ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

マウンティング・キモ・オタクの系譜 東浩紀、宇野常寛、はるしにゃん、けっぽし ――あるいは何周目かのタイムマシン商法、越境貿易商

 今回「マウンティング・キモ・オタク」という名フレーズを閃いただけでもだいぶ豊富な運動量だと思うんですけれども、語のリズム感がサディスティック・ミカ・バンドというかマゾヒスティック・オノ・バンドというかアシエンダ・エル・シエロというかASIAN KUNG-FU GENERATIONというかパンツェッタ・ジローラモというか、とにかく口にしていて気持ち良い、声に出して読みたい日本語ですよね。外来語が混ざってますけど。
 何が言いたいかと申しますと今更にも程がありますが、世の中本当にタイムマシン商法だなと思うんですよね。タイムマシン商法というのは、かのソフトバンク孫正義の得意技で、米国で流行ったもの(ビジネスモデル含む)を日本に輸入して、時間差で儲けるというアレですが、これってなにも国境を跨がなくても行われているわけですよね。「ライトノベルに本格推理のエッセンスを投入した意欲作」とか「アニソンの文脈にロキノンを接続した問題作」みたいな話ですとか、あるいはオタク向け音楽は10年遅れている説など。00年代も半ばになってからランティスから乱発されていた小室サウンドもどき、が通用してしまう不思議。あるいは転職市場で言われる、100人に1人のスキルと100人に1人のスキルを併せ持てば1/10000のレア人材になれるとかいうアレも、図式は同じでしょうね。端的に所変わればということで、他分野、ときには隣接分野ですら、そこでは当然のものとされ使い古されているものが、一つ隣の芝生に越境してみた瞬間にものすごい赤方偏移が起こって真っ赤に見えるんですけど、ということはままあります。

 今回私は、そういう視差効果で目立ってきた人達の中に一本強引な補助線を引いてみて、2016年の前半にオタクシーンに自分が何を思っていたのかを記録しておきたくてこれを書きました。

 

 

東浩紀

 

 東浩紀という人は1971年生まれですけど、今回の文脈において「越境者第一世代」としてみたいと思います。東はそれまでのオタク界隈のアマチュア郷土史家みたいな擬似アカデミックの世界に、東大院卒で博士号持ちといういわば公的アカデミズムお墨付きの哲学者として乗り込んできて、しかもドラゴンボールだの鉄腕アトムだのではなく、よりにもよってエロゲーという「わかってる」ジャンルを「文学(的想像力)の最前線」として大真面目に、しかしネット的な「(笑)」も織り交ぜながら、デリダジジェクを援用して語り始めました。
 これに対して古参のキモオタの反感はすさまじくて、重箱の隅をつついて「◯◯を事実誤認しているから東は何も分かってない、死ね」「学者がオタクを食い物にしようとしてる、死ね」「お勉強ばかりしている東大にエンタメの何が分かる、死ね」みたいな批判が溢れかえってそれこそエヴァンゲリオンに突然出てくる実写の庵野殺すスレみたいな殺伐とした景色が広がりましたが、一方でオタク界隈の言説の貧しさ――監督の出自がどこのスタジオどうだスタッフの前作がデビュー作がどうだといった、ジャーナリズムの名を借りたゴシップに終始するアニメ系媒体の掘り下げの「ある種の浅さ」――に退屈していた層からは、東浩紀は「正統の現代思想文脈に接続された画期的なオタクコンテンツ批評理論」として喝采をもって迎えられました。今にして思えば、東浩紀を歓迎していたのは概ね、偏差値が高めで疑り深い鬱持ちの倫理的童貞エロゲーマーで、つまりは東浩紀の出来損ない達だったんですけれども。
 そんな感じでオタク界隈から歓迎されたりされなかったりした東浩紀、では出自のアカデミズム界隈からはどう見られていたのかというと、東浩紀も処女作を上梓した時はまだキモオタカミングアウト前だったので、浅田彰が「驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」とか言って物凄い勢いで持ち上げてたんですよね。というか、それでいくと浅田彰自身がアカデミズムに「リア充」を持ち込む、もしくはリア充の世界に怪しまれない程度にアカデミズムを持ち込むことで利ざやを稼ぐというタイムマシン業者だったので、自分のビジネスモデルがアップデートされた感覚があったんでしょう。
 とはいえ浅田彰のデビューから数年でニューアカとか言われてたタイムマシン商法もいい加減化けの皮が剥がれてきて「大学まで来て空論を捏ね回して思考実験とか言ってる哲学とか文学の人ってやっぱキモオタだったんじゃね?」という認識がリア充層からは自明のものとなっていたんですが、当の哲学畑や文学畑の人間たちはまさか自分たちがキモオタと同一視されているなどとは毫も知らず、いまだにデビュー時の浅田彰的ポジションにいると思い込んでいて、「エロゲーとかやってるキモオタってキモいよな」「エロゲーとか軽々しく口にして東浩紀マジ哲学業界の面汚しだわー」とか思っていたわけなんですよね。そんで岐路に立たされたのかなんなのかよくわからないけど、東浩紀はアカデミズムとオタクならどっちかというと天下取りやすそうなオタクのほうに進むかね、斎藤環という援軍もいるし、ということで学歴および整然と体系立った学術的知識によってオタク相手にマウントポジションを取りに行ったんですよね。これが第一のマウンティング・キモ・オタクである。
ってここまで書いて思ったんですけど、第0のマウンティング・キモ・オタクに宮台真司ってのが居たよな。


宇野常寛

 今回第二のマウンティング・キモ・オタクは宇野常寛。この人はマジでマウントを取りに行くのが芸風なので、もう、本当にこの言葉がぴったりだと思うんですよね。1978年生まれだからもうだいぶおじさんなのに、なんか若者代表みたいな感じで色んなとこに出てくるの、それってスゲェ面白ぇなって思って……。
 出自からして、東浩紀の批判者として噛み付いて食い下がって存在感を出してきた人なわけですよね。まず東浩紀が称揚するエロゲーはダメ、なぜなら「儚い少女を救うオレ」幻想は女性の人格を都合良く加工/仮構した、少女が素敵な被レイプ願望を備えているとする「レイプファンタジー」だから。そんな感じで、男オタクのマスターベーションの体位一つにすら文句を付ける王宮ババアメイド長ポジションで頭角を現しつつ、カバレッジの武器としては東浩紀をはじめとして当時のオタク層が苦手(……? 少なくとも得意では無かったはずです)「実写のドラマ」、具体的にはクドカン礼賛その他によって「私はテレビドラマ知ってますがお前らは知りません。ハイ論破」みたいなスタイルでマウンティングしてました。
 この「反・レイプファンタジー」と「テレビドラマ」は宇野常寛の中では通底していて、レイプファンタジー系作品に代表されるような二次元オタクコンテンツは基本的に決断、成熟、ラカン的に言えば去勢、から逃げ回っているのであり、「完璧になれないなら部屋から一歩も出ない」という引きこもりの発想であって、対して(一部の優秀な、という但し書きが付くにしても)テレビドラマや特撮には、生まれた時から平成不況で人生が戦いであることが所与のものとなった時代の新しい想像力こと「決断主義」が宿ってるから、拙速で巧遅をぶち殺しますという宣言。
 実際、キモオタ界から一歩外に出ればそれこそテレビドラマなんてマスプロダクツの権化なので、見てないほうがむしろ希少価値あるんじゃないかぐらいのものなのですが、南陽の土人にビー玉を売りつけるがごとくテレビドラマに「決断主義」の熨斗紙を付けてオタクタイムマシン業界で一大シェアを築いたのが宇野常寛さんでした。その後のご活躍は昨今のポスト舛添都知事選に関しての特番などでもご覧になれるらしいです。


■はるしにゃん

 いきなりメジャー度が下がりましたよね。誰それって。はるしにゃんはネット芸人であり、東浩紀の批評再生塾に出たり入ったり断られたり、要は東浩紀ワナビーの一人でした。言動が不安定なため、東浩紀から危険視され批評再生塾から距離を取った後なのか、あるいは元々なのか、彼はマウンティングのための武器として「メンヘラ」を用い始めました。彼の言う「メンヘラ」は俗語のメンヘラそのものでもあり、また厳密化するなら個人の心的現象を精神分析と薬理現象「のみ」に還元する概念だったと私は理解しています。KAI-YOUでウテナ論を連載したり(これは焦点がブレていて私には読むに耐えなかった)、躁鬱の躁の頂点では次々と事業構想をぶちあげ、鬱転して全てを投げ出し……を繰り返したのち、ドゥルーズのように飛び降りて命を失いました。
 晩年の彼の思想の中で私が最も強い印象を受けたのは

現代にあっては金がないから人から贈与してもらうことによってサヴァイヴしていこう、そのためにもある種ポピュリズム的な仕方で、悪く言えばネットアイドルになりながら贈与と返礼の回路でなんとか生きていくことが推奨される。
(中略)
私たちはまだしばらくデフレカルチャーとゆるやかな空虚とともに生きねばならないだろう。

のフレーズです。結局は東浩紀の『ギートステイト』の影響下にあることは感じさせつつも。

彼は、象徴交換の儀式の中で、マウンティングのための「メンヘラ」概念と、それを構成する薬物と精神分析を我流でアビューズした結果、まさに自分の分析通りのネットアイドルとして、偶像として、この世を発たなければならなくなりました。彼の提言を真に受けるなら、デフレの作法とは零落した70年代カリフォルニアンイデオロギーであって、電子と薬理のテクノロジーによって精神現象と生理現象をコントロールし、禅をエミュレートした安寧を得ることが正しいのであって、「メンヘラ」はその過渡期的状態として現象するに過ぎないものとなっていく筈だったのではないでしょうか。
「贈与と返礼の回路でなんとか生きていくこと」を提唱、とまではいかずとも現状分析の一つの途中解として提示しながら、「なんとか生きていくこと」にはならずに死んでしまったことは、皮肉とも自家中毒とも言えず、しかし持論の否定というわけでもない価値観の宙吊りとして、私達の眼前に今しばらくは残っていそうな気がします。


■けっぽし

 そして最後はけっぽし。誰。かのkeyブランドを擁するエロゲー会社・ビジュアルアーツが久々に雇い入れた新規小作農ブランド「WhitePowder」の代表です。
 巻末読書ガイド風に言うと「瑞々しい感性」で綴られる、数々の極端な多動児的言動は大人になれない人間の多いエロゲー業界内にあってすら異彩を放っており、2chに単独でスレッドが立つほど、実は一部で話題の人物です。けっぽしのマウンティング固有結界は「リア充」もしくは「チャラさ」。それこそ東浩紀的動物倫理、あるいは宇野常寛的レイプファンタジーの裏返しによって、オタク男性の異性への接触というものは常に抑圧されたものになっているのが実情ですが、けっぽしはそれを逆手にとり、ひたすら「女に堂々と声を掛ける事ができる俺」を使って差別化を図ってきました。その裏付けとなっているのは、音楽シーンに於いて2016年現在、キャズムを越えつつも未だに先端を担っているEDMへの造詣と、アメドラもしくはアメドラを経由して触れる現代アメリカンカルチャー。とうとうアメリカからアメリカ文化そのものが、タイムマシンそのものの輸入が始まったとも言えます。
 EDMに代表されるクラブカルチャーが、若者文化ヒエラルキーの中で圧倒的なヘゲモニーを確立しているのは、誰がなんと言おうと一部のクラブで蔓延しているであろう脱法ドラッグアンダーグラウンド性によるものでしょう。ドレスコード、クラブマナー、ボディチェック、セキュリティ。音楽箱? ナンパ箱? なにそれ。一見さんお断りの参入障壁の中でも、最上級を占めるのは間違いなくドラッグです。いみじくも昨日6/23は風営法の改定日でしたが、クラブを警察から守る云々と言っている人たちが主張するように、実際にクラブで違法な薬物が提供されているわけではなかったとしても、薬物の乱用やVIPラウンジでのキメセクパーティーが「あるかもしれない」という不確定な可能性と期待値「のみ」でも「クラブ」は若者文化シーンにおいて本来のポテンシャル以上の地位を占め、畏敬の眼差しを集めていることに変わりはありません。かつて大抵のギターロックバンドが、実際には単なる落ちこぼれや気弱なワナビー、レコード集めが趣味の根暗の青年に支持されていたにもかかわらず「セックス・ドラッグ・ロックンロール」と称されたようなものです。
 彼のブランド名「WhitePowder」=「白い粉」は言うまでもなく(但しこのネーミングにはもう一つの意味が含まれているのですが、それをここに書き記すのは悪趣味なため割愛します。興味のある人は2chへ)、EDM≒クラブ≒ドラッグカルチャー、という演繹マウンティングの一環であり、またそもそもEDMという音楽ジャンル/音楽性はその成り立ち自体、文脈優位のDJカルチャーに「歴オタはダサい、“今”アガれ」という切断をもたらすために登場したものです。古い言葉で言えば「意味ではなく強度」、ドゥルーズ風に言うなら「器官なき身体」(を得る?)の為の音楽と言えるでしょう(しかしながら、即物的に熱狂するためだけの音楽さえも、ひとたびシーンが形成されれば特定のアンセムとそこへ至るフローの固定化が起き、新たな文脈、新しい封建的秩序が生まれます。既にEDMというジャンル自体にも無数の「定番」が定まり始めています。かつて、容易に踊れることを目的として同じような曲が量産されたユーロビートが、次第に個別の振りをどれだけ覚えられるかというパラパラのストックになっていったように)。
 そんなけっぽしの商業作品第一弾『ラムネーション』が、明朝から発売されるということを知って、ふと思い立った小論でした。『ラムネーション』自体、巨大企業が南陽タックスヘイブンにこしらえたリゾート地を舞台にした、ある種のアナルコ・キャピタリズム的世界観に貫通されていて、東浩紀動物化を経てエコノミックな決断主義に目覚めたオタクがその先にクラブカルチャー(運が良ければドラッグもあるかも!?)を見つけた、というような一本の補助線に乗せることが可能だったりします。
 これでアフィリエイトの一つでもあれば小銭が稼げて、はるしにゃんの言うようなデフレな生き方の足しにもなったのでしょうが、生憎その気力すらも湧かない私は、マウンティング男子たちのマウントぢからを少しでも分けてもらいたくて、この投稿を何度か読み返すでしょう。