ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

夢・地元・グローバル μ'sとUVERworldとインド映画

■青春聞こえてんのかオラッ!きっとじゃ困るんだよオラッ!

この間、『ラブライブ!』のアニメを全部見たんすよ、ラブライブ!。二期じゃなくて無印。地上波が完全に終わってからだったので、何らの情感をも周囲と分かち合うことなく、真空状態の中で私VSμ'sの真剣勝負です、やるかやられるか。チュンチュンするのかされるのか。そういう戦いごっこ、みたいなもの……。
それで、周囲が居ないわりと冷静な状態で最終回見るとなんかこう……あれ……? え……? こんなんでいいの? これ、みんなでことりの足引っ張ってるんとちゃう……? いや、でもことりの本当の気持ちは……? みたいな煩悶から、まずこれは物理的にコンテンツから離れている間も当該コンテンツのことが頭から離れないようにするジャンプ黄金期、カイジ沼編、ソシャゲ的やり口だ! 汚え。さすが課金芸だけでKlabを倒産から救っただけのことはある。汚いが考えさせられる……なぜならことりと穂乃果その他についての問答が、いつのまにかちょっと前に流行した新書のありがちだけど侮れない「地方VS東京」的な若者論に発展してしまったんですよ。若者論。
若者論といえば、ポップミュージックの歌詞から世相と若者像を読み解くっていうのが定番なわけですけど、音楽性を語る語彙を持たずに歌詞のテキスト分析だけやってると宇野常寛みたいになるぞ、そんなのは嫌ー!

でですね。ラブライブ!一期終盤のテーマになってた、ことりの夢とμ'sの未来の対立を見ていたら、ふ、不覚にも連想してしまいましてね。私の大好きなUVERworldを。ちょうどそこに最近ぱらぱらめくった阿部真大の『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』

がオーバーラップしてきまして、この本はJPOPの歌詞の基調が

既成権威への反発の時代(80年代)
努力や実力の時代(90年代前半)
閉じた関係性の時代(90年代後半)
家族・地元志向の時代(00年代)

と変遷してきたと主張していて、この流れの先にONE OK ROCKRADWIMPSを「ポスト地元志向の時代」と位置づけています。
ポストとか名付けてる時点で「地元志向そのものではない」以外何も言ってないに等しい否定神学を予期してしますが、実際、本に書かれていたワンオク分析としては、特に「地元」を否定するわけでもなく、自身が未完成であり途上であることを見つめ、他社とのぶつかり合いを通じて高まってゆくという方向性が抽出されていました。

地元の持つひとつの性質であった「居心地の良さ」(当然それは地元にのみ備わった特性というわけでは無いけれど)をかなぐり捨て(地元が「居心地の良い場所」であるという決めつけ自体が許し難いという人もいるはずですが)ている、という意味では「非-地元」の価値観と言えるのですが、あくまで地元そのものではなく、地元(など)の持つ居心地の良さの裏にある「お互い様」的な事なかれ主義に唾を吐きかけ、他者とのぶつかり合いによって自己を錬磨するという志向性ということで、確かに「ポスト地元」としか表現され得ない、強いて言うなら「アンチなあなあ」な志向性ですね。
まあ唾は言い過ぎでしたね……。

で、そんなポスト地元の潮流の中で、明確に「他者とのぶつかり」以外の方向性、そして「反-地元」の方向性を提示しているのがUVERworldです。


UVERwordについての基礎論はこの人のがいい感じ。

『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』 : 妹の声が聞こえる

 

なお引用されている「23ワード」のタイトルが意味するのはピカソの本名で、同曲の他の箇所では殺害されたジョン・レノンへのシンパシーを唄うなど、既に誇大妄想狂の気のある∞さんですが、「願い続ければ夢は必ず叶う」のであれば、そのぐらいbigな先達と自分を連続性のあるものとして捉えることはまったく論理的に正当なので笑ってはいけません。


ここまでの文脈に位置付けてみると、ポスト地元の一潮流である「他者とのぶつかり」とは別の、「それぞれに自己と戦っている者(達の連帯)」という形が見えてきます。そして、その戦いを為すためには彼らは地元(滋賀)を離れ東京を目指す必要がありました。

UVERworldというとなんかもう「ウーバー」っていう名前の音の響きからして「ウェーイwww」の一種だよね、と思われておりまして、まあ実際そういうとこもあるんすけど、上記のような位置付けから、私は現在のメジャーJPOPにおいて最高峰の批評性を備えたバンドであるとも考えておりまして、しかも一見うぇーいなのに実は……、というところが、こう、東京事変みたいないかにも「タダ者じゃないですよ私たちは」って耳無し芳一レベルで書いてある人達よりも、よりクリティカルな感じがしていいと思うんですよね。
(まあUVERUVERで「ゆうて俺らチャラいけどホンマはかなり深いで?」みたいな顔してるっちゃしてるんですけどね。)


■異様に勝ち負けに拘る粘着質なバンドUVERworld
「元々あるスタート地点、<有利な位置に立ってた者>しか夢を追いかけてはいけない訳では無いことを、俺は歌っていきたい」、というのはUVERworldのドキュメンタリー映画『THE SONG』の冒頭でボーカルのTAKUYA∞が言っていることです。TAKUYA∞というのはUVERworldのほとんどの曲を作曲し、全ての曲の作詞をしている人なので、UVERの思想的な面はほとんど全部この男によって規定されていると言っても過言ではありません。
そして彼が言うように、確かにUVERの歌詞は(最近の曲は特に)要約すると「夢を諦めるな」がかなりの部分を占めております。しかしそれはいわゆる「JPOP的」な、「いつか叶うよ」とか「きっと大丈夫だよ」という優しいものではなく、

予想以上に仲間は集まった
お互いの日々や将来の話で
熱くなって殴り合いになった
15の頃も不安から逃れるように
同じような事で殴り合ったこと思い出して
お前が笑い出すから

CORE PRIDE

不安と迷いから見つけ出した生き方も
安らぐ方に行こうとして
汚い世界で息を止め居心地にも慣れてきて
青春に裏切られた大人の仲間入りするのか?

(RIVERSI)

永い間 雨に打たれ過ぎた
純朴な夢とその理想が 僕を裏切るカルマ
叶えたいことと叶わなそうなことが重なって見えるけど
人生が二度あるなら こんな険しい道は選ばないだろう
でもこの一回 たった一回しかチャンスが無いのなら
何もかも諦めて生きていくつもりは無い

Fight For Liberty

 

考えてみろよ あの 恐れてた魔物が
何故 お前と同じ姿で立ってるのかを
人の数より少し 少なく用意される希望
辞しても自転してく地球

(ナノ・セカンド)

 

といったふうに、「夢は叶う」と言いつつも、一方では誰かと誰かの夢と夢が競合した場合に「人の数より少し 少なく用意される希望」という状況がありうることを喝破し、さらに「青春に裏切られた大人の仲間入り」「何もかも諦めて生きていく」など、夢から落伍した者へは全く容赦がありません。
そこでは、

誰もが送る日常を犠牲にして咲かす花は美しい
ただそれを見せたくて また僕は太陽に手を伸ばす

(AWAYOKUBA-斬る-)

 

に端的に象徴されるように、明確に絵仏師良秀的な芸術至上主義が貫かれてはいますが、そこで想定されているのは、選ばれた一部の人間にしか理解ができない芸術ではありません。
UVERworldの世界観においては、「売れないけど良い曲」などというものは想定の埒外であり、「本当の本気の音楽」は「完膚無きまでに 音だけで世がグゥの音も出せぬ程」である筈なのです。
そのため、現代のロックバンドその他を多くのクリエイターが取りがちな「分かる人だけが聴いて/読んで/見てくれれば良い」というようなスタンスを、UVERworldは全く採用しません。
ですから、オーバーグラウンドしなければ意味が無い、と考えるUVERworldにとって「地元に残る」ことは自己の限界を受け入れることであり、自己との戦いの放棄となるのです。

 


UVERworld 『ナノ・セカンド』 - YouTube

「俺達が東京に出てくる前、いくつかのライブハウスのおっさんに言われたよ。成功するイメージばっかりじゃなくて、もっと現実見ろよと。
お前、東京だぞ、東京行くんだぞ、もっと現実見てから物を言えよ、って何度も言われたよ。
いいか? ここ東京だぞ。現実ばっかり見てたら、こんなもんな、一歩も前に出ねえよ。
もっと素敵なイメージ持って、想像力あんだろ? 素敵なイメージ持って、幻想や、幻の中で、生きてみろよ!
そして、その俺達の、幻想や、幻が、幻想や幻のまんまで終わっていい訳ねえだろ!」

 

殆ど「説法」としか言いようがない宗教的なPVですが、ここにはUVERworldの性質が良く現れています。
箇条書きにしてみると、

①自己との勝負の延長上に上京とメージャーシーン進出を位置付けるパースペクティヴ
②「いくつかのライブハウスのおっさん」ごときの与太話をいまだに根に持っている粘着性
③上記①と②が合わさった結果生まれる、「自己との勝負」のブレと「勝負」全般への回帰、他者との勝負の束の間の復権

といったところです。
それぞれに対応する歌詞を引用してみるとこんな感じです。

 

そうやって意地張って 踏ん張って生きてなくちゃ 時間の流れさえも怖くなる
本当に殴るべき相手は そんな自分だろ
ただ今は負けたくない自分に負けない「プライド」

CORE PRIDE

 

どうしても僕を認めたくない全ての人に
心から感謝を捧げるよ
敵も味方も その存在に平等に価値を感じる
でも白黒つけようか

(RIVERSI)

 

人生が二度あるなら こんな険しい道は選ばないだろう
でもこの一回 たった一回しかチャンスがないのなら
何かをもう傷つけ傷つけられたとしても
後ろに明日は無い 力を宿せ WAR
何もなかった日々に 力を宿せ WAR
今しか出来ない事も確かにあった
戦う時はいつだって一人だぞ
でも一人じゃない事もわかるだろ?
Every life 力を宿せ WAR

Fight For Liberty

 

今住む世界に根本で
勝利も敗北もない
頭で理解しようとも
闘争心という感情があるから
またやっかいだな…
リスクを恐れるような
生き方は 若さ故
一過性のものと願ってたいが
永遠にそこでしか生きる
意味を感じられそうにもないな

Hustle and bustle
Don't Think.Feel
無心 不動 且つ 唯一無二の思想
誰かのために生きていく
それさえお前のためだろ

 (Don't Think.Feel)


戦うべき相手は己自身であるとしながらも、「戦い」に過剰にフォーカスした結果、戦い自体が自己目的化し、やがては再び自分自身以外のものも「戦い」の対象として再び立ち現れて来るような論理の綻びと、綻ぶほどに濃密な闘争のアンセム。これがUVERworldの両義的な危うい魅力であることは間違いありません。「儚くも永遠の」とはよく言ったものです。


■グローバル単位で見たら神田とか田舎なわけですよ
UVERにおける夢(脱地元志向)と非・夢(地元)の対立は、ラブライブ!では「夢(一流のスクールアイドル)と別の夢(デザイナー)」の対立の形を取ります。

もちろん音ノ木坂があるのは設定上千代田区の神田で、首都の中心近くなんですが、服飾デザイナーということりの「夢」はフランス?だかオーストリア?(忘れた)においてしか実現しない、ということになっています。もちろん、ファッション業界において日本やアフリカその他の非ヨーロッパ地域のモチーフがトレンドとなることはよくありますが、それはあくまでヨーロッパを頂点としたモードの帝国の中の面白民族枠でしかなく、典型的なオリエンタリズムの対象としてしか成立しません。現実の世界規模のファッションにおいては、ことりの作品は東京に居る限りは、ニッポンのAKB48-likeなkawaii gal-fashionでしかなく、気が付いたら自分が村上隆にマン拓取られて1/1全裸フィギュアがサザビーズで100億円!とか、そういうゲテモノ扱いでしかないわけです。
ことりが夢を叶えるには、「フランス(だっけ?)≒ヨーロッパ≒世界」に出て行かなければならないのです。

UVERworldにおいて<滋賀:東京>、<地元:都会>が持っていた構図(地元を離れなければ夢を追う事ができない)は、ラブライブ!においてそのまま相似形で日本:世界の形で<ローカル:グローバル>の形になるわけです。
そしてなんと、ことりちゃんは神田に、音ノ木坂に、ローカルに残る選択をするのです。
マジかよ!∞さんが知ったらバッコリブチ切れちゃうよ!
この場面については、尺の無さによる説明不足や瞬間移動なども相俟って、かなり翼賛的にラブライブ!視聴していた層にとっても宙吊り感の強いエピソードだったようです。しかし、おそらくこのエピソードは、どれだけ尺を費やしたところで万人が納得するものにはならなかったでしょう。それは別にUVERworldの世界観が正しいからということではなく、単にことりの夢とμ'sの存続のどちらが重要なのかが結局のところ価値判断の問題でしかないから、ということでもあります。しかしそれ以上に座りの悪い根本要因は、「叶え!私たちの夢――」と標榜した作品が、神田というローカルに留まることでしか叶えられない夢(スクールアイドル)を提示するだけならまだしも、そこに地元を出ることでしか叶えられない夢(デザイナー)をストーリーの流れ上不用意に対比してしまい、その解消をもっぱら、「ことりは本心ではデザイナーの夢など追ってはいなかったのだ」と想像させることに委ねているからです。価値判断の問題を、「価値判断をさせない」という形で償却しているのです。

 

穂乃果「ことりちゃん、ごめん。私、スクールアイドルやりたいの。ことりちゃんと一緒にやりたいの。いつか、別の夢に向かうときがくるとしても」
ことり「ううん…私のほうこそごめんね……私、自分の気持ち、わかってたのに……」

 

このことりの主体性の無さによって、全ては曖昧で未決なままに留め置かれています。「自分の気持ち」が「神田に留まりスクールアイドルを続けること」なら、そもそもなぜことりは留学の手続きなど取ったのでしょうか?百合SS厨であれば、幼馴染の穂乃果の気を引くためだとか、穂乃果(たち)と自分を比較して主体性の無さを嘆き、一時的にある種の自己破壊衝動に駆られたのだといった牽強付会な深読みも可能でしょうが、それであっても、それらは作品の根底にある「夢」とは異なる位相の話です。
「夢」の位相においては、あくまでμ'sの夢と対比されるのはことりの夢であり、そのことりの夢はことり本人の口からは「自分の気持ち、わかってたのに……」と、「自分の気持ち」では無かったかかのように(しかし「本当はデザイナーになどなりたくない」と明文化することもなく)語られるわけですが、では本当は留学など全くしたくなかったのかといえば、そういうわけでもない「筈」という、視聴者の常識的判断による推測に委ねられています。

慎重に、しかし若干の百合テイストを踏まえつつ忖度するなら、ことりの「自分の気持ち」とは、「デザイナーの夢も追いたいけど、μ'sを諦めることもできない」という両立不可能でかつ判断不能な状態に留め置かれていることであり、「じゃけん、穂乃果さん決めましょうね~」と穂乃果に判断を委ねたいという欲望です。
もっとも、『ロミオとジュリエット』における家柄のように、位相が違うからこそ恋情と対比されうる典型例もあるわけですが、ロミジュリ的なものにおいては「家柄によって蹂躙される悲恋」のその悲恋性が需要されているのであって、家柄間の対立が個人間の恋愛に優先することを前提としたものではまったくないはずです。この図式を今回のラブライブ!に当てはめるならば、視聴者の大半が「モンタギュー家とキャピュレット家のどちらが抗争に勝利するのか」にしか興味がないという大変奇妙なロミジュリが生まれます。なら『仁義なき戦い』でも見ておけという話。

若干脇道に逸れましたが、前段でのUVERworldの世界観を踏まえてラブライブ!一期の最後を整理してみましょう。
UVERworldにおいては「夢を叶える」ことは、自己との闘争であり、自己の限界を追い求めることである以上、必然的にローカルを捨てて、より上位のレイヤーを目指すことを直接的に意味します。
そこでは夢の成否は、(自分に対しての)勝ち・負けによって一元的に決まりますが、その二元論への強すぎる執着が「勝負」それ自体の全景化を招き、不可避的に「自己」以外との闘争に回帰しはじめるブレを生んでいます。
ラブライブ!においては、ローカルでのみ「夢を叶える」ことが可能なシチュエーションを描きながら、ローカルに居ては叶えられない種類の「夢」が夾雑した結果、夢と夢の対立が生まれるはずが、そのことは非-ローカルな夢の持ち主(ことり)の主体性の無さをという評価軸の導入によって巧みに躱され、ローカルな夢と非ローカルな夢が必ずしも対になったものではないかのように描かれます。
このことは、「アーティスト」としての彼女たちを心から応援しながら、その一方で「声優なのに」ミュージックステーションに出演するから凄いのだ、というような倒錯した権威化から逃れることができない多くのファンの複雑な心理と無関係では無いでしょう。「声優業界」「アニメ業界」というローカルの中での鶏口も、非-ローカルな音楽バラエティにおいて牛後とならざるをえないという認識上の抑圧に常に曝されている精神的負荷は、穂乃果とことりの夢の本格的な対立を直視させられる状況とパラレルです。


■唐突なインド映画話、『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』のこと
地方と中央、という図式から私がもう一つ連想したものは、インド映画の『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』です。
よく知られている通り、インドは映画産業が非常に盛んな国で、インド映画のことはボンベイとハリウッドをかけてボリウッド映画と通称されます。
私自身はインドについて何を知っているわけでもないので、いつもの如く、映画を見終わった人が本論を読む前提で印象論に終始します。

ストーリーのあらすじは、恋人シャンティとともに有名プロデューサーのムケーシュに殺された売れない映画俳優のオームが、30年後にスター俳優として転生し、ハリウッドから戻ってきたムケーシュを追いつめる、という内容です。
『オーム・シャンティ・オーム』終盤、畳み掛けるようなとしてちょっとSound Horizonっぽいミュージカルの中でムケーシュの悪事が暴かれてゆきます。そしてムケーシュの罪が全て語られたとき、ムケーシュは天井から落下してきたシャンデリアに潰されて絶命します。
少なくとも私は、このシーンに達成感や爽快感を覚えつつも、復讐殺人(殺人を犯す主体が幽霊なので、刑法――おそらくインド刑法においても――上は犯人不在の事故なんですが)に対して、自分が抱いた感情は、一言で言うと「ちょっと、ひいた」というものでした。そして私は、これがこの復讐劇を書いたインド人脚本家の感性と、現代の日本人の通俗的な感性や、おそらく現代の欧米人の感性との違いに由来するものであると考えました。しかしこれは、半分正解で半分不正解だったと思われます。


赦し難い相手であってもそれを殺すことには躊躇いを感じ忘却と共に許すか、もしくは忘我の瞬間に衝動的に復讐を成し遂げ、そののちに後悔しおののくのが、通俗的な現代日本人の共感を得やすい感性(私の見た限り、韓国映画の多くもこの構図をとります)です。
また、超越者(神)の代行者として裁きを下し、規範や社会契約=法律を犯してまで私刑に及ぶという葛藤を自覚的に決然と踏み越えるのが欧米人好きのする内容です。
これらに対して、恋人に殺された女が幽霊となって復讐する、というどこか土俗的でおどろおどろしいストーリーがあっけらかんと語られるのが『オーム・シャンティ・オーム』です。

『オーム・シャンティ・オーム』における復讐殺人は、そこに至るまでの語りは非常に饒舌でありながら、復讐そのものは非常にあっけなく成し遂げられます。
そして、復讐の主体は、果たして「主体」と呼んでいいものか判然としません。これは殺人を犯すキャラクター(シャンティ)がそもそも人間ではなく「幽霊」として現れる」こと自体もそうですし、その幽霊シャンティ自体の描写が、人称的ではあるけれど本当に人間的な主体を備えたものかどうかが今ひとつぼやけていて、あたかも生前の人格のうち特定の側面のみが現前しているようだったり、特定の感情や目的に奉仕する部分だけが現れているかのような、完全な「人格」であるかどうか特定できないもの、人格と非-人格のあわいに現象している、という意味でもそうです。
殺人を「人間が後ろめたさや葛藤とともに成せたり成せなかったりする、あるいは成したのちに後悔する」のがインド以外の映画であり、「人間ぽいけど人間じゃないかもしれない何かがアッサリ為す」のがインド映画、ということです。
さて、ここまで『オーム・シャンティ・オーム』以外の例を見ていないにもかかわらず「インド映画」全般と強引に括り、県民あるあるレベルのことを垂れ流しているようにも思われるかもしれませんが、そうではありません(ちょっとだけそうかもしれません……)。


なぜなら、『オーム・シャンティ・オーム』には、インド映画のメタフィクションを自任する性格があるからです。それはインド映画の往年のオールスター(と、パンフレットは主張しています)が次々登場し、いかにもマサラ映画なダンスミュージカルを見せるという意味でもそうですし、キャストやスタッフがキャストやスタッフとしてそのまま挨拶をしながら去って行くというエンディング演出もその一環と言えますが、それだけではありません。

 

『オーム・シャンティ・オーム』において、「悪役」のムケーシュは、「ハリウッド進出」を夢見ており、その妨げとなるシャンティを殺害しました。つまりムケーシュは、ボリウッドに対する決定的な裏切り者であり、ハリウッド(グローバル)への忠誠心のためにボリウッド(ローカル)を裏切り、傷付ける存在として描かれているのです。
そして、それに対するオーム達の復讐は、試写フィルムにシャンティ(のそっくりさん)を映り込ませることに始まり、発火装置を作ったり、お母さんにキチガイ老女の役作りをしてもらったりなど、「映画の悪は映画でとっちめてやるぜ!」とでも言わんばかりの、どこか牧歌的なものです。もちろん彼らも最終的にはムケーシュに罪を自白させるという目的に向かって動いてはいるのですが、そのプロセスはどこか呑気に映り、我々が通俗的に想像する「インド人」の姿そのものです。ですから、この「インド人っぽさ」もまた、自覚的なカリカチュアであると考えられます。そのカリカチュアされたインド人像の後に、唐突な苛烈さでムケーシュを処刑し去ってゆくシャンティは、生命を産み(妊娠している)、奪うという、これもまたいかにもなインドの地母神的性格を体現した存在です。
復讐をテーマとした現代の多くの物語は、復讐の準備を着々と整える、という後ろめたい高揚感を伴った、ダークヒーローもの、クライムサスペンスものの性質を持ちます。その享楽を得るとき、視聴者はもれなく犯行の主体に同化しています。
これには無数の例が上げられますが、貴志祐介『青い炎』で凶器や酒を用意する場面、それに着想を得た『ひぐらしのなく頃に』。白石晃司『オカルト』で榎野とともに爆弾を創る場面、同『殺人ワークショップ』の訓練シーン、『処刑人』の武器購入シーン等々。
しかしながら、『オーム・シャンティ・オーム』では3時間の長丁場を通して、視聴者の視点はオームとともにあります。オームの視点で能天気な復讐を企てた後、最後の最後で復讐は失敗しかけますが、その時突如シャンティの幽霊が現れ、想定外の苛烈さで復讐を成就させ永遠に去ってゆきます。オーム=視聴者はここで呆然と置き去りにされます。置き去りにされたのち、復讐に対しての自分の認識とシャンティの怨念の強さのギャップを埋め合わせながら、同時進行でエンディングを迎えます。この唐突な苛烈さはおそらく、インド人脚本家にとっては当然のもので、しかしそこにはおそらく「インド以外じゃこうは行かないよな」という客観性が備わっています。だからこそ「オレら的にはガチの復讐つったら『こう』なんだけど、さすがにインド人以外はひいたっしょ」というような、グローバルに向けたローカルトークが成立しているわけです。
前述の通り、エンディングではキャストやスタッフが続々とレッドカーペットを歩いてきて挨拶をします。これでもかというほどの「これは映画ですよ」のメッセージですが、その裏に「オレたち陽気なインド映画っ子。だけど怒らせたら怖いかもよ!?」という郷土愛や反骨心を読み取ることができます。


■まとめ
今まででもっとも牽強付会な三題噺だった気がしなくもないですが、ローカルトーク三本でした。
ローカルを捨てて夢に邁進する戦闘狂のUVERさん。ローカルの夢がいちばん!そうじゃない夢……もあるかもしれないけど、本当の夢かどうかは分からないっしょ!?なラブライブ!。ローカル舐めんなよ!今オレらのこと迷信深そうって思っただろ?じゃあその通りにしてやるよ!なインド映画代表。ということで連想のまま書き連ねられたものではありますが、地方と中央、の相似で物事を考えるときのひとつの事例でした。