ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

生存報告と人生の伏線回収

Twitterのほうは細々と週に1ツイートくらい行っております。

「いつもの読みづらい長文も書け」というお話も時々いただいてて嬉しいようなめんどくせーようななんとも言えない感じです。

 

遡ってみると最後の記事がちょうど昨年の6月24日公開なので、それまでに何か一本書くことができないと1年あいだを開けてしまったことになり、それはどうなんだ。という感じなのでどうにか月内に頑張りたいところではあるのですが。

書かなくなった(書けなくなった?)理由はいくつかあって、まずこのブログは「左翼的観点からオタクコンテンツを採点する」というコンセプトで僕とhkmaroさんの2人でやっている批評同人サークル「中島総研」の刊行物のための原稿ストックを作っていくという目的のために書いていたのですが、中島総研主席のhkmaroさんが仕事の都合で住居を南の最果てに移してしまい、サークルとしての活動がだいぶ困難というか億劫になってしまったこと(現代における億劫は困難よりも遥かに強い)がひとつです。

それから第二には、僕個人がほとんど歴史の悪戯のような形で様々なオタクコンテンツに提供サイドで触れることになってしまい、しかもその過程で提示された参考資料としてあろうことか僕のブログ記事が引用されていたりしたことです。いわゆる「自分の影響力考えろ」的なアレですが、これはかつてとは意味が違い、もはや無名人だろうが捨て垢だろうが、何らかの固有名詞に触れた時点でこの世の誰かしらが検知しタップ一回でその人のSNSアカウントのフォロワーに周知しうるという潜勢力の構造を意識せよ、ということであって、「いや私なんて無名ですから」という卑下がもはや何の免罪符にもなり得ないということに過ぎないわけですね。

そして、提供サイドで触れるいくつかの話には、自分の思想信条としては到底受け入れがたいオファーもあり、そういったものはヒアリングの過程で丁重にお断りしつつも、そういった動きに(僕の辞退とは関わりなく/結果的に流産することもままあるが)触れてしまった後で、そのことについてまさかここに書くをわけにもいかず(書けば書けないことはないが、基本的に暴露話というか、「職務やプライベートの親交を通じて得た、一部しか知り得ない情報」を自身のコンテンツとして開陳することは僕にとって美学的に好ましくないことである)しかしそのことの存在を知らないフリをして隣接分野の話を書くこともまた欺瞞的だと感じて、なかなか筆が進まないというのがあります。

そして第三に、これが最も直接的なのですが、僕も一定の年齢になり、後で振り返れば児戯に等しいのかもしれないけれど、少なくとも自己認識としてはそれなりの「仕事」を得て任され任せるようなポジションになってしまい、単純に忙殺されていること、またその合間を縫って書くには、左翼的言説全般の価値があまりに零落しすぎてしまっていることが挙げられます。かつて僕は超純粋左翼として、進歩史観としての広義のカリフォルニアンイデオロギーを信奉していたし、その派生系としてのコピーレフトサイファーパンクやシェアリングエコノミーを素朴に肯定していました。しかしてその実態はそういった一見「進歩的」で、かつテックドリヴンであることを以て「現実的」でもある、という形をもってヤッピー的リベラルの後ろめたさに寄り添うだけの、バカ高いフェアトレードコーヒーみたいなもんでしかなく、それらの事業的当事者はもっぱらそのイメージでラッピングした「ブラック企業」に優秀な若者を集めて酷使し、会社ごと市場で売り抜けることしか考えていないことが殆どである、というのを間近で見続けてしまいました(しかも僕自身は「君は”こちら側”だよ」という甘い言葉を囁かれながら)。そしてそれらのミドル~マクロ的な左翼的展望を肯定的に語ることがもはやできなくなり、代わりに現実の自分が手にしたわずかの裁量で、手の届く範囲のいくらかの人間に職を斡旋したり異性をあてがったりというような、昔のババアのような活動をその代償行為として行うようになっていました。

 

そんなありふれた老化を重ね、幽遊白書の仙水みたいに「ここに人間はいなかった、一人もな」とか言って歩く無力な日々が続く中、「こんなことなら学生起業でもしておくんだった」とか「高学歴を活かしてエスタブリッシュな大企業に入ってゆとりの代表みたいな振る舞いを見せつけるほうがよかった」とか色々思っていて、自然とTwitterにもログインしなくなり……という感じだったのですが、偶然に下記に自分の記事が取り上げてもらっていたのを発見しまして

 

ecrito.fever.jp

 

これ自体、言っちゃ失礼だけどべつに大きなメディアではきっとなく、いわゆる「駄サイクル」の一つなのかもしれないけど、見てきたところそれなりに継続的に活動しているらしく、継続というやつが最も苦手な僕にとってはそういった自分と真逆の性質をもった人々の元に自分の書いたものがおそらくはそれなりのプレゼンスをもって受け入れられていたことというのが存外嬉しく、何か不思議な刺激になったりしたわけです。

そして丁度その前後から、自分がまだ学生だった頃にいち読者として触れてきた人々に、対等の立場かあろうことか僕が教えを請われる側として引き合わされる機会が出始め、なにやら人生に張り巡らされた伏線が一つ一つ回収段階に入っているのかと錯覚することもしばしばあり、ブザマなステップを醒めたフリで踏み続けるという二重にカッコ悪い振る舞いだったけれども、投げ出しさえしなければそれはわらしべ長者のようにジワジワと効いてくるのかもしれないなと思い始めた昨今です。

これはもちろん自分の年齢だとか年齢と相関した社会的ポジションだとかに左右されている部分も多分にあるとは思うけれども、そこにおいて自分の切り出せるカードは明らかに10年以上前から自分がムカついたり分からなかったり悲しかったりしたことを恐れずに(いや、恐れつつだな)言語化してきたものの蓄積であって、今こうして書いている自省録だってたぶん数日もすれば赤面せずには読めないものになるのだろうけど、自分にとって許せないものの一つに「本当はあの時自分は●●だと思ったのに」というような形で自分の記憶を欺くというものがあって、何らか形に残さなければきっと僕は「続けていればまだどうにかなると信じていた」とか、遡って「西海岸ベンチャーの胡散臭さには大学生の頃から勘付いていた」とか言い出しそうなので、その時には必然的にもう自分で自分を欺いている感覚すら無くなっているのだろうけど、自分がそうなる「可能性」を予見してしまった今の自分は確かに存在しているので、やはりそれを書き記さねばならならないのです。

というわけで、朝から何の推敲もせずにここまでで既に3000字ばかり書き散らしてしまっていますが、細々でももう少しこのブログは続けていかねばと思っていたりする次第で、具体的にはさすがに一年の間をあけるのはまずかろうということで、6/24(奇しくも『イリヤの空、UFOの夏』を思い出す「UFOの日」じゃないか)までには何か一本、実生活の自分の立ち位置を利用して手に入れた情報を含めることなく、かつそれを知らないようなフリをして書くこともなく、何らかを形にしたいと思っております。

 

 

今後、書いていきたいものリスト

■書評『コミュニティ・オブ・プラクティス―ナレッジ社会の新たな知識形態の実践』

恐らく人生で初めて読む「ビジネス書」。一定以上の知性と慎みのある人たちの間であれば、「ビジネス書」といえば世俗的で現世利益的で反-アカデミックな物だと考えられているし、実際に僕もそのように思って蛇蝎のごとく嫌っていました。ビジネス書も嫌いだし、ビジネス書を書く人間も作る人間も読む人間も大嫌いです。大学の後輩がビジネス書の専門出版社に入ったときは「俗世間に飲まれたか」としきりに馬鹿にしたものでした。

しかしこの本に書かれているのは、いわゆる行動学を応用した人心掌握のテクニックだのモチベーションコントロールだの最速Excel術だのといった口にするだけで赤面するような小手先のナンパ術もどきではなく、体系化されたマニュアルの存在しない職能や暗黙知の継承を言語化する格闘であり、実在する(した)集団を事例として抽象化・理論化を試みる社会学的営為です。書店のサブジャンルでは「経営学」の棚に分類されているが、これを無理やり経営学と言い張るのであればもはや「経営思想」か「経営イデオロギー」であり、しかもその実態はほとんど反-経営であり、集団の自律マネジメント構造であり、「経営」の終焉です。僕がこれを社会学と呼んだのは、社会学がそもそも人間社会における特定の現象や行動様式を「説明する」為の学問であり、その現象や行動が一定の解決すべき問題性を孕んでいるからこそ要請された知の形態であって、つまり社会学自体がある種の実効性、実益性と不可分であり、その点で純粋学問とは明らかに一線を画すからです。ゆえにかつての宮台真司はたとえば援助交際という具体的な「問題」に立脚して論理を展開し「処方箋」とやらを提示することで論壇において覇権を確立しましたが、本来的には学問は分析することが仕事であって解決を図ることはその応用にすぎない。少し話が逸れましたが、しかしてこの本はその「応用」こそが求められるビジネス書の領域にあって、企業マネジメントを標榜しながらほとんどその応用のための筋道を示さず、それでいてあくまで個別の事例からの抽象化を志向し続けるという極めて歪な構造を持っていて大変興味深いのです。なかなか厚さがあってまだ読み終わるまでじ時間がかかりそうなのだが読み終え次第所感をまとめようと思います。

 

■現代の魔術試論 論理性と数秘術

東浩紀の新著『ゲンロン0』はとても面白かった。本編が面白いのはもちろんのこと、それに付随して行われた連続インタビューも非常に読み応えがありました。その中で、恐らく僕以外にとってはどうでも良い情報なのだけど、僕にとっては非常に気になった一節があります。それは、文章のボリュームに比して意外なほど読み下しが容易であることについて質問を投げかけられた東が「自分はこれまでの執筆経験において、人間が視覚情報として視認しやすい文字数や段落の区切りを感得しており、それに基づいて書いているから読みやすくて当然なのだ」といった趣旨の発言をするくだりです。これは一見合理的な説明ですが、そこに潜むのは特定の感覚刺激によって人間に一定の二次的な反応を呼び起こすことができるという発想です。そしてこれは文明社会の視点からみた呪術の効用においてしばしば行われる「合理的」な説明と相似形です。たとえば密教においては、多くは真言マントラ)の詠唱が持つ特定の周波数や和音に照明の光量や香の匂いが合わさりトランス状態を引き起こすとされます。光刺激や香に含まれる成分が幻覚その他の譫妄状態を引き起こす可能性は神経学的あるいは生物学的に十分説明可能ではありますが、そのこと自体と、感覚器官からの一次的刺激の構成によって二次的な意識変性を起こしうる(それも、その変性の程度からすれば相当な容易さで)とする立場の間には、けっこうな懸隔があります。しかしながらこうした京極夏彦的な「心理的トリック」を駆使できると称するものは、フィクション・ノンフィクションを問わず存外多い。東浩紀の上記ブロック文体論以外でいえばこんな感じです。宮台真司が一時期、電子掲示板の自作自演で世論を誘導する実験を行い成功を収めたと自称していること。一定の商業的範囲を超えて陰謀論の域にまで達しているステルスマーケティング理論。主として性的なコンテンツにおける「バイノーラル催眠音声」の類。『イリヤの空、UFOの夏』のおいて水前寺が開陳する、「オカルト的事象の再現性に時間的・空間的座標が作用しないと誰が言えるのか」という論駁、同様に白石晃士映画における、やはり特定の時、特定の場所をキーとする怪現象の再現性、これらの元となっている、怪談における時間と空間の固有性。VR技術の隆盛によって再び活発化した、「視覚ドラッグ」の実在性。その旧来版として漫画『スプリガン』における、暴走したコンピュータがスクリーンセーバーのパターンによって人間を昏睡状態に陥れるシークエンス。光刺激による直接的反応を超えて神話的に受容された、TV版ポケットモンスターにおける「ポリゴンショック」。そしてそれら全てのイメージソースとなった、オウム真理教のイニシエーション。

 

■スタイリッシュの再帰性――乙女ゲートレンドの変遷とあとオタサーの姫

フィクションにおける男性キャラクターの服装の「ダサ」さと、そこに対する自己言及言説の変遷。その鏡像としての「オタサーの姫」もしくは「童貞を殺す服」のデザイン的考察。

 

■乙女ゲーにおける男の「内面」

SNSにおける内面の開陳の一般的キモさと、一方でフィクションにおける何らかの「内面の開示」への受容と、その形態。それらは必ずしもキャラクター本人による語りを経由せず、客観的事実の積み重ねや第三者からの証言に委ねられる。一方でキャラクターソングの歌詞においてはその内実が赤裸々に語られることが多く、そこにある「ただしイケメンに限る」以上の精密な哲学的考察。

 

 

こんな感じですかね。まだあといくつかあった気がするんですけど。

元々専門にしてきた乙女ゲー界隈は『あんスタ』が出てきて男性キャラクターが擬似恋愛の対象から恐らく「愛でる」存在へ軸足が移ってきたとことと、若手声優の容貌とコミュニケーション能力が軒並み上昇して旧来的な意味での芸能人化が起き、それによって「身近な芸能人」だった歌い手や生主の地位が軒並み低下、その両方を架橋する2.5次元舞台の隆盛、舞台俳優を再帰的に二次元化した『A3!』のヒット……と、単純なバイタイトルでの隆盛が同時に上部構造の変化と平行して起こっていって、自分のカバー範囲ではなかなか追いきれない領域に突入しつつあるというのが正直なところですが、もう少し頑張ってみようかと思う今日このごろです。

ではまた。