ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

川原礫における食品表現と、あとイジメ

 『アクセルワールド』と『ソードアートオンライン』は、どちらも同じ作者によるオンラインゲーム小説という共通項がありながら、というか、あるがゆえに、多くの箇所ではっきりとした対照性を持っているように思います。その1つとして、今日は食品に関する表現をあげつらってみようかと思います。
 『アクセルワールド』では、食品への描写がかなり執拗になされます。それもそのはずで、まあ『SAO』の食事はゲーム内、『アクセルワールド』の食事はゲーム外という明確すぎる違いがあり、さらにはハルユキの設定は『アクセルワールド』1巻の時点で「非常に燃費が悪く、1食でも抜けば眩暈がする」と述べられています。そもそもハルユキのデブで汗っかきでチビという属性自体が、ブレインバーストプログラムをしてシルバークロウという加速世界唯一(5巻時点)の飛行アバターを生成せしめるに至るほどの<劣等感>として、プロット上の要請として付加されたことは疑いのないことなのですが(そしてその為にラノベにおける定石――なんだかんだ言っても主人公はヒロイン視点では中の上くらいのビジュアル――をあえて踏みにじった川原礫の判断は相当にチャレンジングなのですが)、その構造自体が『SAO』の「現実世界の外見がそのまま使用される」という設定と対比構造を描いていて、大変面白いところであります。つまりこうですね。

AW [ 現実 ⇔ アバター

    ↑↓(対照的)

SAO[ 現実 = アバター

 これを念頭に置くと、ブレインバーストに対戦ゲームやライフハック以上に実存的意義を見出している黒雪姫様のレギオン名「ネガ・ネビュラス(暗黒星雲)」には、黒=カコイイという姫様の邪気眼センスのほかに「(現実の)ネガ(反転図)」の含意もあるのではないか、とか思い始めて面白いのですが、まだ読んでない先の巻でそんな話になったりはしないのでしょうか。まだ5巻までしか読んでないんですが、してたらしてたで、しなかったらしなかったでどっちにせよ恥ずかしいですが。

 若干話が逸れましたけれども、1巻でチユリが持ってきてくれたサンドイッチを粉砕するシーンは、読者に対してハルユキ・チユリ(・タクム)の、仲良しだった過去と、中学に上がりもはや取り返しの付かなくなった関係性の経時的変化を決定的に印象付け、ハルのブレインバーストへの強い希求と、自分と真逆の存在である黒雪姫への憧憬と、1巻後半でのタクムとの対立と、その試合の勝ち筋、さらには続刊でのライムベルの必殺技登場までの弁証法的展開全てを胚胎してまして、「食事はセックスと機能的等価」もしくは「セックスの隠喩」的な映画論的解釈に依らずとも、いかに『AW』において食事が重要な意味を持つかは首肯いただけるところかと存じます。であるならばクロムディザスター戦以降にハルユキの中に時折顔を出す邪悪な何かが囁く言葉がひたすら「喰イタイ」「喰ラウ」連呼なのも必然というものです。

 自宅で1人で食べる冷凍食品は、そのまんまハルユキの孤独で平坦な日常であり、対してチユリが持参する、チユリ母謹製の食品には、なんとかソースのなんたらドリアとか、なんかそんな感じの凝った設定がされており(例えば5巻197P)、ハルユキに対して関心をかけてくれるチユリの存在と、そのチユリを通して何らかの「手間」を提供してくれるチユリ母という、ハルユキにとっていわば最後の社会的実存基盤であり、同様にイジメっ子から下される「今日のコマンド」であるところの「焼きそばパン二個」に始まる既製品の羅列は、「いかに時代が進もうと絶滅しないゴキブリ級のバカ」と「そいつにイジメられるままになっている」「輪を掛けた愚か者」である自分の、凡俗きわまりない関係性(=大量生産品)という印象を与えてきます。ハルの外見が豚に類似し、アバターにも豚の使用を強要され、「遅刻したら肉まんの刑! チクったらチャーシューの刑だかんな!」というイジメっ子からの「制裁」までもが食品めいているのは、作品を通して「食べること」「食べられること」の社会的強弱関係と、その関係の明白な攪乱、無化、止揚を目論んでいるであろう黒雪姫の相剋が激化してゆく本作のスタート地点に、これ以上ない透徹した方向性を打ち立てることに成功していると思います。すばらしい。

 対して『SAO』では、ファンタジー風のMMORPGの中で、「牛型モンスターの肉」を使った食事という、「我々の味覚」でのファンタジー、安易なファンタジーが演じられていることがいささか気になります。無論、『SAO』は「ゲームをやっている人達」を描写した小説なのであり、であるならば「ゲームをやっている人達」の要求(したであろう)内容として、その「安易さ」はむしろ統計的に正しいところではあるのですが、しかしこの小説の受容され方として、


SAOキャラクター(小説内のゲーム) < SAOプレイヤー(小説内のキャラクター) < 読者(現実)


という、設定上は厳然と存在するはずの2重の疎隔が、実際には読者が「SAOキャラクター(小説内のゲーム)≒SAOプレイヤー(小説内のキャラクター) 」の双方に対してそれぞれ直接的に同化するような処理によって無効化されております。これは前述のアバター構造にも関連することだと思いますが、つまりこういうことですね。

 

設定:   SAO内キャラクター < SAO外プレイヤー < 物語外読者

 

実際:

          [ 物語外読者 ]    <アスナたんブヒィィィ
           ↓     ↓
     SAO内キャラクター < SAO外プレイヤー

 

 大方のゲーム的、アニメ的、ラノベ的ファンタジーにおいては、外見上は中世欧州のそれに似た服装文化や建築様式、技術水準が描かれていながら、しかし人々は汗や垢を毎日洗い落とし、整った上下水道によって糞尿は適切に処理され、子供達は「半分の労働力」ではなく未来の宝として尊重され、迷信や蛮習は一部地域や集団にこそあれ時代の趨勢としては既に理性によって駆逐されつつあり、人々は現代の先進国の平均的な倫理・道徳的観念を持ち合わせている、あきらかに「中世」ではない世界が現出しております。それはどうかなぁって思うんですよ。
 僕は何も、『ベルセルク』のように残忍極まりない流血「ファンタジー」を描くべきだ、と主張したいのではないのですよ。ファンタジーですから。幻想ですから。だからそういうイージーなのがあってもよいとは思います。『灼眼のシャナ』みたいに「風呂に入らずともコキュートスが清めてくれる」とか、「え? もっかい言って?」って言いたくなるような、「お前それサバンナでも同じ事言えんの?」って言いたくなるような、わけのわからんことを書いたっていいと思います。というか、いいとか悪いじゃなく現状そういうのがいっぱいあるんだからしょうがないと思いますけれども、やっぱりそれは「中世」や「ファンタジー」の本来持っている意味とは違いますし(まあシャナは現代劇ベースですが)、でもそのことを知るべきだとも思いません。思いませんが、ただ、こういう安易なものを安易と思わずに受容/需要する態度というのは、往々にして現実の生活にもだらしなく顔を出しますし、そういう時に、こういったタイプの人というのは、他人に対して恐るべき暴力的要望をするものなんですよね……。

 イジメ話ついでに、今滋賀で流行ってるらしい壮絶なイジメについて考えたことを記録しておきたいのですが、身体を拘束して殴る蹴るの暴行を加え、口腔内に動物の死骸や糞便を詰め、最終的に自殺を迫るというような、園子温監督でも考えないようなものをイジメと呼ぶのが言語表現的に適切なのか、その時点で、こうやって公的機関が「イジメ」なんて流行語を安易に使うと話がこじれるぞといういい例なのですが、仮にそこまでを「イジメ」と称することが社会通念上認められるとしても、加害者側の家族・親族が土地の「有力者」であり、警察権力を抱き込んで事態に隠蔽を図ったとする説が本当であるならば、それはさすがに「イジメ」とは言わないのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。
 百歩譲ってそれが「広義のイジメ」であるにせよ、その「イジメ」の中に「行政警察活動の私有化」が含まれているのであれば、それは「イジメ」と「行政警察活動の私有化」それぞれが、それぞれに判断あるいは批判されるべきではないのかと思いますが、そう思っているのは僕だけなのでしょうか。
 もしそうではないとすると、「イジメの一環」として行えばどんな違法行為も「イジメ」以上の追及はなされないということになり、僕も「イジメと称する事実上の○○」という形で、あらゆる犯罪行動を思考し志向し試行し嗜好し、サド公爵のように新しい倫理を追究する思弁を巡らせてみたい所ではあるのですが、しかし今回の犯罪性分岐ポイントはあくまでその地域における土着権力を掌握しているか否か、という点でありますから、僕は■くん、くん、くんのような圧倒的権力とは無縁の、小プロレタリアートでありますし、結局のところ今回のお話もライブドア事件オリンパス事件の関係同様、ただひたすら「既成権力の有無」に関わるお話であったと、こういうわけであります。
 ですから、フジテレビが報道でフライング的に名前を公表したり、それを元にネット上で加害者の個人情報を拡散し、晒し上げることを「結局加害者と同じことをしている!」と憤っていらっしゃる良識的な方々というのもいるのですが、しかし「晒し上げ」を行っている人達は、なにもイジメそれ自体に憤っているわけではなく(イジメ自体に憤っている人も当然いるでしょうけど)、行政が特定個人に対してのみ「配慮」をしたという現実、つまり言ってしまえば「(準)公務員特権」に対して怒り狂っているのであります。「イジメた側をイジメ」たりしているなどという意図や目的はなく、それらはある種の「デモ」あるいは「抗議活動」であり、中央政府の方針に従わない「生意気な」土着権力や地域警察を、たとえば文身をした大阪市職員を叩くのと同じように叩いているのであります。それはそれでどうなんだ、という、橋本支持者に見られる悲しみがここにも、というだけなのですが、まあそれは現状致し方のないところであります。止まらない景気後退の中、「特権」と嗅ぎつけばどこからともなく叩きが涌いてくる。そういうものです。

 翻って昨今のソーシャルゲームの興隆の一部は、自己効力感の不全に苛まれる人口がいかに多いか、ということのいい見本であり、ソーシャルゲームによってすら自己効力感を満たすことは難しいタイプの人は、ソーシャルゲームを批判することで社会正義サイドに属している感および自己効力感を満たすという大乱交!! 同じ穴のムジナ!(gloops的表現)な様相を呈しておりますが、木村束麿呂くん、山田晃也くん、小網武里くんという新しいマトを発見して狂喜しているネットユーザーの中には、学校帰りのくん、■くん、くんに石を投げる、熱湯をかける等々の暴行を加え、それをネットで中継するなどして「英雄」になろうとする人もおそらくは出てくるかと思いますが、そんなことはべつに珍しくもなんともなく、豊田商事事件の頃からございますし、当時は本当に殺したりしていましたから、なにも昨日今日の話ではありません。
 ただ、早くも「担任は朝鮮人」とかいう噂が発生し、果てはくん、くん、くんとその一家朝鮮人であるとか、そういう話が出てもうすでに話がごちゃごちゃになっていますが、差別のメッカ関西で朝鮮人が警察や学校の要職に就けるわけないことぐらい少し考えれば分かろうというものです。今回の件も少なくともある時点までは権力者・特権叩きとして民衆の矛先を寄せ集めていましたが、事態が後半に差し掛かり祭りの熱気にあてられた無関係な人とかもすで集まってきているので、ちょっともう現在の祭りの成分構成は分からないのですが、少なくとも初動時点では、これはあきらかに行政府に対する不満の表出であったように思います。

 ここで『AW』の話に戻りますと、実際には現実社会における「イジメ」と称するもののほうが数百倍苛烈であるにも関わらず、せいぜいが昼食の使いっ走り程度のイジメ描写しか用いないながら、読者に対して圧倒的な敗北感、屈辱感、剥奪感を植え付け、加速世界へ誘引する川原先生の筆力と構成力はそれこそ筆舌に尽くしがたく、その筆力を使って『SAO』のほうでももう少しヒネリを見せていただきたいと思う今日このごろですが、なんせ『SAO』のほうは1巻パラ読みしただけなので本当はもっとすごいことになっているのかもしれません。アニメ始まったし追っかけてみるか!

 

 

2012/7/16 こちらに補論を書きました。

2017/6/05 一部プライバシーに配慮して伏字を行いました。