ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

川原礫における食品表現と、あとイジメ

 『アクセルワールド』と『ソードアートオンライン』は、どちらも同じ作者によるオンラインゲーム小説という共通項がありながら、というか、あるがゆえに、多くの箇所ではっきりとした対照性を持っているように思います。その1つとして、今日は食品に関する表現をあげつらってみようかと思います。
 『アクセルワールド』では、食品への描写がかなり執拗になされます。それもそのはずで、まあ『SAO』の食事はゲーム内、『アクセルワールド』の食事はゲーム外という明確すぎる違いがあり、さらにはハルユキの設定は『アクセルワールド』1巻の時点で「非常に燃費が悪く、1食でも抜けば眩暈がする」と述べられています。そもそもハルユキのデブで汗っかきでチビという属性自体が、ブレインバーストプログラムをしてシルバークロウという加速世界唯一(5巻時点)の飛行アバターを生成せしめるに至るほどの<劣等感>として、プロット上の要請として付加されたことは疑いのないことなのですが(そしてその為にラノベにおける定石――なんだかんだ言っても主人公はヒロイン視点では中の上くらいのビジュアル――をあえて踏みにじった川原礫の判断は相当にチャレンジングなのですが)、その構造自体が『SAO』の「現実世界の外見がそのまま使用される」という設定と対比構造を描いていて、大変面白いところであります。つまりこうですね。

AW [ 現実 ⇔ アバター

    ↑↓(対照的)

SAO[ 現実 = アバター

 これを念頭に置くと、ブレインバーストに対戦ゲームやライフハック以上に実存的意義を見出している黒雪姫様のレギオン名「ネガ・ネビュラス(暗黒星雲)」には、黒=カコイイという姫様の邪気眼センスのほかに「(現実の)ネガ(反転図)」の含意もあるのではないか、とか思い始めて面白いのですが、まだ読んでない先の巻でそんな話になったりはしないのでしょうか。まだ5巻までしか読んでないんですが、してたらしてたで、しなかったらしなかったでどっちにせよ恥ずかしいですが。

 若干話が逸れましたけれども、1巻でチユリが持ってきてくれたサンドイッチを粉砕するシーンは、読者に対してハルユキ・チユリ(・タクム)の、仲良しだった過去と、中学に上がりもはや取り返しの付かなくなった関係性の経時的変化を決定的に印象付け、ハルのブレインバーストへの強い希求と、自分と真逆の存在である黒雪姫への憧憬と、1巻後半でのタクムとの対立と、その試合の勝ち筋、さらには続刊でのライムベルの必殺技登場までの弁証法的展開全てを胚胎してまして、「食事はセックスと機能的等価」もしくは「セックスの隠喩」的な映画論的解釈に依らずとも、いかに『AW』において食事が重要な意味を持つかは首肯いただけるところかと存じます。であるならばクロムディザスター戦以降にハルユキの中に時折顔を出す邪悪な何かが囁く言葉がひたすら「喰イタイ」「喰ラウ」連呼なのも必然というものです。

 自宅で1人で食べる冷凍食品は、そのまんまハルユキの孤独で平坦な日常であり、対してチユリが持参する、チユリ母謹製の食品には、なんとかソースのなんたらドリアとか、なんかそんな感じの凝った設定がされており(例えば5巻197P)、ハルユキに対して関心をかけてくれるチユリの存在と、そのチユリを通して何らかの「手間」を提供してくれるチユリ母という、ハルユキにとっていわば最後の社会的実存基盤であり、同様にイジメっ子から下される「今日のコマンド」であるところの「焼きそばパン二個」に始まる既製品の羅列は、「いかに時代が進もうと絶滅しないゴキブリ級のバカ」と「そいつにイジメられるままになっている」「輪を掛けた愚か者」である自分の、凡俗きわまりない関係性(=大量生産品)という印象を与えてきます。ハルの外見が豚に類似し、アバターにも豚の使用を強要され、「遅刻したら肉まんの刑! チクったらチャーシューの刑だかんな!」というイジメっ子からの「制裁」までもが食品めいているのは、作品を通して「食べること」「食べられること」の社会的強弱関係と、その関係の明白な攪乱、無化、止揚を目論んでいるであろう黒雪姫の相剋が激化してゆく本作のスタート地点に、これ以上ない透徹した方向性を打ち立てることに成功していると思います。すばらしい。

 対して『SAO』では、ファンタジー風のMMORPGの中で、「牛型モンスターの肉」を使った食事という、「我々の味覚」でのファンタジー、安易なファンタジーが演じられていることがいささか気になります。無論、『SAO』は「ゲームをやっている人達」を描写した小説なのであり、であるならば「ゲームをやっている人達」の要求(したであろう)内容として、その「安易さ」はむしろ統計的に正しいところではあるのですが、しかしこの小説の受容され方として、


SAOキャラクター(小説内のゲーム) < SAOプレイヤー(小説内のキャラクター) < 読者(現実)


という、設定上は厳然と存在するはずの2重の疎隔が、実際には読者が「SAOキャラクター(小説内のゲーム)≒SAOプレイヤー(小説内のキャラクター) 」の双方に対してそれぞれ直接的に同化するような処理によって無効化されております。これは前述のアバター構造にも関連することだと思いますが、つまりこういうことですね。

 

設定:   SAO内キャラクター < SAO外プレイヤー < 物語外読者

 

実際:

          [ 物語外読者 ]    <アスナたんブヒィィィ
           ↓     ↓
     SAO内キャラクター < SAO外プレイヤー

 

 大方のゲーム的、アニメ的、ラノベ的ファンタジーにおいては、外見上は中世欧州のそれに似た服装文化や建築様式、技術水準が描かれていながら、しかし人々は汗や垢を毎日洗い落とし、整った上下水道によって糞尿は適切に処理され、子供達は「半分の労働力」ではなく未来の宝として尊重され、迷信や蛮習は一部地域や集団にこそあれ時代の趨勢としては既に理性によって駆逐されつつあり、人々は現代の先進国の平均的な倫理・道徳的観念を持ち合わせている、あきらかに「中世」ではない世界が現出しております。それはどうかなぁって思うんですよ。
 僕は何も、『ベルセルク』のように残忍極まりない流血「ファンタジー」を描くべきだ、と主張したいのではないのですよ。ファンタジーですから。幻想ですから。だからそういうイージーなのがあってもよいとは思います。『灼眼のシャナ』みたいに「風呂に入らずともコキュートスが清めてくれる」とか、「え? もっかい言って?」って言いたくなるような、「お前それサバンナでも同じ事言えんの?」って言いたくなるような、わけのわからんことを書いたっていいと思います。というか、いいとか悪いじゃなく現状そういうのがいっぱいあるんだからしょうがないと思いますけれども、やっぱりそれは「中世」や「ファンタジー」の本来持っている意味とは違いますし(まあシャナは現代劇ベースですが)、でもそのことを知るべきだとも思いません。思いませんが、ただ、こういう安易なものを安易と思わずに受容/需要する態度というのは、往々にして現実の生活にもだらしなく顔を出しますし、そういう時に、こういったタイプの人というのは、他人に対して恐るべき暴力的要望をするものなんですよね……。

 イジメ話ついでに、今滋賀で流行ってるらしい壮絶なイジメについて考えたことを記録しておきたいのですが、身体を拘束して殴る蹴るの暴行を加え、口腔内に動物の死骸や糞便を詰め、最終的に自殺を迫るというような、園子温監督でも考えないようなものをイジメと呼ぶのが言語表現的に適切なのか、その時点で、こうやって公的機関が「イジメ」なんて流行語を安易に使うと話がこじれるぞといういい例なのですが、仮にそこまでを「イジメ」と称することが社会通念上認められるとしても、加害者側の家族・親族が土地の「有力者」であり、警察権力を抱き込んで事態に隠蔽を図ったとする説が本当であるならば、それはさすがに「イジメ」とは言わないのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。
 百歩譲ってそれが「広義のイジメ」であるにせよ、その「イジメ」の中に「行政警察活動の私有化」が含まれているのであれば、それは「イジメ」と「行政警察活動の私有化」それぞれが、それぞれに判断あるいは批判されるべきではないのかと思いますが、そう思っているのは僕だけなのでしょうか。
 もしそうではないとすると、「イジメの一環」として行えばどんな違法行為も「イジメ」以上の追及はなされないということになり、僕も「イジメと称する事実上の○○」という形で、あらゆる犯罪行動を思考し志向し試行し嗜好し、サド公爵のように新しい倫理を追究する思弁を巡らせてみたい所ではあるのですが、しかし今回の犯罪性分岐ポイントはあくまでその地域における土着権力を掌握しているか否か、という点でありますから、僕はくん、くん、くんのような圧倒的権力とは無縁の、小プロレタリアートでありますし、結局のところ今回のお話もライブドア事件オリンパス事件の関係同様、ただひたすら「既成権力の有無」に関わるお話であったと、こういうわけであります。
 ですから、フジテレビが報道でフライング的に名前を公表したり、それを元にネット上で加害者の個人情報を拡散し、晒し上げることを「結局加害者と同じことをしている!」と憤っていらっしゃる良識的な方々というのもいるのですが、しかし「晒し上げ」を行っている人達は、なにもイジメそれ自体に憤っているわけではなく(イジメ自体に憤っている人も当然いるでしょうけど)、行政が特定個人に対してのみ「配慮」をしたという現実、つまり言ってしまえば「(準)公務員特権」に対して怒り狂っているのであります。「イジメた側をイジメ」たりしているなどという意図や目的はなく、それらはある種の「デモ」あるいは「抗議活動」であり、中央政府の方針に従わない「生意気な」土着権力や地域警察を、たとえば文身をした大阪市職員を叩くのと同じように叩いているのであります。それはそれでどうなんだ、という、橋本支持者に見られる悲しみがここにも、というだけなのですが、まあそれは現状致し方のないところであります。止まらない景気後退の中、「特権」と嗅ぎつけばどこからともなく叩きが涌いてくる。そういうものです。

 翻って昨今のソーシャルゲームの興隆の一部は、自己効力感の不全に苛まれる人口がいかに多いか、ということのいい見本であり、ソーシャルゲームによってすら自己効力感を満たすことは難しいタイプの人は、ソーシャルゲームを批判することで社会正義サイドに属している感および自己効力感を満たすという大乱交!! 同じ穴のムジナ!(gloops的表現)な様相を呈しておりますが、木村束麿呂くん、山田晃也くん、小網武里くんという新しいマトを発見して狂喜しているネットユーザーの中には、学校帰りのくん、くん、くんに石を投げる、熱湯をかける等々の暴行を加え、それをネットで中継するなどして「英雄」になろうとする人もおそらくは出てくるかと思いますが、そんなことはべつに珍しくもなんともなく、豊田商事事件の頃からございますし、当時は本当に殺したりしていましたから、なにも昨日今日の話ではありません。
 ただ、早くも「担任は朝鮮人」とかいう噂が発生し、果てはくん、くん、くんとその一家が朝鮮人であるとか、そういう話が出てもうすでに話がごちゃごちゃになっていますが、差別のメッカ関西で朝鮮人が警察や学校の要職に就けるわけないことぐらい少し考えれば分かろうというものです。今回の件も少なくともある時点までは権力者・特権叩きとして民衆の矛先を寄せ集めていましたが、事態が後半に差し掛かり祭りの熱気にあてられた無関係な人とかもすで集まってきているので、ちょっともう現在の祭りの成分構成は分からないのですが、少なくとも初動時点では、これはあきらかに行政府に対する不満の表出であったように思います。

 ここで『AW』の話に戻りますと、実際には現実社会における「イジメ」と称するもののほうが数百倍苛烈であるにも関わらず、せいぜいが昼食の使いっ走り程度のイジメ描写しか用いないながら、読者に対して圧倒的な敗北感、屈辱感、剥奪感を植え付け、加速世界へ誘引する川原先生の筆力と構成力はそれこそ筆舌に尽くしがたく、その筆力を使って『SAO』のほうでももう少しヒネリを見せていただきたいと思う今日このごろですが、なんせ『SAO』のほうは1巻パラ読みしただけなので本当はもっとすごいことになっているのかもしれません。アニメ始まったし追っかけてみるか!

 

 

2012/7/16 こちらに補論を書きました。

2017/6/05 一部プライバシーに配慮して伏字を行いました。

安易な世代論と古今東西文学者聖杯戦争 奈須きのこと佐々木中の類似性

 何気なく河出書房新社のHPを見ていて、佐々木中の新刊(それも小説第2弾)が昨年末に出ていたことを知りました。これが、あの、『しあわせだったころしたように』というんですが、概要を読んでみると、その、どうも「ころしたように」は「頃、したように」と「殺したように」がかかっているらしく、さすがHIPHOPに精通したアタルだっちゃ、タイトルからライムしてまっせ、とか思うよりさきに、え、なにこれ講談社BOXから出るの? え違うの普通に河出の単行本なの? ご冗談でしょう? ご冗談でしょう、ファインマンさん? 中森明夫河出文庫版の東浩紀『キャラクターズ』解説で佐々木中を指して「あれで小説さえ書かなければいいやつなのに……」と苦笑混じりに書いていたことを思い出しました。
 まあ小説がアレなのはアレなんですけど、よく見たらアナレクタシリーズの新刊告知も出ていて、どのタイトルが『この熾烈なる無力を』っていうんですよ。あれっ、これ何かに似てるなーって。この感じ。何だっけ、ああそうだあれに似てる「全て遠き理想郷」。
 結構似てる、とか、ぽい、とかじゃなくて、すんごく似てると思うんですよ。おなじひとが書いてんの? ってぐらい似てる。「己が栄光のためでなく」とかも似てる。半端なく似てる。『この日々を歌い交わす』とか『砕かれた大地に、ひとつの場処を』とかも似てる。っていうか書きながらどっちがどっちだったか既に分からなくなりつつあるくらい似てます。こうやって並べたときに、事前知識なしにアタルとキノコに分けられる人とかいんの? いたら逆に、僕はそいつのこと一生涯信用しませんよ。
 この類似性については、調べてみたら東浩紀が「佐々木中なんてエロゲで言えば奈須きのこみたいなもん」と発言しているらしい、ということが分かったのですが、「エロゲで言えば」なんて前置きは要らなかったんや! アタルとキノコは中身も似てるんです。どこが似てるのかっていうと具体的には、もつれながら全力疾走する文体とか、謎の断言調とか、断言の源泉になっていると思われる網羅的な自分ルール世界が似ていると思います。

 あたるんの場合は、大変に単純化して言ってしまうと、ピエール・ルジャンドルからの影響(影響というか、もともとルジャンドル的な傾向のあった佐々木中が事後的に準拠元としてルジャンドルを見出してるのかもしれませんが)であって、ようは文学的≒法的≒言語的世界というのは論理の無限連鎖であって、ある言説の根拠を別の論理に求め続けるのだけど、「論理的」であるためにはこの営みは中断を許されず、しかしどれだけ「論理的」に掘削していったところで絶対的な根拠というものは見出されない(当たり前だ)から、ある程度のところで循環論法的なものが発生します。そういう循環論法が発生する理路の周辺一帯をルジャンドルは「ドグマ的構造」と呼んでいて、一般にはたとえば「自然権」とか 「理性」とかいう言葉の周囲でこういう循環が起きます。「ドグマ的」というのは、一般的な言葉遣いとしては、「教条的」とか「アホ」というような意味で使われますが、ルジャンドルにおいては、「しゃーないねん。そういうもんやねん。ウチらにはこれっきゃないねん」的な意味で使われている。ような気がする。無限後退を強制的に打ち止めする言葉だから、これは宿命的に異様な断言調子になります。その断言調子で何について語るかと言うと、あたるんって文学がキマっちゃって現実界(ラカン的な意味で)行っちゃったみたいな人の話異常に好きで、主にそういう人の逸話を滔々と語ります。試しに『切り取れ、あの祈る手を』の一部を引用してみます。

 

言語学、そしてオリエント学とチベット学の権威にグリューンヴェーデルという人がいました。彼は1922年、『トゥスカ』という本を満を持して江湖に問います。トゥスカとはエルトリアのことです。エルトリアとは、紀元前一世紀ごろまでイタリアの中部にあった国で、インド・ヨーロッパ語族に属さない独自の言語を持っていました。古代エジプトの文献に見える「海の民」とは彼らのことだという説もあり、また古代ローマの王の数人はエルトリア人だったという説もあります。(中略)かくして、グリューンヴェーデルの名声は地に堕ちることになります。何故か。彼が解読したと言うテクストが、すべてある種の悪魔や呪術をめぐる荒唐無稽な幻想や、ありとあらゆる性的倒錯の巨大な一覧表のようなものだったからです。」

 

 あの本大体全部こんな感じです。これ読んで僕は思いました。「で、このグリューンヴェーデルってのは第何次の聖杯戦争に出てんの?」って。あたるん解説だと結局ニーチェカフカムハンマドも安吾も結局全部このノリで「魔術師」みたいになって、こいつら「魔術師」をラカンのR-S-Iに沿って並べて「根源」探しさせてるのがあたるん。きのこ先生のほうはもう、言うまでもなく複数作品に跨がった共通の世界観、自分設定の嵐。で二人とも、そういう世界観を表現する文体っていうのはもう、ああいう過剰に迸った文体しか無いんだろうなって気がします。書き手だけが所有してる情報が文字の背後に膨大にあって、書き手はいかにして読者にあまねくそれを伝えるかみたいなことに必死。きのこの場合も、インタビューとか読んでると、自作のキャラについて「誰某と誰某だったら直接対決したら誰某のほうが強いはず」とかなんとかそれ系の言及がすごい多くて、多分この人にとっては「誰某と誰某では誰某のほうが強い」とかいう情報は「自分が作った設定」というよりも「オレだけが知ってる情報」なんじゃないか、と思いました。創作ではなく、創作に対して先駆的に存在している情報。きのこはそれ受信してディクテートするだけ、っていう映画版恐怖新聞みたいな。そんで全部書き写すには時間も紙幅も足りねぇみたいな。あたるんにおける、言語世界のルジャンドル的解釈と文学者列伝がさらに渾然一体となっている。どちらにせよきのこもあたるんも、出し惜しみとかしてる場合じゃないから結果的に良心的。
 劇場版『Fate/stay night』が公開される時に辻谷耕史が「原作やってみたけどマジですごかった、奈須きのこは『イジメ世代の文学』だと思った、奈須君自身がイジメてたとかイジメられてたとかってことじゃなくて、教室っていう空間ですぐ隣に理不尽で精神肉体問わずの一方的ですさまじい暴力があるっていう異常な時代からしか生まれてこない才能だと思った」みたいなことを言っていて、あ、なんか腑に落ちるわーと思いました。
 そう思いながら何気なく調べていたら、奈須きのこ佐々木中は、Wikipedia情報が正しいとするなら、じつはどちらも1973年生まれなのです。佐々木が8月で奈須が11月。世間的に「今イジメが熱い!」みたいなことになったのが1985年(うわー僕の生年だー)だと言われているので、奈須中は自分達が丁度中学に上がるくらいのときにイジメ的環境が整いました! っていう、超大変な世代だということですね。たいへんだー。彼らと同じ年代(1973年4月~1974年3月生)が他に誰かというと、ざっとWikipedia見て、われわれキモオタに関係がありそうなところだと、鼠先輩、小西克幸(声優)、荒川弘鳥海浩輔(声優)、藤田晋(サイバーエージェント社長)、金田朋子(声優)、平川大輔(声優)、斎賀みつき(声優)、かかずゆみ(声優)、伊藤健太郎(声優)、柚木涼香(声優)、GACKTみずしな孝之宍戸留美(声優)、阪口大助(声優)、戸賀崎智信(AKB48劇場支配人)、吉野裕行(声優)、綾峰欄人森久保祥太郎(声優)、堺雅人川本真琴椎名へきる(声優)、杉山紀彰(声優)、岸尾だいすけ(声優)、田口宏子(声優)……てか声優多っ。あとロンブーの、1号だか2号だかわからないけど田村淳。
 ロンブーの田村淳といえば、われわれキモオタから見てこれ以上ないくらい100%のイジメっ子の見本だと思うんですけど、彼が1973年生まれというのは大変興味深いと思いました。いわばイジメのエリート。とはいえ田村淳が本当のイジメっ子なのか、それとも間近でイジメを目撃し続けた世代としてイジメのエミューレーションが異常に上手いだけなのか、それは分かりません。いじる一方で後輩への面倒見はとても良いとの説もあるし、どちらにせよ「イジメ世代の文学」ではありますね。
 てか小西・鳥海・平川・伊藤・阪口・吉野・森久保・杉山・岸尾ってすげえ。73年生まれだけで乙女ゲー1本作れる。にしてもこうして並べると、岸尾・鳥海・吉野あたりはもういい年なのにまだ「若手」って印象がどことなくあって、平川・伊藤・坂口あたりが壮年差し掛かり、小西がちょうどその二者の間、森久保は年齢不詳の勘違いV系男(褒め言葉)、杉山はそいつらに「センパーイセンパーイ」つって付いてきそうな、そんなイメージ。全員同じ歳なのにね!
 安易な世代論というか一般に世代論というのは安易になる宿命だと思うのですが、それでも人格形成期の中の同じ時期にある程度同じ体験をしている、というのは、各自がそれをどうやって受容・消化してきたのかという対比を見せてくれるので、まあやはりそれなりの妥当性があるものなのだと思いまして、ここにこのように残しておく次第であります。
 まあでもデリダの『火ここになき灰』とかも似てるから、73年だけが何だってわけでもないのかもしれませんがね。

2012年の夏はゾンビがアツい

 定期的にロメロブームというのは来ますし、それでなくても新しいゾンビ映画が公開されるたびに映画秘宝などが全力で取り上げたりするものですから、なんだか年がら年中大小ゾンビブームが起こっているような錯覚も覚えますが、マイアミゾンビとかいう本物のゾンビが出現したことにより今度の今度こそガチのゾンビブームが起こっている気がします。

 

 ラノベ読みにとってゾンビといえば最近はメジャーなところで『これはゾンビですか?』、マイナーなもので大樹連司『オブザデッド・マニアックス』とか。明確にゾンビとは言っていないのですがその昔スニーカーから出ていた時無ゆたか『明日の夜明け』というのが実質的にはゾンビものだったことを唐突に思い出しました。
 マイナーと言いつつ『オブザデッド・マニアックス』のほうは、まずトリビア集積志向の大樹連司ガガガ文庫というラノベ界の映画秘宝的レーベルでリリースするというその出自そのものがすでに自覚的というか再帰的なマニアックさを宿命付けているので、これを素直にマイナーと言ってしまうのは何か間違っているのかもしれませんが、まあしかし売れてはいないでしょうねえ。
 読売の記事に出てた多宇部貞人『シロクロネクロ』とか田口仙年堂『Zぼーいず/プリンセス』あたりはタイトルを聞いたことくらいしかないのですが、モンスターパニック系譜のほうのゾンビじゃなくて、回復魔法とせいすいでダメージ受けるRPG由来のゾンビとかだったりしそうな雰囲気。読んでいないから分からないけれども、どちらも巻数出ているし、それこそゾンビのような中高生にはけっこう受けているのかもしれない。読まずに批判めいたことを書くのはどうかと思いますが、しかし読みもせずに一方的に断罪してみたりするのもラノベの楽しみ方の1つであるのは確かです。
 その点でいうと『これはゾンビですか?』は、アニメ版のそれも1期しか見ていないので正確にはラノベ評とは言えないのですが、馬鹿騒ぎの合間に不死者の悲哀みたいなものをわりとしっかり入れてきているのが良かったです。これ普通にやると、ただ軽い話と重い話が交互に出てくるだけの双極性障害みたいなプロットになって物凄く入り込んでる人以外はポカーンとなってしまうものですが、『これゾン』はそのへんをすごく上手く作っていると感じました。「日常」を演出する方法として、『ひぐらしのなく頃に』のようにバカ騒ぎをくどいくらい延々描写するという手もあると思いますが、あれは相当波長が合う人でないと受け入れるのが難しく(幸い僕は一致していましたが)、もう少し歩留まりの良い感情動員を仕掛けてくれる作品があってもいいよなあと思っていたところでした。その点で『これゾン』は日常感の演出として、日本の一般的な建て売り住宅の描写をあそこまでしっかりやることで、それを担保していたのかなと思います。


 そもそもラノベ的・アニメ的・エロゲー的な描写においては、まず家族、特に父母の存在というのはかなりの確率で無かったことにされているか、もしくはそれ自体が主題または副題めいている(『クラナド』『さよならピアノソナタ』『とらドラ!』)のどちらかのように思われます。そのへんはわりと極端です。むろん商業エンタメですから、「特に書く必要」が無ければ描写が削られるのはある程度当然なのですが、しかしさしたる意味もなく、しかし家族がちゃんと描かれる『イリヤの空、UFOの夏』みたいなのも、これ自体がかなり特殊なラノベだとはいえ、確かにあるわけで、やはりラノベ(等)における父母描写はオールオアナッシングの傾向が強い気がします。
 兄弟姉妹に関しては、兄弟は主にどちらも主人公より圧倒的に優れたスペックを持っていて主人公の劣等感の原因になっている場合が多く(竹宮ゆゆこわたしたちの田村くん』、石川博品『耳刈りネルリ』シリーズおよび『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』)、姉は「弟に家事全般を強要する暴力的または粗雑な姉」(ちょっと出てこないけどすげー沢山読んだ気がする)として出てきて、しばしば物語冒頭において主人公に対し「抗えない運命」の表象として物語の初動を作る存在であることが多いです(米澤穂信の古典部シリーズとか)。んで妹は……まあ言わなくても分かりますよね。
 そうすると、それにつられて普通は住宅の描写もバッサリ削られるか、もしくは『クラナド』における古河パンや『とらドラ!』における高須家アパートおよび大河のマンションの対比のようにかなり特殊な物語的機能を備えた施設として詳細に描写されることになります。

 

 えーと何の話でしたっけ。ああそうゾンビゾンビ。ついでに家族の話に触れておくと、『オブザデッド・マニアックス』にもまた「化け物じみた姉」が登場しますね。こちらは物語の始まりではなく終わりのための装置です。どちらにせよ姉がデウスエクスマキナ的なものとして描かれている率ってかなり高いと思います。「兄」がしばしば強力な味方もしくは敵だったりするのに比べると対照的というか、ねじれの位置的。
 ほんで、大樹連司がガガガで出している著作のうち、ノベライズの『ぼくらの』『スマガ』を除いた、文化系3部作とでも言うべき『ほうかごのロケッティア』『ボンクラーズ・ドントクライ』『オブザデッド・マニアックス』は、どれも基本的に同じ方向を向いた物語になってます。つまりこれらの作品では、主人公達は何らかの理由でそれぞれ「自作ロケット」「特撮映画」「ゾンビ」に熱狂し、そしてどれも各ジャンル史を概観するような形でたくさんの蘊蓄を挟みつつ、つまらなくはないのだけどどこか予定調和的な起伏でストーリーを進行させて行くことになります。このストーリーというのが、かなり綺麗な教科書的プロットを持っているにもかかわらず、というかむしろそれゆえに? なぜか蘊蓄のための断片と断片を上手く繋げるために敷かれた流れに見えてしまうというところが、大樹作品の危うさというか何というか。例えるなら、自動車教習所で免許更新の時に見せられる「自動車事故で人生棒にふったったwwwww」みたいなショートフィルム、あれに近い印象を受けます。さすがに進研ゼミのマンガほどの露骨さでは無いけれど、こんなん言うとテメェ何様だよって感じですが、この人作家よりも編集者のほうが向いてんじゃねえの、と思ってしまう書き口です。誤解を恐れずにイージーな言い方をしてしまうと、この人も大変に器用貧乏な作家という気がします。
まあでもえろかったからよかった。えろかったっていうか、えっちかったよ。

 「ゾンビ流行ってるらしいぜ」つって『あるゾンビ少女の災難』が萌え絵魔改造されて文庫入りしたり、著者本人が歌うっていう許斐先生もびっくりPV展開してる伊東ちはや『妹がゾンビなんですけど!』がPHP出版のスマッシュ文庫という僕が1度も手にとったことがレーベルから出てたりして、PHP出版ってのはそもそも出自からしてそういう「厭らしい」本を出すためのレーベルですから、そこが嗅ぎつけてくるってのはやっぱり本当のゾンビブームなんだろうなあと思います。


 しかし、今本当にゾンビが流行っている業界はラノベや映画ではなく、ソーシャルゲーム市場なわけです。『ゾンビカフェ』『ゾンビレストラン』『ゾンビージョンビー』『ゾンビカーニバル』……まあソーシャルゲームといえば「戦国」が売れるつったらそこらじゅう戦国、三国志だつったら三国志、厨二ファンタジーだっつったらどっち向いてもドラゴン、胴元のGREEの社長自ら「『魔神英雄伝ワタル』みたいにユーザーが完全に飽きるまで同じのを作れ!』とかおっしゃるような美しすぎる世界なわけですが、それにしたって「戦国」「三国志」「ドラゴン」と並んで人気のジャンルが「ゾンビ」って誰が聞いても違和感しか無いんじゃないすか。
 ただ、ソーシャルゲームの強さの一因としてヴァイラル(平たく言うとユーザー紹介特典)という要素がありまして、まあ人を紹介すると何らかの報償があるというシステム自体はもちろん何ら新しいものではなく、最近もノマドの昇り龍(by切込隊長)こと安藤美冬さんの主要な収入源として注目されたアムウェイなどのマルチ(まがい)商法なんかが有名ですけど、ただこの、人を呼んできまくれ、という胡散臭いシステムが、「ゾンビ物」の時だけはむしろ演出の一部として機能させられるというのはあるかもしれません。ゾンビに噛まれるとたいがいゾンビになってしまいますが、ソーシャルゲームにハマった人が特典欲しさに招待送りまくってるのって本当にアレと良く似た光景ですよね。まあつまり何が言いたいかというと、ショッピングモールを徘徊するゾンビは消費社会の戯画である説というのがありますが、あれに乗っ取って考えると今日のゾンビはヴァイラルマーケティングの戯画としてスマホの小さな画面の中をウロウロしているのかもしれませんよっていう上手い話。


 あああと唐突に疑問なんですけど、ゾンビものに悲哀要素というか詩情というかを最初にくっつけたのは誰なのでしょう。「オルフェウス神話だろ」って言われたらふみゅーんってなりますが、いや、もう少し現代的な文脈でかつポップカルチャー的なやつで、しかもオタ系のクリエイターに直接的な影響を与えたもの……というと、大槻ケンヂ『ステーシー』というか『再殺部隊』とかがかなり大きな影響力があったのではないかと思われるんですが、『どこへでも行ける切符』→綾波レイ→『アルエ』ほどのはっきりした痕跡は見いだせない。『オブザデッド・マニアックス』には『ステーシー』への言及があったものの、これはそもそも「メタゾンビもの」なので当然と言えば当然だし……。それにしてもガガガ文庫ラインナップのオーケン感は異常。オモイデ教のスピンオフとかも出しているし、そろそろガガガ文庫からオーケン本人が何か出すんじゃないかという気もします。
 あとはクトゥルーをGAに取られてきっと地団駄踏んでいるであろうガガガ編集部、そろそろ小中千昭あたりに頼んで青春UFOモノとかを書いてもらうべきではないのでしょうか。あの夏、八王子の山奥でオレ達は確かに見たんだ、空一面のUFOと、内蔵が空っぽになったイノシシの死骸、黒いスーツの2人組――。みたいなやつを。

 あ、あと家族の話をすると、僕の弟は本当に「ゾンビ」「オブ・ザ・デッド」と名の付く映画を片っ端から見ているゾンビ映画オタクでしかも重度のFPS症候群なのですが、彼はそこそこの高学歴(しかも文学部)であるにも関わらず『オブザデッド・マニアックス』で主人公2人が滔々と説くようなゾンビの文化誌には一切興味を示さず、ただひたすらふざけた方法でゾンビを損壊しながらサバイバルをするという「シーンの連続」にのみ反応するのが、僕から見ると大変に不思議です。しかも彼はイケメンなんですよ。そこが一番不思議ですね。

 

 本当は最近知った「おじろく」「おばさ」の存在と、最近増えたらしい鬱病(のかなりガチなやつ)を短絡的に結び付けてさらにゾンビの話につなげたりもしたかったのですがそういうのは創作でやるべきだな。

印象論

 メモブログをこさえてから気付いたら48日が経過していましたが、その間読んだラノベについてはちまちまとした断片的な印象を書き溜めたのみで、文章の体裁を持っておらず、ここに載せるのすら躊躇われます。近いうちになんらか……数行程度ずつでもまとめていこうかと思っています。というか、最近思うことは、僕は何を書いても印象論的なものになりがちなので、むしろ割り切って印象論を記録していくほうがいいんじゃねえの、ってことです。

 

 とりあえず読んだことを覚えているのは、

・勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。

・ワールズエンド・ガールフレンド

・魔法少女育成計画

・東雲侑子は恋愛小説をあいしはじめる

・すべての愛がゆるされる島

 

 あれっあんまり読んでない。まあラノベ読んでばっかりいるってわけでもないから仕方ないのかもしれないけどラノベ好きを自称するにしては少ない。

でもこうして並べるとすごい。

 

 就職・少女・少女・恋愛・愛……ですよ。かつてこれほどまでに現世的欲得尽くな小説ジャンルがあっただろうか。『勇しぶ』以外は最近の流行り(「ヤンデレJCがおちんちんまっしぐらでお前ら大勝利」的なそういう感じの)から外れたタイトルなのに、それですらこの即物性。ビジネス書(「なぜあなたのクラウド部下は指示しないと営業成績を見える化して成長しないのかが面白いほどわかるたった200の理由」的なそういう感じの)との近似性を感じる。あーほら出た印象論。これだよこれ。ひょっとしたら僕がそういう現世利益的なラノベばかり読んでいるってだけかもしれないじゃないか。

 

 これ以外に『クズがみるみるそれなりになる「カマタリさん式」モテ入門』を、前に1度読んだのに面白すぎて読み返してしまったりしているのだけど、そしてこれだってべつにまさか本当に方法論としての実効的なモテが指南されているわけではなくて、更に言えばそういうビジネス書的サンマーク出版的なマニュアル本(という言葉は最近使われなくなってきた気がする)をパロディにしているわけだけど、そうは言ってもパロディである以上は表面的には似たような形をしていないとパロディとして成り立たないわけで、上記5作品のようにタイトルから1単語抜き出したら「モテ」だからなあ。

 

 まあ、いいや。とりあえず積んでたラノベはあと少しで消化できそうである。

『龍ヶ嬢七々々の埋蔵金』を少しずつ読み進めている。つまらなくは無いのだけど、西尾維新の一番良いところを一番悪い意味で真似しちゃっているような感じ(というこの表現がちょっと西尾維新っぽい気がするが)。

 つまり、極端に変な名前付けて、名前から連想するような属性を付与したらそれだけでキャラクターは成立するし、そのキャラクターを10人くらい並べて掛け合いさせとけばそれなりに何とかなる、ということ。そのことを言語化しないでむしろ血肉化したらこんななります、という例みたいな感じがする。そういう意味では天才タイプというか、養殖でない感はある。編集者がそこに期待してるっぽい雰囲気が伝わってくる。

 読んでるときの気分としては、「素人が書いたにしちゃ面白いな……」。ちゃんとファミ通文庫から出てるっていう事実を頭で理解して、かつ「とりらえず商業ラインで本出したら商業作家」っていうことを自分に言い聞かせて読んでも、なぜか「えーっ、これ、素人が書いてるんですか?」って頭が反応してしまう。プロだつってんだろ! そういう不思議な読中感がある小説です。

 

 全然関係ないけど、最近の若いオタクの人はみんな、セブンスドラゴン2020に出てきそうなカッコしてますね……。

ブログ

このブログは中島総研というちっこい批評同人サークルの片割れをやっている私が、文フリのたびに白目向いて喉パサパサになるのはつらいので読んだ本のこと(ラノベを本と呼んで差し支えないものとして)をまとめておく場所です。

うっかり作品名でぐぐってきてしまったかたはネタバレなどに注意してください。

美少女ソーシャルゲーム

夏の終わりの8/30、ソーシャルゲームプラットフォーム大手のGREEが、取引のあるデベロッパー各社に「GREEデジタルコンテンツ内の性表現に関するガイドライン」を発表しました。

 

イラストなのに「児童ポルノ」? 「GREE」性表現ガイドラインは業界に有益か? http://www.cyzo.com/2012/09/post_11364.html

 

ま あ詳しい条文的なものについては上記記事を読んでいただくとして、一言でいうと内容はかなり細かく網羅的で、漫画雑誌でいったらたとえばチャンピオン REDいちごどころか電撃大王とかのレベルですらこれ一撃でイオン分解して塵に還るぐらいの締め付けなわけですが、GREEと仲の良い某新たな死生観を抱 くデベロッパーとかは相変わらずアプリ内どころかPF上のアイコンまでドエロ仕様で余裕ぶちかましながら「打倒Zyngaとか言っても弱い者イジメみたい ですよね~」とか言ってるわけなんですが、それ以上に

 

 

>「露出が多く、且つ著しく胸部を大きく描写している」

>「著しく開脚をした姿の描写」

 

お いおいてめーんトコのコレhttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/1209/11/news072.htmlは どうなるんだよとかいう気持ちもあったりしますけれども、それはさておき明文化されていないだけでmobageのほうがさらにレギュレーションが厳しいん だ説というのもありまして、ライバルのGREEがこうして明文化している以上、比べられても問題無いようにある程度それと同調するような動きを取るのはた しかに普通なことです。

GREEは各デベロッパーに対応する担当者によってエロ基準にかなりのバラつきがあるといわれてきましたが、今回こ ういった統一基準ができたことで、まぁ現行のアプリケーションからエロい画像を一掃するのは無理だとしても、新規アプリや追加カードなどに関しては横槍入 れ放題になり、時間経過とともにプラットフォーム全体も「健全」化の方向へ向かっていくものかと思われます。

 

このブログでは、こうした潮流に鑑み、この先美少女ネタのソーシャルゲームがどうなっていくのかをウォッチングしていくという名目のもといつも通りの雑な思考を垂れ流しつつモバマスをプレイしてます。

 

属性はCOOL、「付き合うまでは神谷奈緒、付き合ってからは渋谷凛」という考えでやってます。よろしくお願いします。衣装取りに来たら3凸するからな。