと、ほぼ同じです。この概念的探究が物語後半の通奏低音になっていくのだろうと、5巻までしか読んでいない僕は思っているのですが……。
 そんなわけで、とにかくアクセルワールドはリアル(想像界)に住む人々が、ブレインバーストという象徴界を通じて、「もっと先」(現実界)の不可能性に到達しようとする物語である、と読むことができます。しかし『AW』作品内の「リアル世界」がすでに想像界象徴界から構成されているわけで、じゃあ<「リアル世界」における社会的営み≒象徴界>と<加速世界=象徴界>で象徴界がダブってんじゃん、っていう指摘がありうるわけです。ここでね、やっとこさ冒頭の話につながってくるわけなんですけれども。
 「リアル世界」が、そこにおいてどれほど象徴性=言語能力を高めていっても決して現実界へは到達できない世界であるのに対し、加速世界は、そこで<最強のレベル10バーストリンカーになる=象徴性をMAXまで高める>ことで「もっと先」=現実界へ到達可能な世界なんです。
 つまり現実世界では言語=象徴の力に限界がありますが、加速世界の言語=象徴(=アバター)に限界がありません。なぜでしょう? って考えたときに、それは――最後の最後にある意味でラカンを裏切る形ですが――『AW』の隠された設定として、本来「現実」には一切制限など無く、<制限を課している者>がどこかにいるからだ、そいつを倒せ、というようなオチが用意されているから……だったりして。冒頭に掲げた大胆予想はそういう意味なわけです。までも、盛大に滑ってほしいところですわ。


9、まとめとイジメと現実の母と
 こうして書いてみるとなんとも類型的な精神分析的作品批評に堕してしまったの感がありますし、あと最後のほうは「世界」を球状のメタファーで捉えたときに(たいがいの人はたいがいの場合球状の認識をしているものです)、「現実」を球の核として捉えるかそれとも球の外側全般と捉えるかというような、トポロジー的な概念遊びにすぎないとも言えます。

 ところで母といえば、以前の記事で触れた大津のイジメ問題で、「加害者親族に警察関係者がいた為警察の捜査を免れた」というのは嘘だったらしく、ほっとしております。本当だったら怖すぎる。
 しかし代わりに新しく登場した情報では、加害者のお母さんは自分の息子を擁護するためのビラを作って配ったりされていたらしいということで、またしても不気味な話ではあるのですが、ああ、ここまで出しちゃう奴いるんだ、クルイ(狂い)って思いまして。そうそう。一緒じゃん、俺らの内側とって。じゃあ表現しなきゃうそつきでしょ、と思ったわけであります。 この加害者の母の行動こそは、まさにフロイト的な意味の、無条件の肯定であり、おのれの息子が残忍極まりない、実質的な快楽殺人者であったとしても、想像界において「母」は際限無く愛を注ぎ続けるものなのですよ。間違っているがゆえに完全に正しい、この底無しの慈悲と狂気こそが、ある意味で人間世界の常態であります。


おまけ
 黒雪姫は想像界の父であり象徴界の母であり、つまりファルスを具えた母であり、と同時に現実界を目指すプシュケの作用そのものでもあり、さらにいえばハルユキに加速世界での統合的身体を与える鏡の役割も果たしているということができるかもしれません。いくらなんでも黒雪姫一人に色々機能持たせすぎやろの感もありますが、しかし黒雪姫にはリアルの黒雪姫と学内アバターのスノーブラックが鏡合わせになったビジュアルってやたら多い気がしませんかね? 鏡合わせの構図が多い理由が、単に見栄えがするからというだけであれば僕がとんちんかんに勝手に色々なものをありがたがっているという話ですけれども、このへんの話ももう少し書くことが貯まったらまとめてみようかと思います。おしまい!

ハラスメントフラグ! そういうのもあるのか ~その……で、できるの……? SAOの中で……?

 記事を読んでいただいたかたから、「SAOちゃんと読めやボケ」というつっこみをいただきました。いやぁ、反応があるって本当にいいもんですね。すみません。あらかじめ当該記事でも断ってはいるのですが、無論ちゃんと読んでいませんでしたので、特に食事関係に目を光らせて、SAO1巻と2巻だけですが今度はわりとしっかり読んでみました。ちなみにAWのほうは記事を書いていた時点では5巻のラストジグソー戦のあたりを読んでいて、書き終わってから最後まで読みました。その、やっぱりクロム(ネタバレ)、でも最後の師匠が××で×××のところは本当に泣きそうになりました。いやあ。本当にギミックの使い方がうまいなあ、この人。冨樫義博にも言えることなのですが、ゲーマーがゲームっぽい話を作って、それがいい方向に作用している作品というのは本当に楽しいものであります。

 それでまあ『SAO』の食事に関する表現をざっと見ていくと、冒頭でヒゲバンダナが言う「ピザとジンジャーエール」(ただしこれだけゲーム外に置いてきてしまった物の話)、70ページの「ゲーム内で仮想のパンだの肉だのを詰め込むと空腹感は消滅し、満腹感が発生する。このへんのメカニズムはもう脳の専門家にでも聞いてもらうしかない」「蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない」あたりが最初ですね。「蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない」のあたりがもう、コキュートスでお清めパターンな感じがし始めてますが、それは後に置いときましょう。

 長々とした説明は、まずP81で、ラグー・ラビットの肉に絡んでなされる説明「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよいSAO内で、普段口にできるものと言えば欧州田舎風――なのか知らないが素朴なパンだのスープばかりで、ごく少ない例外が、料理スキルを選択している職人プレイヤーが少しでも幅を広げようと工夫して作る食い物なのだが、職人の数が圧倒的に少ない上に高級な食材アイテムが意外に入手しにくいという事情もあっておいそれと食べられるものでもなく、ほとんど全てのプレイヤーは慢性的に美味に飢えているという状態なのだ。もちろん俺も同様で、行きつけのNPCレストランで食うスープと黒パンの食事も決して嫌いではないが、やはりたまには軟らかく汁気タップリの肉を思いっきり頬張ってみたいという欲求に苛まれる」あたりかと思います。ここにちょっと違和感ありますよね。現実では味わえない、ギルドを組んでモンスターと戦うという体験をする為に作られた(まあ「本当の目的」とやらは別なんでしょうけど、少なくとも9割がたのプレイヤーはそういう体験を求めてやって来ているはず)はずのSAO内で、しかし「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよい」わけは無いだろうと思われますから、やや端折られていますが、これはデスゲーム化によってゲーム観が変質し、生存のためにリスクを最小化したプレイングを強要されているプレイヤー層にとってはそうなった、というような話なのだとは思います。まあとりあえず進みましょう。

 次はP83の「路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで、妙な匂いのする茶を啜っている時だけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい」という所なのですが、ただここは「《猥雑》の一言に尽きる」というアルゲードの街を説明する描写の一部であることも踏まえると、ここでいう「茶」は食品というよりは煙草のような習慣性嗜好品で一服してる的な位置付けなのではないか(あとひょっとして本当は水煙草か何かのシーンを描こうとしたが編集部的にNGだったのではないか)とも思われるため、少し留保が要りそうです。

 そして調理が初めて登場するのがP102ですね。読み進めながら僕にだけ緊張感漂う一瞬でしたが、ヤターーー!! ハイパー安易キターー!! 美少女剣士アスナたんの「調理スキル」でほかほかごはんが出てくる、『ドラえもん』でいったら「植物改造エキス(I)」みたいな世界観。あーこれやっぱりお風呂入らなくてもコキュートスでお清めパターンだわーマジ安易だわー。むしろ味とか内容とか詳細に描写すればするほど安易になっていくわー。

 これは元の論考の時点から同様ですが、川原てんてーが安易だというのではなく、むしろAWにおいて「肉体の檻」という「現実」を描き切る川原てんてーですら「ゲーム内<ゲーム外<小説外」という2重疎隔というか、メタ的表現、それもたとえば『生徒会の一存』のような「メタ的表現あるいはメタであること」(=構造論的なメタ、批評的なメタ)を目的とせずに、あくまで劇中劇であるものの存在(=ストーリー上のメタ)を表現しようとする際には、「ゲーム内」と「ゲーム外」の距離を意識的にリマインドさせない限り、現実世界(小説外の、という意味での現実世界)の読者は、結果的には「小説内の人物(ナーヴギアを被って病院で糞尿垂れ流してる人達)」という段をすっ飛ばしてゲーム内のキャラクターと同化してしまい、結果「安易なファンタジー」を直接的に提供しているのとほとんど変わらなくなってしまう、ということが言いたいのであります。
 ただ、元の文の書き方が悪く、というかやや論点がズレていた部分がありまして、僕の書き方だと「食品描写の濃淡と量が、作品内における食事全般がもつ象徴性や重要性と連動している」というような意味に取れてしまうのですが(というか書き始めた時点では半ばそういうつもりだったのですが)、実際には描写そのものの量や執拗さというよりも、単に食品と摂食行為そのもののストーリー内での位置付けがもたらす差異についての分析、であることをもっとしっかりとした中心軸にするべきでありました。反省。

 さて続けますと、次がP150、「丸いパンをスライスして焼いた肉や野菜をふんだんに挟み込んだサンドイッチだった。胡椒に似た香ばしい匂いが漂う」。胡椒に「似た」何かということですね。続けて「アインクラッドのNECレストランで供される、どこか異国風の料理に外見は似ているが味付けが違う。ちょっと濃い目の甘辛さは、紛うことなく二年前まで頻繁に食べていた日本風ファーストフードと同系統の味だ。あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになりながら、俺は大きなサンドイッチを夢中で頬張りつづけた」「一年の修行と研鑽の成果よ。アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が味覚再生エンジンに与えるパラメータをぜ~~~んぶ解析して、これを作ったの」ときた。まあそこはいいです。アスナさんは美人ですし、われわれキモオタの妄想通り料理が好きでかつ上手くて家庭的。一応は「一年の修行と研鑽」を積んでいらっしゃいますし、そもそもが「美人の女性プレイヤー」というある種の特異点ですから、問題にするならむしろ設定上のその存在自体であって、食品に固有の問題というわけではありません。
 それよりも問題は「どこか異国風の料理」のほうであり、「日本風ファーストフードと同系統の味」でこそ無いにせよ、日本人ばかり1万人も集めてきて(まあもう2000人くらい死んだけど)ゲームに閉じ込めておき、「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよい」環境でさしたる不満も出ないというのはちょっとヘンなのではないでしょうか。みんな他に食べるものがないから却って「どこか異国風」の料理にも満足している? どうでしょうかね。こればっかりは、本当のところどうなのかは本当に8000人集めてどっかに閉じ込めてパクチーだけ与えて飢えたパンダとか放ってみないとわからないところではありますが、ただ、たとえば前のほうに出てきた黒パンに限って言えば、現実の黒パンって、そんなに美味しいものじゃないですよね。少なくとも実際に僕が食べたことあるのは、これモック? って疑うくらい硬いやつと、硬くは無いけど思い出すだけで頬が痛くなるくらい酸っぱいやつでした。まあどっかにちゃんと美味しい黒パンもあるんでしょうけど、それって現代の日本人が食べても美味しいようにある程度品種改良された黒麦やライ麦と酵母と味設計のもとで作られてる筈で、おそらく忠実に中世ヨーロッパの原料品種と技術で作ったら、現代の日本人にとってはさらにクソみたいなパンが出来ちゃうんじゃないかなーと思うんですよね。それが、いかにそれしか食べ物が無いという事情もあるとはいえ、そして食べられなくはない程度には毎回腹も減っているとはいえ、普通に受容されてるのってなんか、へんだなーと思うんですよ(ちなみに、アニメ版ではこのへんの構成が大きく変わっていて、2話で語られるゲーム初期の話でアスナがパンを不味そうに食う、という場面が追加されており、ある程度納得の行くものになっています)。
 たとえば僕が今、なんか時空の裂け目的な何かで突然中世ヨーロッパに飛ばされて、「アンタの食事スープと黒パンだから一生!」って言われたら、悪くないぜとかどうとか考える以前に、おんおん泣くと思うんですよね。山崎パンとかと比べて。こんな岩みたいなパンなら山パン高井戸工場で鳥肌実が作ったパンのほうがまだマシだって。オヤシロさまごめんなさい今度からちゃんと春のパン祭りも祭りますから、お願いだから山パン食わせてくださいって思うと思うんです。だって、僕が小学生の頃なんか、給食のパンとかメッチャ残されてましたよ。マズすぎて(1990年代の福井市の給食は本当にマズかったのです)。日本人の日本人による日本人のためのパン、しかも一応何種類かあって毎回同じにならないようにしてあって、給食という強制イベントで供されてすら、残飯にシュウウーー!されてたわけです。これ、条件は考えようによってはアインクラッドよりシビア(人間にとって)で、不可避のイベントであり、逆にパンにとっては相当甘い条件なわけです。それでも残された福井のパンたち。誰からも必要とされない存在。で、キリトさん達がうましうまし言って食ってるってことは、少なくとも福井給食と比べたらSAOの黒パンのほうが旨いというわけですよね。是非、どこぞのパセラなどで期間限定SAOキッチンとか開いていただいて、そのうまい黒パンとやらを食べさせてもらいたいものでありますが、とにかくSAOの世界というのは、シビアだシビアだと言いながら、こと食べ物の味に関してはイージーモードであり、我々の味覚の期待を大きく裏切るようなことはないわけです。
 くどいかもしれませんが、現実には日本の商社マンなんかは1年も海外勤務をすると味噌汁が食べたくて涙が出たりすることもあると聞きます。少なくとも食べ物に関しては、アインクラッドよりもグローバルサラリーマンのほうが辛い、というわけです。追い打ちのように、「こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」と言いながら混ぜて口に含んだらマヨネーズの味、なんてシーンもありまして、マヨネーズってのもけっこう象徴的だと思います。ご存じのようにマヨネーズって味の支配力が強くて、何にかけてもマヨ味になりますよね。だからマヨラーとかいるわけですけど、あの子供味覚的な、最大公約数的な味という、まさに安易な食事の象徴とも言えるわけです。
 次がP171「緑茶にレモンジュースを混ぜたような味」の回復薬。ああ、回復薬っぽい感じしますねえ。苦酸っぱい。効きそうだ。
 P184には、食事シーンではありませんが食品に関する言及として「さっさと用を済ませて、なんか暖かいものでも食いに行こうぜ」「もう。君は食べることばっかり」というやりとりがあります。P191が「火噴きコーン十コル! 十コル!」「黒エール冷えてるよ!」の「あやしげな食い物」。「あやしげ」と言いながらも、これは明らかに現実のスタジアムにいるポップコーンとバドワイザーをモチーフにしていると思われますし、ここでも食品だけでなく総合的な意味で我々の生活感覚をそうそう裏切らない営みが行われています。また聞きかじりの話で恐縮ですが、たとえばインドではチャイなんかの飲み物は素焼きのカップで供され、カップは1回ごとに使い捨てられます。素焼きとはいえ、焼き物のカップがパリーンって捨てられてるわけで、はじめて見た日本人は驚愕すると聞きます。アインクラッドの「あやしげな食い物」と比べたとき、僕には素焼きカップ入りのチャイのほうが、我々の感覚から乖離しているように思えます。
 さて、幾許かの「シリアス」なシーンを挟み、僕が最も問題にしているP238「牛型モンスターの肉にアスナ・スペシャルの醤油ソースをかけたステーキ」が登場です。「食材アイテムのランクとしてはそれほど高級なものではないが、何せ味付けが素晴らしい」。前述の通り、アスナは「数少ない女性の美人プレイヤー」という、特異点というか統計における外れ値みたいなもんなので、「醤油ソース」がアスナの手によって供されているということを考えれば確かにある程度の整合性は取れます。ただ、そうは言ってもこれまであげつらってきた、アインクラッドにおける「異世界なのに日本的でイージーな食生活」という流れをなぞるものであることに変わりはありません。

 続く「食後のお茶をソファに向かい合わせで座りながらゆっくりと飲むあいだ、アスナはやけに饒舌だった。好きな武器のブランドや、どこそこの層に観光スポットがあるという話を矢継ぎ早に喋りつづける」は、現実のイチャラブカップル的生活のままの会話が単語レベルでだけファンタジーに置き換わっているという、我々の「(当然そうあるべきという)期待を裏切らない」設定を一文で総括しているような箇所です。ちなみにこのあとが、話題の夜の営みコース。ゴクリ。なんだか乙ゲディレクター時代を思い出しました。なんかね、乙女ゲーのネタとして、新撰組とか戦国武将とかってすごく人気あるんですけど、乙ゲで描写される彼らの倫理観とか衛生観って、完全に現代人のそれなわけですよ。指摘するのもヤボだけど。あれと実によく似ています。ラノベのプロパー読者って総体的にはマッチョな思考パターンをしていて、乙女ゲーなんて女どもが追いかける軽薄なイケメン集団の茶番劇だと思っていらっしゃるのではないかと思いますが、その「ガワだけファンタジー」「ガワだけ時代劇」感においては、いかに気宇壮大なサーガを描いていようと、ラノベ的世界と乙女ゲー的世界は完全に機能的等価物であります。

 話を戻しまして、P257~258「ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物に調理し、食卓に並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に」。また醤油。醤油は大事ですよね。日本人に生まれてしまうと、醤油無しで1週間持たせることは不可能に等しい。だけど、くどいようだけど、負けたらガチで死ぬとか言ってる世界に醤油味が存在して「わぁいきりとしょうゆだいすき」じゃあ困るんですよ。いや困りはしないけど、いろいろ残るわけですよ。しこりが。
 ウサギの肉は、むしろ苦労してとったけどこの時期のは脂が抜け切っててパサパサしてた……みたいなほうがより「シビア」ではあったと思います。まあそこは三人称で書いても厳密には一人称的視点が必ず紛れ込む、小説という形式にはそもそも難しい表現ではあります。ムスリムにとってしか美味くない食物もムスリム視点で描けばうまし以外の表現には基本なりませんから、それはいた仕方ないところではあります。
 SAOでは、アスナに関して先述したように、リアル美人の女性プレイヤーがいかに希少か、という点で、自然主義的な描写を採用し、安易さへの一定の歯止め(美少女プレイヤーがいっぱいな世界というのは、これは食べ物に置き換えていえば、何を食ってもとびきりうまい世界ということだからです)をかけているのですが、その希少な美人が主人公になびくという点で、最終的にはむしろ安易さを増大させてしまっています。まあ美少女が主人公になびくのはラノベ様式美であって、基本的に川原てんてーにはその責任は無いのですが、ただAWにおいてチビデブ汗っかきでしかもイジメられているという異形の主人公を造形された川原てんてーが、SAOにおいてはイケメンで最強の主人公を恥ずかしげもなく出してくるあたりは、単純に執筆時期による自作相対化の進み具合の違いというような面もありそうではあります。

 無論、設定上は、当初のSAOはお気楽な「世界初、中に入れるMMORPG」であり、そこで営まれるはずだった、お気楽な、いいとこだけ取ってきたガワだけファンタジー的生活が持続していながら、一方で生命の危機だけが迫っているというアンバランスでグロテスクな設定に意味があるのだとは思います。これはこれで確かに大変面白い思考実験だとは思います。しかし僕のような訓練された豚ラノベ者達(そして豚ラノベ者にはそもそも高練度の精鋭しかいない)は、「負けたら死ぬというリスクを負っている、現実(小説内)世界の病院に置かれたプレイヤー達(の体)」ではなく、あくまで、<小説内のゲーム内のプレイヤーキャラクター>に同化しているわけです。そこでは「負ければ死ぬ」という設定は完全に後景に退いています。勿論、小説なんだから、すべて絵空事なんだから、べつに電撃文庫読んだって死ぬわけではないのは当たり前なわけですよ。しかし、前項で述べてきたようなことは、ようは物語内部に没入している視点からですら、「負けたら死ぬ」という設定をなかば「……という設定のRPG」止まりに押し留めているように思えます。この視点は作中でもある程度は触れられており、「ゲーム内で死んでも、それで本当に現実の肉体までが殺されているという証拠は無い」と主張するプレイヤーの一派というものも出てきますし、主人公達も何度かその可能性を考えたりはしますが、しかし大勢としてはやはり、「ゲーム内で死んだら本当に死ぬ」ということが、だいたいのプレイヤーには、かなりの確度で信奉されている見解ということになっています。
 しかしそれでも、やべーマジ死ぬ死ぬとか言いながら、お子様味覚のままでも絶対うまいであろううさぎのシチューだの醤油味の牛肉だのを食ったり、アスナたんに人差し指で背筋をつーと撫でて「こんなこともできなくなっちゃったよなぁー」とか言ったりするセクハラを楽しみつつ夜な夜なバーチャル中出しセックス。これですよ。どうせ普通にスプリングベッドの寝心地が、いやそれ以上の快適な寝心地がするであろう寝床で。それのどこが異世界かと。めっちゃこっちの世界じゃねえかと。異化してないぞと。最高じゃないですか。最高だと、おもいますよ。だが残る。しこりが。
 それはそうと拙者、俄然夏コミの目標が屹立いたし申した。

 というわけで、適当にしか読まずに分かったような顔で出て行く緊張感でしたが、大学のころとあるカント研究者に「よく知らないことでも『知らない』って開き直った瞬間に全部終わるから、第一には少しは知ったような顔をして、そこから必死に追いつくのだ」と言われ、「なにこの詐欺師かっこいい」と思った経験が生きたな……。


 そういえば、半年くらい前に文芸批評家の坂上秋成主催?で十文字青先生を囲む座談会、的なイベントがあったとき、十文字青作品や、竹宮ゆゆこ作品のような、「シリアス」な作品(ラノベプロパー寄りの読者にとって、時として「ラノベのお約束」をいともたやすく踏みにじり、実存的不安を与えてくる作品)群にSAOが連ねられていて、僕はSAOをちゃんと読んでいないにもかかわらず、生意気にも、そこにちょっと違和感を覚えて、次のような趣旨の発言をしたのでした。「しばしば『お約束』や『様式美』を踏みにじってくる竹宮ゆゆこ作品や十文字青作品の持つ緊張感と比べると、SAOにおける『負け=死、というデスゲーム』の要素は、所詮は<すんでの所で勝ち続けてSAO内でも数少ない美少女を嫁にしてしまう>という筋書きが予め織り込み済みであることを念頭に置けば、むしろ読者の俺tueeee的自意識を補強する役割しか持たないのではないではないか。したがって、ゆゆぽや青先生の、ある意味『意識の高い』作品と比べると、SAOは、少なくとも今回のような見地からの分類においては、違った属に振り分けられるのではないか」。この見解は今に至っても基本的に変わっておらず、それをより詳細に述べたのが今回の記事ということになります。まあだからといってSAOがゆゆぽ作品や青作品と比して劣るというわけではまったく無く、そもそも「意識の高さ」それ自体が良い面とクソな面の両方を供えた二面的な性質でもあります。
 ただ、セカイ系のストーリーの背後にある「セカイの滅亡」という大局がいささかも「シリアスさ」を約束しないのと同じで、それに比べてたとえば『とらドラ!』の亜美ちゃんは、まあ最終的には「改心」してしまうものの、ある時点まではいわゆる「糞スイーツ女」であり、われわれのようなキモオタが話しかけても普通に無視するかもしくは「ハァ?」しか言わないような、「他者」でありましたし、「どうせ最後のほうでは『改心』するさ」という楽観すら抱かせないような、読者にとって「他者」あるいは「外部」としての機能を持っていたように思うわけです。
 それと並べてみたときに、アスナ死亡シーンでお約束通りアスナが生きている(あるいは生き返る)ことを、期待と同時に確信しない読者はいないわけです。観光地的な異世界しか描いてこなかったSAOの中で、ヒロインは決して死なないか、万に一つでも本当に死んだ的な展開が一度は開陳されたとしてもどうせデータストレージから再構築されてうんぬん的な形で復活するよな、というような期待を読者は持ちます。それが端的に表れている箇所というのは結構あると思いますが、たとえば2巻P181では、死んだプレイヤーの幽霊をネタにアスナをからかったりするキリトさんが見られます。本人も「不謹慎な冗談だったな」と言っていますが、言うまでも無くこのセリフ自体がさらに「不謹慎」なわけで、斉藤環的な指摘ではこういうメタ視点での「ネタ」的な見方をしつつ、しかし同時にストーリー自体に「ベタ」にハマるというような矛盾した態度を矛盾したまま温存する能力こそが現代的オタクに固有のスキル「多重見当識」なのだということになりますので、ぼくがあげつらっているのは<多重見当識の作用の仕方>である、とも言えるかもしれません。
 そりゃアスナ可愛いし生きてたほうがいいと僕も思いますよ。いいじゃない、現実逃避なんだから色々ご都合主義でも。はい、いいんですよ。ただ、後書きなんかからもわかるとおり、言ってみれば人間にとってのゲームと暇つぶしについての思弁小説でもある本作において、この種の<安易さ>が残存する意味、というのはもう少し追求されていいんじゃないかと思います。川原てんてーはそのへん非常に禁欲的というか求道者的な作家で、「ゲームの中に入りたい!」というような身も蓋もない欲望に対して、それを忠実に描きつつも常に慎重に倫理のカウンターウエイトを乗せてきた人だと僕は思うわけです。
 たとえ息抜きの為の娯楽であっても、殺すの殺されるの言いつつ美少女と戯れる、というような逸脱的享楽を、何の留保もなく受容するということは倫理的に許されないわけです。許されないというか、楽しみつつも「ああ俺いまゲスいなぁ」という感覚をどこかに保存しておくことが必要だと思うわけです。最強プレイヤーとしてリスペクトされながら、ゲーム内で1、2を争う美少女を嫁にしてメシを作らせ、見せびらかしながら夜な夜な犯したいという願望は、結果論としてはアスナはキリトにぞっこんなわけですけれども、実際に読者はSAOの出版にはるかに先行してすでに抱いている一般的な欲望の可能態の、一つの現実態なわけです。これを正しくゲス視し続ける視点を持てない、持てなくてもいい、ということになりますと、同じ理屈で、たとえばレイプ描写だとか拷問描写だとかを好んでエロ漫画を読む人(僕でーす)は現実にレイプを指向し何の躊躇も持っていない、という大谷昭宏的なキチガイ理論こそが正しかったのだという倒錯的な結論を招いてしまうわけです。


 ちなみに短編集であるところのSAO2巻では、以下の箇所に食品関連描写が観られました。

P35、チーズケーキ
P41、酒のようなもの(「ルビー・イコール」)
P106、茶
P108、ホットドッグ(のようなもの)
P126、香草と干し肉のスープ
P133、ハーブティー
P143、ホットドッグ(のようなもの)
P178、目玉焼き、黒パン、サラダ、コーヒー
P196、スープとパン
P207、フルーツパイ、マスタードたっぷりのサンドイッチ
P221、街路樹の実
P246、パン、目玉焼き、卵、ソーセージ、野菜サラダ、茶
P267、カエル(スカベンジトード)の肉
P287、バーベキュー
P313、ワイン

こうして並べてみると1巻よりも増えているっぽく、しかしまあ短編集なのでどうしても場面の切り替わりに食事シーンを使ったりするという演出上の都合もあってさほど重要とも思えない食事シーンも多いのですが、これは単に川原てんてーが結構食い意地張っているという可能性も、微妙に捨てきれませんな。

 

 ところで僕、抱き枕カバーくらいはたぶん買うと思います。アスナの。