ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

生存報告と人生の伏線回収

Twitterのほうは細々と週に1ツイートくらい行っております。

「いつもの読みづらい長文も書け」というお話も時々いただいてて嬉しいようなめんどくせーようななんとも言えない感じです。

 

遡ってみると最後の記事がちょうど昨年の6月24日公開なので、それまでに何か一本書くことができないと1年あいだを開けてしまったことになり、それはどうなんだ。という感じなのでどうにか月内に頑張りたいところではあるのですが。

書かなくなった(書けなくなった?)理由はいくつかあって、まずこのブログは「左翼的観点からオタクコンテンツを採点する」というコンセプトで僕とhkmaroさんの2人でやっている批評同人サークル「中島総研」の刊行物のための原稿ストックを作っていくという目的のために書いていたのですが、中島総研主席のhkmaroさんが仕事の都合で住居を南の最果てに移してしまい、サークルとしての活動がだいぶ困難というか億劫になってしまったこと(現代における億劫は困難よりも遥かに強い)がひとつです。

それから第二には、僕個人がほとんど歴史の悪戯のような形で様々なオタクコンテンツに提供サイドで触れることになってしまい、しかもその過程で提示された参考資料としてあろうことか僕のブログ記事が引用されていたりしたことです。いわゆる「自分の影響力考えろ」的なアレですが、これはかつてとは意味が違い、もはや無名人だろうが捨て垢だろうが、何らかの固有名詞に触れた時点でこの世の誰かしらが検知しタップ一回でその人のSNSアカウントのフォロワーに周知しうるという潜勢力の構造を意識せよ、ということであって、「いや私なんて無名ですから」という卑下がもはや何の免罪符にもなり得ないということに過ぎないわけですね。

そして、提供サイドで触れるいくつかの話には、自分の思想信条としては到底受け入れがたいオファーもあり、そういったものはヒアリングの過程で丁重にお断りしつつも、そういった動きに(僕の辞退とは関わりなく/結果的に流産することもままあるが)触れてしまった後で、そのことについてまさかここに書くをわけにもいかず(書けば書けないことはないが、基本的に暴露話というか、「職務やプライベートの親交を通じて得た、一部しか知り得ない情報」を自身のコンテンツとして開陳することは僕にとって美学的に好ましくないことである)しかしそのことの存在を知らないフリをして隣接分野の話を書くこともまた欺瞞的だと感じて、なかなか筆が進まないというのがあります。

そして第三に、これが最も直接的なのですが、僕も一定の年齢になり、後で振り返れば児戯に等しいのかもしれないけれど、少なくとも自己認識としてはそれなりの「仕事」を得て任され任せるようなポジションになってしまい、単純に忙殺されていること、またその合間を縫って書くには、左翼的言説全般の価値があまりに零落しすぎてしまっていることが挙げられます。かつて僕は超純粋左翼として、進歩史観としての広義のカリフォルニアンイデオロギーを信奉していたし、その派生系としてのコピーレフトサイファーパンクやシェアリングエコノミーを素朴に肯定していました。しかしてその実態はそういった一見「進歩的」で、かつテックドリヴンであることを以て「現実的」でもある、という形をもってヤッピー的リベラルの後ろめたさに寄り添うだけの、バカ高いフェアトレードコーヒーみたいなもんでしかなく、それらの事業的当事者はもっぱらそのイメージでラッピングした「ブラック企業」に優秀な若者を集めて酷使し、会社ごと市場で売り抜けることしか考えていないことが殆どである、というのを間近で見続けてしまいました(しかも僕自身は「君は”こちら側”だよ」という甘い言葉を囁かれながら)。そしてそれらのミドル~マクロ的な左翼的展望を肯定的に語ることがもはやできなくなり、代わりに現実の自分が手にしたわずかの裁量で、手の届く範囲のいくらかの人間に職を斡旋したり異性をあてがったりというような、昔のババアのような活動をその代償行為として行うようになっていました。

 

そんなありふれた老化を重ね、幽遊白書の仙水みたいに「ここに人間はいなかった、一人もな」とか言って歩く無力な日々が続く中、「こんなことなら学生起業でもしておくんだった」とか「高学歴を活かしてエスタブリッシュな大企業に入ってゆとりの代表みたいな振る舞いを見せつけるほうがよかった」とか色々思っていて、自然とTwitterにもログインしなくなり……という感じだったのですが、偶然に下記に自分の記事が取り上げてもらっていたのを発見しまして

 

ecrito.fever.jp

 

これ自体、言っちゃ失礼だけどべつに大きなメディアではきっとなく、いわゆる「駄サイクル」の一つなのかもしれないけど、見てきたところそれなりに継続的に活動しているらしく、継続というやつが最も苦手な僕にとってはそういった自分と真逆の性質をもった人々の元に自分の書いたものがおそらくはそれなりのプレゼンスをもって受け入れられていたことというのが存外嬉しく、何か不思議な刺激になったりしたわけです。

そして丁度その前後から、自分がまだ学生だった頃にいち読者として触れてきた人々に、対等の立場かあろうことか僕が教えを請われる側として引き合わされる機会が出始め、なにやら人生に張り巡らされた伏線が一つ一つ回収段階に入っているのかと錯覚することもしばしばあり、ブザマなステップを醒めたフリで踏み続けるという二重にカッコ悪い振る舞いだったけれども、投げ出しさえしなければそれはわらしべ長者のようにジワジワと効いてくるのかもしれないなと思い始めた昨今です。

これはもちろん自分の年齢だとか年齢と相関した社会的ポジションだとかに左右されている部分も多分にあるとは思うけれども、そこにおいて自分の切り出せるカードは明らかに10年以上前から自分がムカついたり分からなかったり悲しかったりしたことを恐れずに(いや、恐れつつだな)言語化してきたものの蓄積であって、今こうして書いている自省録だってたぶん数日もすれば赤面せずには読めないものになるのだろうけど、自分にとって許せないものの一つに「本当はあの時自分は●●だと思ったのに」というような形で自分の記憶を欺くというものがあって、何らか形に残さなければきっと僕は「続けていればまだどうにかなると信じていた」とか、遡って「西海岸ベンチャーの胡散臭さには大学生の頃から勘付いていた」とか言い出しそうなので、その時には必然的にもう自分で自分を欺いている感覚すら無くなっているのだろうけど、自分がそうなる「可能性」を予見してしまった今の自分は確かに存在しているので、やはりそれを書き記さねばならならないのです。

というわけで、朝から何の推敲もせずにここまでで既に3000字ばかり書き散らしてしまっていますが、細々でももう少しこのブログは続けていかねばと思っていたりする次第で、具体的にはさすがに一年の間をあけるのはまずかろうということで、6/24(奇しくも『イリヤの空、UFOの夏』を思い出す「UFOの日」じゃないか)までには何か一本、実生活の自分の立ち位置を利用して手に入れた情報を含めることなく、かつそれを知らないようなフリをして書くこともなく、何らかを形にしたいと思っております。

 

 

今後、書いていきたいものリスト

■書評『コミュニティ・オブ・プラクティス―ナレッジ社会の新たな知識形態の実践』

恐らく人生で初めて読む「ビジネス書」。一定以上の知性と慎みのある人たちの間であれば、「ビジネス書」といえば世俗的で現世利益的で反-アカデミックな物だと考えられているし、実際に僕もそのように思って蛇蝎のごとく嫌っていました。ビジネス書も嫌いだし、ビジネス書を書く人間も作る人間も読む人間も大嫌いです。大学の後輩がビジネス書の専門出版社に入ったときは「俗世間に飲まれたか」としきりに馬鹿にしたものでした。

しかしこの本に書かれているのは、いわゆる行動学を応用した人心掌握のテクニックだのモチベーションコントロールだの最速Excel術だのといった口にするだけで赤面するような小手先のナンパ術もどきではなく、体系化されたマニュアルの存在しない職能や暗黙知の継承を言語化する格闘であり、実在する(した)集団を事例として抽象化・理論化を試みる社会学的営為です。書店のサブジャンルでは「経営学」の棚に分類されているが、これを無理やり経営学と言い張るのであればもはや「経営思想」か「経営イデオロギー」であり、しかもその実態はほとんど反-経営であり、集団の自律マネジメント構造であり、「経営」の終焉です。僕がこれを社会学と呼んだのは、社会学がそもそも人間社会における特定の現象や行動様式を「説明する」為の学問であり、その現象や行動が一定の解決すべき問題性を孕んでいるからこそ要請された知の形態であって、つまり社会学自体がある種の実効性、実益性と不可分であり、その点で純粋学問とは明らかに一線を画すからです。ゆえにかつての宮台真司はたとえば援助交際という具体的な「問題」に立脚して論理を展開し「処方箋」とやらを提示することで論壇において覇権を確立しましたが、本来的には学問は分析することが仕事であって解決を図ることはその応用にすぎない。少し話が逸れましたが、しかしてこの本はその「応用」こそが求められるビジネス書の領域にあって、企業マネジメントを標榜しながらほとんどその応用のための筋道を示さず、それでいてあくまで個別の事例からの抽象化を志向し続けるという極めて歪な構造を持っていて大変興味深いのです。なかなか厚さがあってまだ読み終わるまでじ時間がかかりそうなのだが読み終え次第所感をまとめようと思います。

 

■現代の魔術試論 論理性と数秘術

東浩紀の新著『ゲンロン0』はとても面白かった。本編が面白いのはもちろんのこと、それに付随して行われた連続インタビューも非常に読み応えがありました。その中で、恐らく僕以外にとってはどうでも良い情報なのだけど、僕にとっては非常に気になった一節があります。それは、文章のボリュームに比して意外なほど読み下しが容易であることについて質問を投げかけられた東が「自分はこれまでの執筆経験において、人間が視覚情報として視認しやすい文字数や段落の区切りを感得しており、それに基づいて書いているから読みやすくて当然なのだ」といった趣旨の発言をするくだりです。これは一見合理的な説明ですが、そこに潜むのは特定の感覚刺激によって人間に一定の二次的な反応を呼び起こすことができるという発想です。そしてこれは文明社会の視点からみた呪術の効用においてしばしば行われる「合理的」な説明と相似形です。たとえば密教においては、多くは真言マントラ)の詠唱が持つ特定の周波数や和音に照明の光量や香の匂いが合わさりトランス状態を引き起こすとされます。光刺激や香に含まれる成分が幻覚その他の譫妄状態を引き起こす可能性は神経学的あるいは生物学的に十分説明可能ではありますが、そのこと自体と、感覚器官からの一次的刺激の構成によって二次的な意識変性を起こしうる(それも、その変性の程度からすれば相当な容易さで)とする立場の間には、けっこうな懸隔があります。しかしながらこうした京極夏彦的な「心理的トリック」を駆使できると称するものは、フィクション・ノンフィクションを問わず存外多い。東浩紀の上記ブロック文体論以外でいえばこんな感じです。宮台真司が一時期、電子掲示板の自作自演で世論を誘導する実験を行い成功を収めたと自称していること。一定の商業的範囲を超えて陰謀論の域にまで達しているステルスマーケティング理論。主として性的なコンテンツにおける「バイノーラル催眠音声」の類。『イリヤの空、UFOの夏』のおいて水前寺が開陳する、「オカルト的事象の再現性に時間的・空間的座標が作用しないと誰が言えるのか」という論駁、同様に白石晃士映画における、やはり特定の時、特定の場所をキーとする怪現象の再現性、これらの元となっている、怪談における時間と空間の固有性。VR技術の隆盛によって再び活発化した、「視覚ドラッグ」の実在性。その旧来版として漫画『スプリガン』における、暴走したコンピュータがスクリーンセーバーのパターンによって人間を昏睡状態に陥れるシークエンス。光刺激による直接的反応を超えて神話的に受容された、TV版ポケットモンスターにおける「ポリゴンショック」。そしてそれら全てのイメージソースとなった、オウム真理教のイニシエーション。

 

■スタイリッシュの再帰性――乙女ゲートレンドの変遷とあとオタサーの姫

フィクションにおける男性キャラクターの服装の「ダサ」さと、そこに対する自己言及言説の変遷。その鏡像としての「オタサーの姫」もしくは「童貞を殺す服」のデザイン的考察。

 

■乙女ゲーにおける男の「内面」

SNSにおける内面の開陳の一般的キモさと、一方でフィクションにおける何らかの「内面の開示」への受容と、その形態。それらは必ずしもキャラクター本人による語りを経由せず、客観的事実の積み重ねや第三者からの証言に委ねられる。一方でキャラクターソングの歌詞においてはその内実が赤裸々に語られることが多く、そこにある「ただしイケメンに限る」以上の精密な哲学的考察。

 

 

こんな感じですかね。まだあといくつかあった気がするんですけど。

元々専門にしてきた乙女ゲー界隈は『あんスタ』が出てきて男性キャラクターが擬似恋愛の対象から恐らく「愛でる」存在へ軸足が移ってきたとことと、若手声優の容貌とコミュニケーション能力が軒並み上昇して旧来的な意味での芸能人化が起き、それによって「身近な芸能人」だった歌い手や生主の地位が軒並み低下、その両方を架橋する2.5次元舞台の隆盛、舞台俳優を再帰的に二次元化した『A3!』のヒット……と、単純なバイタイトルでの隆盛が同時に上部構造の変化と平行して起こっていって、自分のカバー範囲ではなかなか追いきれない領域に突入しつつあるというのが正直なところですが、もう少し頑張ってみようかと思う今日このごろです。

ではまた。

マウンティング・キモ・オタクの系譜 東浩紀、宇野常寛、はるしにゃん、けっぽし ――あるいは何周目かのタイムマシン商法、越境貿易商

 今回「マウンティング・キモ・オタク」という名フレーズを閃いただけでもだいぶ豊富な運動量だと思うんですけれども、語のリズム感がサディスティック・ミカ・バンドというかマゾヒスティック・オノ・バンドというかアシエンダ・エル・シエロというかASIAN KUNG-FU GENERATIONというかパンツェッタ・ジローラモというか、とにかく口にしていて気持ち良い、声に出して読みたい日本語ですよね。外来語が混ざってますけど。
 何が言いたいかと申しますと今更にも程がありますが、世の中本当にタイムマシン商法だなと思うんですよね。タイムマシン商法というのは、かのソフトバンク孫正義の得意技で、米国で流行ったもの(ビジネスモデル含む)を日本に輸入して、時間差で儲けるというアレですが、これってなにも国境を跨がなくても行われているわけですよね。「ライトノベルに本格推理のエッセンスを投入した意欲作」とか「アニソンの文脈にロキノンを接続した問題作」みたいな話ですとか、あるいはオタク向け音楽は10年遅れている説など。00年代も半ばになってからランティスから乱発されていた小室サウンドもどき、が通用してしまう不思議。あるいは転職市場で言われる、100人に1人のスキルと100人に1人のスキルを併せ持てば1/10000のレア人材になれるとかいうアレも、図式は同じでしょうね。端的に所変わればということで、他分野、ときには隣接分野ですら、そこでは当然のものとされ使い古されているものが、一つ隣の芝生に越境してみた瞬間にものすごい赤方偏移が起こって真っ赤に見えるんですけど、ということはままあります。

 今回私は、そういう視差効果で目立ってきた人達の中に一本強引な補助線を引いてみて、2016年の前半にオタクシーンに自分が何を思っていたのかを記録しておきたくてこれを書きました。

 

 

東浩紀

 

 東浩紀という人は1971年生まれですけど、今回の文脈において「越境者第一世代」としてみたいと思います。東はそれまでのオタク界隈のアマチュア郷土史家みたいな擬似アカデミックの世界に、東大院卒で博士号持ちといういわば公的アカデミズムお墨付きの哲学者として乗り込んできて、しかもドラゴンボールだの鉄腕アトムだのではなく、よりにもよってエロゲーという「わかってる」ジャンルを「文学(的想像力)の最前線」として大真面目に、しかしネット的な「(笑)」も織り交ぜながら、デリダジジェクを援用して語り始めました。
 これに対して古参のキモオタの反感はすさまじくて、重箱の隅をつついて「◯◯を事実誤認しているから東は何も分かってない、死ね」「学者がオタクを食い物にしようとしてる、死ね」「お勉強ばかりしている東大にエンタメの何が分かる、死ね」みたいな批判が溢れかえってそれこそエヴァンゲリオンに突然出てくる実写の庵野殺すスレみたいな殺伐とした景色が広がりましたが、一方でオタク界隈の言説の貧しさ――監督の出自がどこのスタジオどうだスタッフの前作がデビュー作がどうだといった、ジャーナリズムの名を借りたゴシップに終始するアニメ系媒体の掘り下げの「ある種の浅さ」――に退屈していた層からは、東浩紀は「正統の現代思想文脈に接続された画期的なオタクコンテンツ批評理論」として喝采をもって迎えられました。今にして思えば、東浩紀を歓迎していたのは概ね、偏差値が高めで疑り深い鬱持ちの倫理的童貞エロゲーマーで、つまりは東浩紀の出来損ない達だったんですけれども。
 そんな感じでオタク界隈から歓迎されたりされなかったりした東浩紀、では出自のアカデミズム界隈からはどう見られていたのかというと、東浩紀も処女作を上梓した時はまだキモオタカミングアウト前だったので、浅田彰が「驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」とか言って物凄い勢いで持ち上げてたんですよね。というか、それでいくと浅田彰自身がアカデミズムに「リア充」を持ち込む、もしくはリア充の世界に怪しまれない程度にアカデミズムを持ち込むことで利ざやを稼ぐというタイムマシン業者だったので、自分のビジネスモデルがアップデートされた感覚があったんでしょう。
 とはいえ浅田彰のデビューから数年でニューアカとか言われてたタイムマシン商法もいい加減化けの皮が剥がれてきて「大学まで来て空論を捏ね回して思考実験とか言ってる哲学とか文学の人ってやっぱキモオタだったんじゃね?」という認識がリア充層からは自明のものとなっていたんですが、当の哲学畑や文学畑の人間たちはまさか自分たちがキモオタと同一視されているなどとは毫も知らず、いまだにデビュー時の浅田彰的ポジションにいると思い込んでいて、「エロゲーとかやってるキモオタってキモいよな」「エロゲーとか軽々しく口にして東浩紀マジ哲学業界の面汚しだわー」とか思っていたわけなんですよね。そんで岐路に立たされたのかなんなのかよくわからないけど、東浩紀はアカデミズムとオタクならどっちかというと天下取りやすそうなオタクのほうに進むかね、斎藤環という援軍もいるし、ということで学歴および整然と体系立った学術的知識によってオタク相手にマウントポジションを取りに行ったんですよね。これが第一のマウンティング・キモ・オタクである。
ってここまで書いて思ったんですけど、第0のマウンティング・キモ・オタクに宮台真司ってのが居たよな。


宇野常寛

 今回第二のマウンティング・キモ・オタクは宇野常寛。この人はマジでマウントを取りに行くのが芸風なので、もう、本当にこの言葉がぴったりだと思うんですよね。1978年生まれだからもうだいぶおじさんなのに、なんか若者代表みたいな感じで色んなとこに出てくるの、それってスゲェ面白ぇなって思って……。
 出自からして、東浩紀の批判者として噛み付いて食い下がって存在感を出してきた人なわけですよね。まず東浩紀が称揚するエロゲーはダメ、なぜなら「儚い少女を救うオレ」幻想は女性の人格を都合良く加工/仮構した、少女が素敵な被レイプ願望を備えているとする「レイプファンタジー」だから。そんな感じで、男オタクのマスターベーションの体位一つにすら文句を付ける王宮ババアメイド長ポジションで頭角を現しつつ、カバレッジの武器としては東浩紀をはじめとして当時のオタク層が苦手(……? 少なくとも得意では無かったはずです)「実写のドラマ」、具体的にはクドカン礼賛その他によって「私はテレビドラマ知ってますがお前らは知りません。ハイ論破」みたいなスタイルでマウンティングしてました。
 この「反・レイプファンタジー」と「テレビドラマ」は宇野常寛の中では通底していて、レイプファンタジー系作品に代表されるような二次元オタクコンテンツは基本的に決断、成熟、ラカン的に言えば去勢、から逃げ回っているのであり、「完璧になれないなら部屋から一歩も出ない」という引きこもりの発想であって、対して(一部の優秀な、という但し書きが付くにしても)テレビドラマや特撮には、生まれた時から平成不況で人生が戦いであることが所与のものとなった時代の新しい想像力こと「決断主義」が宿ってるから、拙速で巧遅をぶち殺しますという宣言。
 実際、キモオタ界から一歩外に出ればそれこそテレビドラマなんてマスプロダクツの権化なので、見てないほうがむしろ希少価値あるんじゃないかぐらいのものなのですが、南陽の土人にビー玉を売りつけるがごとくテレビドラマに「決断主義」の熨斗紙を付けてオタクタイムマシン業界で一大シェアを築いたのが宇野常寛さんでした。その後のご活躍は昨今のポスト舛添都知事選に関しての特番などでもご覧になれるらしいです。


■はるしにゃん

 いきなりメジャー度が下がりましたよね。誰それって。はるしにゃんはネット芸人であり、東浩紀の批評再生塾に出たり入ったり断られたり、要は東浩紀ワナビーの一人でした。言動が不安定なため、東浩紀から危険視され批評再生塾から距離を取った後なのか、あるいは元々なのか、彼はマウンティングのための武器として「メンヘラ」を用い始めました。彼の言う「メンヘラ」は俗語のメンヘラそのものでもあり、また厳密化するなら個人の心的現象を精神分析と薬理現象「のみ」に還元する概念だったと私は理解しています。KAI-YOUでウテナ論を連載したり(これは焦点がブレていて私には読むに耐えなかった)、躁鬱の躁の頂点では次々と事業構想をぶちあげ、鬱転して全てを投げ出し……を繰り返したのち、ドゥルーズのように飛び降りて命を失いました。
 晩年の彼の思想の中で私が最も強い印象を受けたのは

現代にあっては金がないから人から贈与してもらうことによってサヴァイヴしていこう、そのためにもある種ポピュリズム的な仕方で、悪く言えばネットアイドルになりながら贈与と返礼の回路でなんとか生きていくことが推奨される。
(中略)
私たちはまだしばらくデフレカルチャーとゆるやかな空虚とともに生きねばならないだろう。

のフレーズです。結局は東浩紀の『ギートステイト』の影響下にあることは感じさせつつも。

彼は、象徴交換の儀式の中で、マウンティングのための「メンヘラ」概念と、それを構成する薬物と精神分析を我流でアビューズした結果、まさに自分の分析通りのネットアイドルとして、偶像として、この世を発たなければならなくなりました。彼の提言を真に受けるなら、デフレの作法とは零落した70年代カリフォルニアンイデオロギーであって、電子と薬理のテクノロジーによって精神現象と生理現象をコントロールし、禅をエミュレートした安寧を得ることが正しいのであって、「メンヘラ」はその過渡期的状態として現象するに過ぎないものとなっていく筈だったのではないでしょうか。
「贈与と返礼の回路でなんとか生きていくこと」を提唱、とまではいかずとも現状分析の一つの途中解として提示しながら、「なんとか生きていくこと」にはならずに死んでしまったことは、皮肉とも自家中毒とも言えず、しかし持論の否定というわけでもない価値観の宙吊りとして、私達の眼前に今しばらくは残っていそうな気がします。


■けっぽし

 そして最後はけっぽし。誰。かのkeyブランドを擁するエロゲー会社・ビジュアルアーツが久々に雇い入れた新規小作農ブランド「WhitePowder」の代表です。
 巻末読書ガイド風に言うと「瑞々しい感性」で綴られる、数々の極端な多動児的言動は大人になれない人間の多いエロゲー業界内にあってすら異彩を放っており、2chに単独でスレッドが立つほど、実は一部で話題の人物です。けっぽしのマウンティング固有結界は「リア充」もしくは「チャラさ」。それこそ東浩紀的動物倫理、あるいは宇野常寛的レイプファンタジーの裏返しによって、オタク男性の異性への接触というものは常に抑圧されたものになっているのが実情ですが、けっぽしはそれを逆手にとり、ひたすら「女に堂々と声を掛ける事ができる俺」を使って差別化を図ってきました。その裏付けとなっているのは、音楽シーンに於いて2016年現在、キャズムを越えつつも未だに先端を担っているEDMへの造詣と、アメドラもしくはアメドラを経由して触れる現代アメリカンカルチャー。とうとうアメリカからアメリカ文化そのものが、タイムマシンそのものの輸入が始まったとも言えます。
 EDMに代表されるクラブカルチャーが、若者文化ヒエラルキーの中で圧倒的なヘゲモニーを確立しているのは、誰がなんと言おうと一部のクラブで蔓延しているであろう脱法ドラッグアンダーグラウンド性によるものでしょう。ドレスコード、クラブマナー、ボディチェック、セキュリティ。音楽箱? ナンパ箱? なにそれ。一見さんお断りの参入障壁の中でも、最上級を占めるのは間違いなくドラッグです。いみじくも昨日6/23は風営法の改定日でしたが、クラブを警察から守る云々と言っている人たちが主張するように、実際にクラブで違法な薬物が提供されているわけではなかったとしても、薬物の乱用やVIPラウンジでのキメセクパーティーが「あるかもしれない」という不確定な可能性と期待値「のみ」でも「クラブ」は若者文化シーンにおいて本来のポテンシャル以上の地位を占め、畏敬の眼差しを集めていることに変わりはありません。かつて大抵のギターロックバンドが、実際には単なる落ちこぼれや気弱なワナビー、レコード集めが趣味の根暗の青年に支持されていたにもかかわらず「セックス・ドラッグ・ロックンロール」と称されたようなものです。
 彼のブランド名「WhitePowder」=「白い粉」は言うまでもなく(但しこのネーミングにはもう一つの意味が含まれているのですが、それをここに書き記すのは悪趣味なため割愛します。興味のある人は2chへ)、EDM≒クラブ≒ドラッグカルチャー、という演繹マウンティングの一環であり、またそもそもEDMという音楽ジャンル/音楽性はその成り立ち自体、文脈優位のDJカルチャーに「歴オタはダサい、“今”アガれ」という切断をもたらすために登場したものです。古い言葉で言えば「意味ではなく強度」、ドゥルーズ風に言うなら「器官なき身体」(を得る?)の為の音楽と言えるでしょう(しかしながら、即物的に熱狂するためだけの音楽さえも、ひとたびシーンが形成されれば特定のアンセムとそこへ至るフローの固定化が起き、新たな文脈、新しい封建的秩序が生まれます。既にEDMというジャンル自体にも無数の「定番」が定まり始めています。かつて、容易に踊れることを目的として同じような曲が量産されたユーロビートが、次第に個別の振りをどれだけ覚えられるかというパラパラのストックになっていったように)。
 そんなけっぽしの商業作品第一弾『ラムネーション』が、明朝から発売されるということを知って、ふと思い立った小論でした。『ラムネーション』自体、巨大企業が南陽タックスヘイブンにこしらえたリゾート地を舞台にした、ある種のアナルコ・キャピタリズム的世界観に貫通されていて、東浩紀動物化を経てエコノミックな決断主義に目覚めたオタクがその先にクラブカルチャー(運が良ければドラッグもあるかも!?)を見つけた、というような一本の補助線に乗せることが可能だったりします。
 これでアフィリエイトの一つでもあれば小銭が稼げて、はるしにゃんの言うようなデフレな生き方の足しにもなったのでしょうが、生憎その気力すらも湧かない私は、マウンティング男子たちのマウントぢからを少しでも分けてもらいたくて、この投稿を何度か読み返すでしょう。

TAKUYA∞歌詞だらけのUVERworld桃太郎∞

遡ることミュージックシーン4000年の歴史の上半期、おじいさんとおばあさんが年をとり日がたって、言葉さえ失って、二人過ごした日々を君が忘れてしまったとしても最後まで心で対話していました。

 

おじいさんは山へてっぺん狙う決死の覚悟で出っぱなレッドゾーンぶっ込み、おばあさんの暴走する不満の行き場はLIVEへ。
衝撃的265秒間、おばあさんがその身に起こる意識高揚に身を任せ、川の流れから目をそらして忘却の果 意味の無い沈黙を選択していると、川に後光が差してロックバンドでもでかい桃が、ダイダラボッチ*1なのか?どうなんだ? どうなんだ? と、同じように流されて来たわけです。

 

おばあさんは「二人で信じた物が正しかった事を証明しよう 心ごと あわよくば 全てを奪いさってくれ」と、桃が桃を重すぎるって理解を拒みましたが、持ち帰りました。

おばあさんが持ち帰った桃をAWAYOKUBA -斬る- と、中から悪なき欲望*2の革命児が出て来ました。

 

「生を受けそれぞれが人生を謳歌 脳のブラックボックスを知るように、この子は桃太郎∞と名付けよう それは幸か?」
桃太郎∞は鏡の前で裸になって、自分の好きなところと嫌いなところを手帳に書き出しました。*3

桃太郎が初めて見た夢は学者、二度目は本気で熱くなれたプロのスポーツ選手。
昔の経験に足を取られて在りもしない壁を自分で作り、年を重ね強くなっていくつもりが臆病になっていくようで、飛べるふりをして生きていました。

ざっと見積もって残された時間だけで何もできるはずはないと諦め始めた桃太郎でしたが、ある日遅すぎることは無いと言ってくれた88の鍵盤のおかげで、おじいさんとおばあさんに向かってこう言いました。

「好きなようにやれ、そして俺に指図をするな! from Japan America 赤道直下 動き出せ タイミングは そう 目下 信じろ 己を信じろ 打ち立てろ お前らの金字塔」

 

きび団子をもらった桃太郎∞は【俺達がNo.1】と書かれたのぼりを掲げて、ステリアンで特注したドレスで着飾って、スタートは北緯35度大雑把 東経135度 my home town デグナーカーブ魔の第8コーナーを曲がりました。

桃太郎∞がちょっとそっとのアンダーステア位が面白れえ そう面白れえ と思っていると、道の向こうでKICKっていう犬が自由でした。

「欲しいものなんていくらでもある 全部乞うだけじゃ無く一つに絞って追うだけ」

桃太郎∞がKICKを連れて真っ暗な街で悲しみに声を震わせていると、向こうから猿がやってきました。

「なぁ兄弟 この時代を生き抜いてあの世で少し落ち着いたらセントラルパーク ダコタハウス前 来世はそこで落ち合おうぜ」

桃太郎∞が犬と猿を連れて、仲間同士で笑って過ごせる今を気絶しそうな程に愛していると、向こうから雉が海を渡るマダラ蝶のように今以上を求め羽ばたいて来ました。

「俺らスーパーオリジナル迷いのない羊 ぶち上がった激動の世界を見せつけてやろう」

 

辿り着くまでに もう本気で「ダメなのかもな…」思う日もあった「無駄だからやめときな」とか バカにもされたし、良い奴ばかりじゃ無い世の中で、桃太郎∞は、信じ続けた俺等の桃源郷、鬼ヶ島へ上陸しました。国外のSix BlowようこそJAPANに この国は君招き入れるよ。アジアを震わせるBlow。
桃太郎∞は自分と同じ姿で立っている鬼達にこう言いました。

「俺達が東京に出てくる前、いくつかのライブハウスのおっさんに言われたよ。成功するイメージばっかりじゃなくて、もっと現実見ろよと。
お前、東京だぞ、東京行くんだぞ、もっと現実見てから物を言えよ、って何度も言われたよ。
いいか? ここ東京だぞ。現実ばっかり見てたら、こんなもんな、一歩も前に出ねえよ。
もっと素敵なイメージ持って、想像力あんだろ? 素敵なイメージ持って、幻想や、幻の中で、生きてみろよ!
そして、その俺達の、幻想や、幻が、幻想や幻のまんまで終わっていい訳ねえだろ!」*4

 

桃太郎∞達のNEO SOUNDがいっせいに跳びかかりました。

KICKは、戦うスペックを超えるペースで誰に媚びる必要の無い世界へ。

猿は剛速球投げる如く 一石を投じました。ララバイじゃねえんだぞ。

雉にだってカラスにだって終わりが来る此処の定め。

「おじいさん、おばあさん、俺、KICK、猿、そして雉、これが俺達のシックス・プライド、CORE PRIDEだ!」

鬼達は逃走経路不明 痕跡なし offence。
「がらくたに囲まれていることさえ俺達は失ってからしか気付けない。大事にしすぎると壊れていきそうでかけがえない物を作るのが怖かった。上を向いて歩いたくらいじゃ何も変わらなかった 目を向けるべきは己の内面 競争社会で気になってる 横 横 じゃねえぞ」

 

鬼達に奪われた宝物は殴って取り返したってよかったけど、この手に余るものは置いとかない主義の桃太郎∞はまだまだ行けるぞ 行けるぞ。ここにいるのは演奏者6人とこれを読むお前合わせれば7人だ。
「ありがとうございました。最高に熱い夜だったぜ!アァーーッ!! 俺たちが、売れないと言われていた俺たちが、なぜ東京ドームができて、なぜ来年また東京ドームができるか教えてやるよぉい!  新しい時代に、足跡つける、俺たちが……UVERworld! ヨロシクだぜ! あぃ!!」

この暗い部屋に太陽の光が欲しくて君の似顔絵を書いてみたんだ 似てるだろ? また会えるよな? また会えるよな? 次は君が僕の絵を描いてくれよな。鬼に貰った小説の最後のページに少しだけ書き足したストーリー、
「どうしようもない位愛し愛される日々が続いた」と願いを込めて、生きるという全てのANSWER

 

本当は嘘だけどね。

 

 

 

 

 

桃太郎は一度で出オチだし、UVERオタとか、冗談通じなくて∞さんの金言をネタにしただけで刺してきそうな感すらあるけど、思い立ってしまったらやらずには居られなかった。これが俺達のオリジナリティ……!

ボールドは90年代的だよなあと思ったが、そもそも歌詞いじり自体が90年代の遊びだし、やらずにはいられなかった。ためらいの後悔より充実の後悔を。

*1:「でくのぼう」ないしは「ウドの大木」の意味なのか。 

*2:「悪なき」は原文ママ。「飽くなき」の誤植のようでもあるし、「悪びれず」的な意味の∞語かもしれない。

*3:リスナーからの人生相談に対する答え。

UVERworld先生が来校!!!!!! | SCHOOL OF LOCK! 生放送教室

*4:ナノ・セカンドのPVにある演説。


UVERworld 『ナノ・セカンド』 - YouTube

夢・地元・グローバル μ'sとUVERworldとインド映画

■青春聞こえてんのかオラッ!きっとじゃ困るんだよオラッ!

この間、『ラブライブ!』のアニメを全部見たんすよ、ラブライブ!。二期じゃなくて無印。地上波が完全に終わってからだったので、何らの情感をも周囲と分かち合うことなく、真空状態の中で私VSμ'sの真剣勝負です、やるかやられるか。チュンチュンするのかされるのか。そういう戦いごっこ、みたいなもの……。
それで、周囲が居ないわりと冷静な状態で最終回見るとなんかこう……あれ……? え……? こんなんでいいの? これ、みんなでことりの足引っ張ってるんとちゃう……? いや、でもことりの本当の気持ちは……? みたいな煩悶から、まずこれは物理的にコンテンツから離れている間も当該コンテンツのことが頭から離れないようにするジャンプ黄金期、カイジ沼編、ソシャゲ的やり口だ! 汚え。さすが課金芸だけでKlabを倒産から救っただけのことはある。汚いが考えさせられる……なぜならことりと穂乃果その他についての問答が、いつのまにかちょっと前に流行した新書のありがちだけど侮れない「地方VS東京」的な若者論に発展してしまったんですよ。若者論。
若者論といえば、ポップミュージックの歌詞から世相と若者像を読み解くっていうのが定番なわけですけど、音楽性を語る語彙を持たずに歌詞のテキスト分析だけやってると宇野常寛みたいになるぞ、そんなのは嫌ー!

でですね。ラブライブ!一期終盤のテーマになってた、ことりの夢とμ'sの未来の対立を見ていたら、ふ、不覚にも連想してしまいましてね。私の大好きなUVERworldを。ちょうどそこに最近ぱらぱらめくった阿部真大の『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』

がオーバーラップしてきまして、この本はJPOPの歌詞の基調が

既成権威への反発の時代(80年代)
努力や実力の時代(90年代前半)
閉じた関係性の時代(90年代後半)
家族・地元志向の時代(00年代)

と変遷してきたと主張していて、この流れの先にONE OK ROCKRADWIMPSを「ポスト地元志向の時代」と位置づけています。
ポストとか名付けてる時点で「地元志向そのものではない」以外何も言ってないに等しい否定神学を予期してしますが、実際、本に書かれていたワンオク分析としては、特に「地元」を否定するわけでもなく、自身が未完成であり途上であることを見つめ、他社とのぶつかり合いを通じて高まってゆくという方向性が抽出されていました。

地元の持つひとつの性質であった「居心地の良さ」(当然それは地元にのみ備わった特性というわけでは無いけれど)をかなぐり捨て(地元が「居心地の良い場所」であるという決めつけ自体が許し難いという人もいるはずですが)ている、という意味では「非-地元」の価値観と言えるのですが、あくまで地元そのものではなく、地元(など)の持つ居心地の良さの裏にある「お互い様」的な事なかれ主義に唾を吐きかけ、他者とのぶつかり合いによって自己を錬磨するという志向性ということで、確かに「ポスト地元」としか表現され得ない、強いて言うなら「アンチなあなあ」な志向性ですね。
まあ唾は言い過ぎでしたね……。

で、そんなポスト地元の潮流の中で、明確に「他者とのぶつかり」以外の方向性、そして「反-地元」の方向性を提示しているのがUVERworldです。


UVERwordについての基礎論はこの人のがいい感じ。

『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』 : 妹の声が聞こえる

 

なお引用されている「23ワード」のタイトルが意味するのはピカソの本名で、同曲の他の箇所では殺害されたジョン・レノンへのシンパシーを唄うなど、既に誇大妄想狂の気のある∞さんですが、「願い続ければ夢は必ず叶う」のであれば、そのぐらいbigな先達と自分を連続性のあるものとして捉えることはまったく論理的に正当なので笑ってはいけません。


ここまでの文脈に位置付けてみると、ポスト地元の一潮流である「他者とのぶつかり」とは別の、「それぞれに自己と戦っている者(達の連帯)」という形が見えてきます。そして、その戦いを為すためには彼らは地元(滋賀)を離れ東京を目指す必要がありました。

UVERworldというとなんかもう「ウーバー」っていう名前の音の響きからして「ウェーイwww」の一種だよね、と思われておりまして、まあ実際そういうとこもあるんすけど、上記のような位置付けから、私は現在のメジャーJPOPにおいて最高峰の批評性を備えたバンドであるとも考えておりまして、しかも一見うぇーいなのに実は……、というところが、こう、東京事変みたいないかにも「タダ者じゃないですよ私たちは」って耳無し芳一レベルで書いてある人達よりも、よりクリティカルな感じがしていいと思うんですよね。
(まあUVERUVERで「ゆうて俺らチャラいけどホンマはかなり深いで?」みたいな顔してるっちゃしてるんですけどね。)


■異様に勝ち負けに拘る粘着質なバンドUVERworld
「元々あるスタート地点、<有利な位置に立ってた者>しか夢を追いかけてはいけない訳では無いことを、俺は歌っていきたい」、というのはUVERworldのドキュメンタリー映画『THE SONG』の冒頭でボーカルのTAKUYA∞が言っていることです。TAKUYA∞というのはUVERworldのほとんどの曲を作曲し、全ての曲の作詞をしている人なので、UVERの思想的な面はほとんど全部この男によって規定されていると言っても過言ではありません。
そして彼が言うように、確かにUVERの歌詞は(最近の曲は特に)要約すると「夢を諦めるな」がかなりの部分を占めております。しかしそれはいわゆる「JPOP的」な、「いつか叶うよ」とか「きっと大丈夫だよ」という優しいものではなく、

予想以上に仲間は集まった
お互いの日々や将来の話で
熱くなって殴り合いになった
15の頃も不安から逃れるように
同じような事で殴り合ったこと思い出して
お前が笑い出すから

CORE PRIDE

不安と迷いから見つけ出した生き方も
安らぐ方に行こうとして
汚い世界で息を止め居心地にも慣れてきて
青春に裏切られた大人の仲間入りするのか?

(RIVERSI)

永い間 雨に打たれ過ぎた
純朴な夢とその理想が 僕を裏切るカルマ
叶えたいことと叶わなそうなことが重なって見えるけど
人生が二度あるなら こんな険しい道は選ばないだろう
でもこの一回 たった一回しかチャンスが無いのなら
何もかも諦めて生きていくつもりは無い

Fight For Liberty

 

考えてみろよ あの 恐れてた魔物が
何故 お前と同じ姿で立ってるのかを
人の数より少し 少なく用意される希望
辞しても自転してく地球

(ナノ・セカンド)

 

といったふうに、「夢は叶う」と言いつつも、一方では誰かと誰かの夢と夢が競合した場合に「人の数より少し 少なく用意される希望」という状況がありうることを喝破し、さらに「青春に裏切られた大人の仲間入り」「何もかも諦めて生きていく」など、夢から落伍した者へは全く容赦がありません。
そこでは、

誰もが送る日常を犠牲にして咲かす花は美しい
ただそれを見せたくて また僕は太陽に手を伸ばす

(AWAYOKUBA-斬る-)

 

に端的に象徴されるように、明確に絵仏師良秀的な芸術至上主義が貫かれてはいますが、そこで想定されているのは、選ばれた一部の人間にしか理解ができない芸術ではありません。
UVERworldの世界観においては、「売れないけど良い曲」などというものは想定の埒外であり、「本当の本気の音楽」は「完膚無きまでに 音だけで世がグゥの音も出せぬ程」である筈なのです。
そのため、現代のロックバンドその他を多くのクリエイターが取りがちな「分かる人だけが聴いて/読んで/見てくれれば良い」というようなスタンスを、UVERworldは全く採用しません。
ですから、オーバーグラウンドしなければ意味が無い、と考えるUVERworldにとって「地元に残る」ことは自己の限界を受け入れることであり、自己との戦いの放棄となるのです。

 


UVERworld 『ナノ・セカンド』 - YouTube

「俺達が東京に出てくる前、いくつかのライブハウスのおっさんに言われたよ。成功するイメージばっかりじゃなくて、もっと現実見ろよと。
お前、東京だぞ、東京行くんだぞ、もっと現実見てから物を言えよ、って何度も言われたよ。
いいか? ここ東京だぞ。現実ばっかり見てたら、こんなもんな、一歩も前に出ねえよ。
もっと素敵なイメージ持って、想像力あんだろ? 素敵なイメージ持って、幻想や、幻の中で、生きてみろよ!
そして、その俺達の、幻想や、幻が、幻想や幻のまんまで終わっていい訳ねえだろ!」

 

殆ど「説法」としか言いようがない宗教的なPVですが、ここにはUVERworldの性質が良く現れています。
箇条書きにしてみると、

①自己との勝負の延長上に上京とメージャーシーン進出を位置付けるパースペクティヴ
②「いくつかのライブハウスのおっさん」ごときの与太話をいまだに根に持っている粘着性
③上記①と②が合わさった結果生まれる、「自己との勝負」のブレと「勝負」全般への回帰、他者との勝負の束の間の復権

といったところです。
それぞれに対応する歌詞を引用してみるとこんな感じです。

 

そうやって意地張って 踏ん張って生きてなくちゃ 時間の流れさえも怖くなる
本当に殴るべき相手は そんな自分だろ
ただ今は負けたくない自分に負けない「プライド」

CORE PRIDE

 

どうしても僕を認めたくない全ての人に
心から感謝を捧げるよ
敵も味方も その存在に平等に価値を感じる
でも白黒つけようか

(RIVERSI)

 

人生が二度あるなら こんな険しい道は選ばないだろう
でもこの一回 たった一回しかチャンスがないのなら
何かをもう傷つけ傷つけられたとしても
後ろに明日は無い 力を宿せ WAR
何もなかった日々に 力を宿せ WAR
今しか出来ない事も確かにあった
戦う時はいつだって一人だぞ
でも一人じゃない事もわかるだろ?
Every life 力を宿せ WAR

Fight For Liberty

 

今住む世界に根本で
勝利も敗北もない
頭で理解しようとも
闘争心という感情があるから
またやっかいだな…
リスクを恐れるような
生き方は 若さ故
一過性のものと願ってたいが
永遠にそこでしか生きる
意味を感じられそうにもないな

Hustle and bustle
Don't Think.Feel
無心 不動 且つ 唯一無二の思想
誰かのために生きていく
それさえお前のためだろ

 (Don't Think.Feel)


戦うべき相手は己自身であるとしながらも、「戦い」に過剰にフォーカスした結果、戦い自体が自己目的化し、やがては再び自分自身以外のものも「戦い」の対象として再び立ち現れて来るような論理の綻びと、綻ぶほどに濃密な闘争のアンセム。これがUVERworldの両義的な危うい魅力であることは間違いありません。「儚くも永遠の」とはよく言ったものです。


■グローバル単位で見たら神田とか田舎なわけですよ
UVERにおける夢(脱地元志向)と非・夢(地元)の対立は、ラブライブ!では「夢(一流のスクールアイドル)と別の夢(デザイナー)」の対立の形を取ります。

もちろん音ノ木坂があるのは設定上千代田区の神田で、首都の中心近くなんですが、服飾デザイナーということりの「夢」はフランス?だかオーストリア?(忘れた)においてしか実現しない、ということになっています。もちろん、ファッション業界において日本やアフリカその他の非ヨーロッパ地域のモチーフがトレンドとなることはよくありますが、それはあくまでヨーロッパを頂点としたモードの帝国の中の面白民族枠でしかなく、典型的なオリエンタリズムの対象としてしか成立しません。現実の世界規模のファッションにおいては、ことりの作品は東京に居る限りは、ニッポンのAKB48-likeなkawaii gal-fashionでしかなく、気が付いたら自分が村上隆にマン拓取られて1/1全裸フィギュアがサザビーズで100億円!とか、そういうゲテモノ扱いでしかないわけです。
ことりが夢を叶えるには、「フランス(だっけ?)≒ヨーロッパ≒世界」に出て行かなければならないのです。

UVERworldにおいて<滋賀:東京>、<地元:都会>が持っていた構図(地元を離れなければ夢を追う事ができない)は、ラブライブ!においてそのまま相似形で日本:世界の形で<ローカル:グローバル>の形になるわけです。
そしてなんと、ことりちゃんは神田に、音ノ木坂に、ローカルに残る選択をするのです。
マジかよ!∞さんが知ったらバッコリブチ切れちゃうよ!
この場面については、尺の無さによる説明不足や瞬間移動なども相俟って、かなり翼賛的にラブライブ!視聴していた層にとっても宙吊り感の強いエピソードだったようです。しかし、おそらくこのエピソードは、どれだけ尺を費やしたところで万人が納得するものにはならなかったでしょう。それは別にUVERworldの世界観が正しいからということではなく、単にことりの夢とμ'sの存続のどちらが重要なのかが結局のところ価値判断の問題でしかないから、ということでもあります。しかしそれ以上に座りの悪い根本要因は、「叶え!私たちの夢――」と標榜した作品が、神田というローカルに留まることでしか叶えられない夢(スクールアイドル)を提示するだけならまだしも、そこに地元を出ることでしか叶えられない夢(デザイナー)をストーリーの流れ上不用意に対比してしまい、その解消をもっぱら、「ことりは本心ではデザイナーの夢など追ってはいなかったのだ」と想像させることに委ねているからです。価値判断の問題を、「価値判断をさせない」という形で償却しているのです。

 

穂乃果「ことりちゃん、ごめん。私、スクールアイドルやりたいの。ことりちゃんと一緒にやりたいの。いつか、別の夢に向かうときがくるとしても」
ことり「ううん…私のほうこそごめんね……私、自分の気持ち、わかってたのに……」

 

このことりの主体性の無さによって、全ては曖昧で未決なままに留め置かれています。「自分の気持ち」が「神田に留まりスクールアイドルを続けること」なら、そもそもなぜことりは留学の手続きなど取ったのでしょうか?百合SS厨であれば、幼馴染の穂乃果の気を引くためだとか、穂乃果(たち)と自分を比較して主体性の無さを嘆き、一時的にある種の自己破壊衝動に駆られたのだといった牽強付会な深読みも可能でしょうが、それであっても、それらは作品の根底にある「夢」とは異なる位相の話です。
「夢」の位相においては、あくまでμ'sの夢と対比されるのはことりの夢であり、そのことりの夢はことり本人の口からは「自分の気持ち、わかってたのに……」と、「自分の気持ち」では無かったかかのように(しかし「本当はデザイナーになどなりたくない」と明文化することもなく)語られるわけですが、では本当は留学など全くしたくなかったのかといえば、そういうわけでもない「筈」という、視聴者の常識的判断による推測に委ねられています。

慎重に、しかし若干の百合テイストを踏まえつつ忖度するなら、ことりの「自分の気持ち」とは、「デザイナーの夢も追いたいけど、μ'sを諦めることもできない」という両立不可能でかつ判断不能な状態に留め置かれていることであり、「じゃけん、穂乃果さん決めましょうね~」と穂乃果に判断を委ねたいという欲望です。
もっとも、『ロミオとジュリエット』における家柄のように、位相が違うからこそ恋情と対比されうる典型例もあるわけですが、ロミジュリ的なものにおいては「家柄によって蹂躙される悲恋」のその悲恋性が需要されているのであって、家柄間の対立が個人間の恋愛に優先することを前提としたものではまったくないはずです。この図式を今回のラブライブ!に当てはめるならば、視聴者の大半が「モンタギュー家とキャピュレット家のどちらが抗争に勝利するのか」にしか興味がないという大変奇妙なロミジュリが生まれます。なら『仁義なき戦い』でも見ておけという話。

若干脇道に逸れましたが、前段でのUVERworldの世界観を踏まえてラブライブ!一期の最後を整理してみましょう。
UVERworldにおいては「夢を叶える」ことは、自己との闘争であり、自己の限界を追い求めることである以上、必然的にローカルを捨てて、より上位のレイヤーを目指すことを直接的に意味します。
そこでは夢の成否は、(自分に対しての)勝ち・負けによって一元的に決まりますが、その二元論への強すぎる執着が「勝負」それ自体の全景化を招き、不可避的に「自己」以外との闘争に回帰しはじめるブレを生んでいます。
ラブライブ!においては、ローカルでのみ「夢を叶える」ことが可能なシチュエーションを描きながら、ローカルに居ては叶えられない種類の「夢」が夾雑した結果、夢と夢の対立が生まれるはずが、そのことは非-ローカルな夢の持ち主(ことり)の主体性の無さをという評価軸の導入によって巧みに躱され、ローカルな夢と非ローカルな夢が必ずしも対になったものではないかのように描かれます。
このことは、「アーティスト」としての彼女たちを心から応援しながら、その一方で「声優なのに」ミュージックステーションに出演するから凄いのだ、というような倒錯した権威化から逃れることができない多くのファンの複雑な心理と無関係では無いでしょう。「声優業界」「アニメ業界」というローカルの中での鶏口も、非-ローカルな音楽バラエティにおいて牛後とならざるをえないという認識上の抑圧に常に曝されている精神的負荷は、穂乃果とことりの夢の本格的な対立を直視させられる状況とパラレルです。


■唐突なインド映画話、『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』のこと
地方と中央、という図式から私がもう一つ連想したものは、インド映画の『オーム・シャンティ・オーム 恋する輪廻』です。
よく知られている通り、インドは映画産業が非常に盛んな国で、インド映画のことはボンベイとハリウッドをかけてボリウッド映画と通称されます。
私自身はインドについて何を知っているわけでもないので、いつもの如く、映画を見終わった人が本論を読む前提で印象論に終始します。

ストーリーのあらすじは、恋人シャンティとともに有名プロデューサーのムケーシュに殺された売れない映画俳優のオームが、30年後にスター俳優として転生し、ハリウッドから戻ってきたムケーシュを追いつめる、という内容です。
『オーム・シャンティ・オーム』終盤、畳み掛けるようなとしてちょっとSound Horizonっぽいミュージカルの中でムケーシュの悪事が暴かれてゆきます。そしてムケーシュの罪が全て語られたとき、ムケーシュは天井から落下してきたシャンデリアに潰されて絶命します。
少なくとも私は、このシーンに達成感や爽快感を覚えつつも、復讐殺人(殺人を犯す主体が幽霊なので、刑法――おそらくインド刑法においても――上は犯人不在の事故なんですが)に対して、自分が抱いた感情は、一言で言うと「ちょっと、ひいた」というものでした。そして私は、これがこの復讐劇を書いたインド人脚本家の感性と、現代の日本人の通俗的な感性や、おそらく現代の欧米人の感性との違いに由来するものであると考えました。しかしこれは、半分正解で半分不正解だったと思われます。


赦し難い相手であってもそれを殺すことには躊躇いを感じ忘却と共に許すか、もしくは忘我の瞬間に衝動的に復讐を成し遂げ、そののちに後悔しおののくのが、通俗的な現代日本人の共感を得やすい感性(私の見た限り、韓国映画の多くもこの構図をとります)です。
また、超越者(神)の代行者として裁きを下し、規範や社会契約=法律を犯してまで私刑に及ぶという葛藤を自覚的に決然と踏み越えるのが欧米人好きのする内容です。
これらに対して、恋人に殺された女が幽霊となって復讐する、というどこか土俗的でおどろおどろしいストーリーがあっけらかんと語られるのが『オーム・シャンティ・オーム』です。

『オーム・シャンティ・オーム』における復讐殺人は、そこに至るまでの語りは非常に饒舌でありながら、復讐そのものは非常にあっけなく成し遂げられます。
そして、復讐の主体は、果たして「主体」と呼んでいいものか判然としません。これは殺人を犯すキャラクター(シャンティ)がそもそも人間ではなく「幽霊」として現れる」こと自体もそうですし、その幽霊シャンティ自体の描写が、人称的ではあるけれど本当に人間的な主体を備えたものかどうかが今ひとつぼやけていて、あたかも生前の人格のうち特定の側面のみが現前しているようだったり、特定の感情や目的に奉仕する部分だけが現れているかのような、完全な「人格」であるかどうか特定できないもの、人格と非-人格のあわいに現象している、という意味でもそうです。
殺人を「人間が後ろめたさや葛藤とともに成せたり成せなかったりする、あるいは成したのちに後悔する」のがインド以外の映画であり、「人間ぽいけど人間じゃないかもしれない何かがアッサリ為す」のがインド映画、ということです。
さて、ここまで『オーム・シャンティ・オーム』以外の例を見ていないにもかかわらず「インド映画」全般と強引に括り、県民あるあるレベルのことを垂れ流しているようにも思われるかもしれませんが、そうではありません(ちょっとだけそうかもしれません……)。


なぜなら、『オーム・シャンティ・オーム』には、インド映画のメタフィクションを自任する性格があるからです。それはインド映画の往年のオールスター(と、パンフレットは主張しています)が次々登場し、いかにもマサラ映画なダンスミュージカルを見せるという意味でもそうですし、キャストやスタッフがキャストやスタッフとしてそのまま挨拶をしながら去って行くというエンディング演出もその一環と言えますが、それだけではありません。

 

『オーム・シャンティ・オーム』において、「悪役」のムケーシュは、「ハリウッド進出」を夢見ており、その妨げとなるシャンティを殺害しました。つまりムケーシュは、ボリウッドに対する決定的な裏切り者であり、ハリウッド(グローバル)への忠誠心のためにボリウッド(ローカル)を裏切り、傷付ける存在として描かれているのです。
そして、それに対するオーム達の復讐は、試写フィルムにシャンティ(のそっくりさん)を映り込ませることに始まり、発火装置を作ったり、お母さんにキチガイ老女の役作りをしてもらったりなど、「映画の悪は映画でとっちめてやるぜ!」とでも言わんばかりの、どこか牧歌的なものです。もちろん彼らも最終的にはムケーシュに罪を自白させるという目的に向かって動いてはいるのですが、そのプロセスはどこか呑気に映り、我々が通俗的に想像する「インド人」の姿そのものです。ですから、この「インド人っぽさ」もまた、自覚的なカリカチュアであると考えられます。そのカリカチュアされたインド人像の後に、唐突な苛烈さでムケーシュを処刑し去ってゆくシャンティは、生命を産み(妊娠している)、奪うという、これもまたいかにもなインドの地母神的性格を体現した存在です。
復讐をテーマとした現代の多くの物語は、復讐の準備を着々と整える、という後ろめたい高揚感を伴った、ダークヒーローもの、クライムサスペンスものの性質を持ちます。その享楽を得るとき、視聴者はもれなく犯行の主体に同化しています。
これには無数の例が上げられますが、貴志祐介『青い炎』で凶器や酒を用意する場面、それに着想を得た『ひぐらしのなく頃に』。白石晃司『オカルト』で榎野とともに爆弾を創る場面、同『殺人ワークショップ』の訓練シーン、『処刑人』の武器購入シーン等々。
しかしながら、『オーム・シャンティ・オーム』では3時間の長丁場を通して、視聴者の視点はオームとともにあります。オームの視点で能天気な復讐を企てた後、最後の最後で復讐は失敗しかけますが、その時突如シャンティの幽霊が現れ、想定外の苛烈さで復讐を成就させ永遠に去ってゆきます。オーム=視聴者はここで呆然と置き去りにされます。置き去りにされたのち、復讐に対しての自分の認識とシャンティの怨念の強さのギャップを埋め合わせながら、同時進行でエンディングを迎えます。この唐突な苛烈さはおそらく、インド人脚本家にとっては当然のもので、しかしそこにはおそらく「インド以外じゃこうは行かないよな」という客観性が備わっています。だからこそ「オレら的にはガチの復讐つったら『こう』なんだけど、さすがにインド人以外はひいたっしょ」というような、グローバルに向けたローカルトークが成立しているわけです。
前述の通り、エンディングではキャストやスタッフが続々とレッドカーペットを歩いてきて挨拶をします。これでもかというほどの「これは映画ですよ」のメッセージですが、その裏に「オレたち陽気なインド映画っ子。だけど怒らせたら怖いかもよ!?」という郷土愛や反骨心を読み取ることができます。


■まとめ
今まででもっとも牽強付会な三題噺だった気がしなくもないですが、ローカルトーク三本でした。
ローカルを捨てて夢に邁進する戦闘狂のUVERさん。ローカルの夢がいちばん!そうじゃない夢……もあるかもしれないけど、本当の夢かどうかは分からないっしょ!?なラブライブ!。ローカル舐めんなよ!今オレらのこと迷信深そうって思っただろ?じゃあその通りにしてやるよ!なインド映画代表。ということで連想のまま書き連ねられたものではありますが、地方と中央、の相似で物事を考えるときのひとつの事例でした。

岩D歌詞だらけのRejet桃太郎

昔々あるところに、ドSなおじいさんとドSなおばあさんがふたりの楽園(アルカディア)を探していました。
 
おじいさんはヤマへSHIBAKARIに、
おばあさんは川へ、脳髄にネバりついた白濁(シロ)の残滓を洗濯しに行きました。
 
おばあさんが川で愛の激流(Raging Love) とめどなく溢れて今ビショ濡れそうになりながら洗濯をしていると、
通称「ClassX」と呼ばれるアリエナイ大きさの果実(もも)が、どんぶらこ don't brand go on! と放流(なが)れてきました。
 
「こんな大きな桃、見たことないだろう? ククク」
 
持ち帰った桃を破壊(コワ)す為の『核心(Loudness)』 
桃の奥(なか)から赤ん坊(I can't bow)が「出てるんだよ」
 
「桃から生まれたんだ、お前の名前は“桃太郎”だよ……ククク……どうだ? 満足か?」
 
おじいさんとおばあさんは桃太郎(CV:鈴木達央)に張り裂けるほどの愛情をネジ込みました。
「おい、上を向け」
「もっと口を開けろって言ってんだよ」
「最初だけだ。羞恥心があるのは」
「怖くないからね。ほら、お口開けて。あーん」
これが愛?アイI愛愛愛...!アイ愛愛愛愛愛愛愛愛愛.......!
これが愛?アイI哀哀哀哀哀哀哀哀........... これが愛なの?
 
すくすくと育った桃太郎はある日、プリンセスを巡って繰り広げられる鬼ヶ島No.1の男子高校生を決める告白大会(ラブロワイヤル)に出たいと言い出しました。
 
はじめは「『思(オモ)エバ叶(カナ)う?』 泣イテル オマエ ヲ 赦サナイ夜(ヨ)?」といっていたおじいさんとおばあさんも、
うだうだ ああだこうだYOU(言う)よりヒトツのActionで物語(More Gatta)ろうぜBabyと考え、桃太郎を送信(おく)り発射(だ)しました。
 
桃太郎はきびんだんごをもらい、「超問題児集団」と書かれたのぼりを身に付け、千里(シルクロード)を危ういバランスで、奥へ奥へと薔薇(ばら)を掻(か)きわけました。
 
金太郎(CV:鈴木達央)……ではなく桃太郎(CV:鈴木達央)が熱帯(アツ)い都会の密林(フォレスト)で雑踏の中に紛れ込んでいると、遥か彼方から犬(CV:高橋直純)がヤッて来ました。
 
「ねェ、桃太郎ちゃん? キミの“きびだんご”いくら?」
 
犬を連れた桃太郎が無人のHOMEで 風に誓い合っていると、猿(CV:近藤隆)がジリジリと秒速何メートルかで迫ってε=ε=ε=ε=ε=┌(゚ロ゚;)┘ 来ました。
「キミから受信した“きびだんご”で 寝れなくなっちゃうよ!イマナニシテル?」
 
犬(CV:高橋直純)と猿(CV:近藤隆)を連れた桃太郎がガリレオが創造(つく)れなかった際どい原理でTripしていると、雉(CV:鳥海浩輔)が愛の為に生まれ変わって羽ばたいてきました。
「その“きびだんご”…オレに食べられるのはどう ?最高でしょ?」
 
桃太郎たちはオトナを震撼させる、秘密の合体(パンゲア)を起こし、ついに鬼ヶ島IX番街に上陸(あ)がりました。
桃太郎は月夜叉たちに向かって勇気を出して告白(こく)る Turn❤
「オレ達 真夜中救世主(ミッドナイト サルヴァトーレ)!」
「かかってこいよ」
「楽しもうぜ!」
「もう我慢できない」
 
桃太郎達は制服(ハート)脱ぎ捨てて、放課後(ごご)の教室(battlefield)で鬼達を愛のSPLASH 接吻(Kiss)で殺す炎天下。
 
犬は、ナポレオンも真似できない戦術[テクニック]で、鬼のケータイへし折る[Hey She AllNight]。「……さあ、覚悟してください」
猿は、赤黒いギロチンで、鬼の切望(ねがい)をCutting 噛み千切れるほど、喉元にメリ込ませました。「……ブッ壊してやるよ」
雉は、酷く曖昧な言葉ばかり遺して、手を伸ばし 触れた悲鳴(もの)が心地よくて思わず、引き潰した―。「…さようなら」
 
残酷な現実-ナイフ-を受け止めて(ひたむきに) 生き残ろうとした鬼の痕-アザ-痛々しく、桃太郎達はここで死んでもいいと 誓ほどの絶頂感(クライマックス)を得ました。
 
「もっと、すべてを滅ぼすカタストロフィを………ぶつけてくれ」
 
鬼達がシコタマ 貯め込んだものを「……ださせてくれよ?」と、狼に「変身!」で奪っちまわNightした桃太郎達は「本当はもっと…」言いかけたReaction どうせ有耶無耶(ぐちゃぐちゃ)なら 最高のエクスタシー 感じあいました。
 
(そうさ)永遠に……!
WOWOWOWOWOWOWOW...SECRET ZONE
 
 
 
 
 
 
↓に触発されて、「あ、これ岩Dでやったら絶対面白いぞ」って思ったんですが、なんていうか食材の味が濃すぎて料理にならなかった感……。

 

 

Rejet Fes.2014 に行った

Twitterで繋がっている人にチケットを融通してもらい、Rejet Fes.2014 に行ってきました。こんなことでもなければなかなか、面倒な申込みを乗り越えて行こうなどということにはならないので、有り難いことです。

 

GRANRODEOとかアニサマのライブには行ったことがあるけど、いわゆる「声優のイベント」ってのには初めて行くので、作法も分からず、余裕を演出しつつも怯えながら奥へ奥へと進む――。

予想していたこととはいえ、本当に男性客がいないことに面喰らいました。なんか、コミケナンパ勢の延長線上の存在として認識されそうだし…。

フラワースタンドの出来はアニサマあたりより全然上というか、「怨念」としか言えない内容でした。鈴木先生的に言うと「生き霊飛ばしてきますよね」的なやつ。
無茶苦茶笑ったのは、今回のイベントにかすりもしてない月華繚乱ROMANCEのどえらい花束があったこと。いやぁ…僕も月華好きですけどぉ…しかも運営に事前許可取って送ってるっていうあたりが「ルールを破らないキチガイ」って感じで手が付けられない。

 

まあそんなこんなで中に入ります。S席っていうから声優の唾液飛沫どのくらい浴びれる席なんだろうって思ってたらまぁ、中央じゃないし前でもないし、これをSって呼ぶその胆力だけはいっちょまえだなとか。ドSだけにおあとがよろしいようで。

さて、声優が1人1人ポーズを取りながら入場してきました。

多少のばらつきがあるとはいえ、基本的にどのキャストも喝采を浴びながら入ってきますが、体感的に一番嬌声が凄かったのはKENNかなぁ。

前半のコンテンツは、いかにも声優イベント的な寸劇、朗読劇、一言メッセージ的なあれこれ。マイナスエイトが思いっきりフィーチャーされてるのは何となく複雑な気持ちで見届けました。
VANQUISH BROTHERSは持ち前の和物嫌いもあって追っていなかったのですが、ここで聴いてちょっと気になる存在に格上げ。
アリアリは……、直純って危険ドラッグとかやってるのかな? と思いながら見つめる。
剣が君は……、申し訳ないが、和物は苦手なのだ。団子とか酒って単語すらファックオフだ。
バラエティはまぁ……、声優=なんだかんだいって芸能人、っていうのを追体験するパートですかね。嫌いではないけど、好きでもなかったです。

 

運営的な今回の目玉のゼファーは、「マクロスFのサテライト!!」みたいな押され方してるわけですけど、見た感じはどっちかっていうとアクエリオンでした。諸々突っ込み所は出きってるでしょうけど、個人的なのは近未来なのになんかビールが「毎度!三河屋です!」と言わんばかりにケースで流通しててゼファーのメンバーがガッツリそれにフルコミットしてたこと。
ゼファーの世界で楽曲の流通が配信前提になってるのは、現在の技術的趨勢からいえば当然なんだけど、Rejetがやるとまた違った意味合いになってくるよなあとかは思いました。同じイベント内でもMARGINAL#4では溢れかえる「CD」のイメージ映像が使われていて、実際の販売においてもバージョン違いのジャケットをいくつも作って売上を作ってるわけで、そう考えるとゼファーはCD売りありきの業態からの脱却を祈願した、メタ的象徴、企業単位の自己言及でもあるなあとかですね。
そこまでに散々大人の学芸会でゲシュタルト崩壊してるせいで「あ、そういえばこの人達声優か、決してステージで痴態を演じるのが職業なわけでは無かったな」みたいな気持ちにもなりました。
サイリウムを折るタイミングは事前にTwitterで忠告されていたので一応惑わず。曲はかなり聞き込んでいたので力いっぱいサイリ振りつつ、演奏パートで突如PSPのゲームみたいなポリゴンになったことに思わず失笑。
まあハッピーエンドなのは良いんだけど、内容としては2010年代になっても余裕でAKIRA引きずってる世界観、90年代後半の明るいV系のPVをそのまま尺伸ばしたような作りは手放しでは喜べないんじゃないでしょうかね……。なんとなくリジェ作品におけるインプット不足に起因するアウトプット不調みたいなものを感じる。梶君とか、そのまんまカナトだし。小野Dもさ、朗らかに「ぬいぐるみになっちまえよ」とか言って切り裂くなよ。十分猟奇的だよ。

 

コンサートパートは全体に占める割合がせいぜい2~3割。販促色が強く、先行発売されたばかりの剣が君のキャラソンと、ラグポのカタストロフィ、マジフォがOVER THE RAINBOW。
バディスンの禁断ZONEが聴きたくて行った勢としては、キャストも揃ってるのに……という不満は置いておくとして、期待してなかったラグポのカタストロフィに心を撃ち抜かれる。おそらく世界終末時計をモチーフにしたと思われる時針の振り付け、大河も良いけど特に豊永の動きのキレがヤバイ。後出しのくせに先輩格というよくある微妙なポジションを完全に食っていて、正直この瞬間まではマジフォは聴きまくっててもラグポって「あーはいはい居るよね」ぐらいにしか思っていなかったのだが完全に考えが変わりました。正直、これを見る為だけに9000円かけたとしても後悔は無いです!
もうここで満足しすぎたので、その後のマジフォのOVER THE RAINBOWに関してはあまり記憶が無いです。ただ曲がそもそもチャリティソング風なので、こういうのは2時間ライブやって汗だくになったあとに出して来て欲しいよなあ……というのが正直な気持ち。ラーメン食べに行ったら半分食べ終わったあたりで中身が味噌汁になるようなそんな気持ち。

そして最後に酷かったのはノジケンの挨拶でセブヘブに引っ掛けた「僕が『逝っていいよ』と言ったら『逝く』って言ってください」からの集団絶頂(クライマックス)。

今年もスペシャルゲストとかいって岩Dが出てくれば面白かったのですが、そういった事案も無く、つつがなく横浜の夜は更けていったのでした。

駒澤大学の岩Dの講義は理性と狂気が両方そなわり最強に見える

岩Dストーカー芸人として当然看過できないインシデント発生

 

というわけで、岩Dをストーキングしに駒澤大学大学くんだりまで万難を排して馳せ参じたわけであります。自分への備忘録、および似たような関心を持っている人の為にレポートを残しておりますので、講義行けた奴妬ましMAXな奇特な方々もこちらでクールダウンいただければ幸いです。

 

※講義は録音およびスライド等撮影禁止とのことでしたので当然そのガイドラインに従っております。
その上で、講義内容そのものの公開/非公開性については当局からの言及が特に無かったこと、また公式に当局から開催が案内され、かつ教育機関における講義という半公開的なものである前提から、一般的な商習慣等と照らし合わせて非公式見解と思われるもの、非公開情報と推測される会社情報等を割愛した上で再構成しております。下記議事録に関して、当局(自称関係者は除きます)から見て問題がある場合は、公式に使用されているTwitterアカウントでお問い合わせ頂ければ、常識的な範囲で修正、削除等の対応を取らせて頂きたいと思います。

 

■イントロ
ストーキングの基本である45分前集合30分前行動を厳守。厳守です。まあこのルール僕が今考えたんですが、兎角(「ありえないもの」という意味だよ!)、前の講義がはけた12時15分ごろに到着し、当該教室にてスタンバイいたしました。
Rejet社の公式指定に忠実に従い、いかにも大学生風に近辺のローソンで買い求めた巻き寿司などを食んでいるうちに、担当教授の山口治氏が登場し、謎めいたマイクテストを実施。
次々と「それっぽい」聴講者が集まってくる中、なんかオタサーの姫っぽい風貌の人がスライドの準備をしたりしてました。そしてちょっと目を離した隙に『MARGINAL#4』の新曲PVとか流れ出してザワつき始める教室(ルビ:バトルフィールド)。教室は見た感じ400~500席程度あり、6~7割程度埋まっていました。印象としては満席に近い感じです。
しかしなぜオタクは空間内の多数派を占めた瞬間に音楽とか映像を流そうとしますかね。自戒(ルビ:セルフパニッシュメント)。
しかも今何人か手拍子始めようとしてたでしょ!?(まったく乙女ゲー興味無さそうなDQNぽい学生さん含め)

マジフォちゃんに続いて『ALICE=ALICE』の本編プレイ動画が流れて集団耳レイプ状態の中、ダークネイビーのシャツと白いスキニーのオーシャンズ的ファッションで岩Dが颯爽登場。
「初起業…ども…俺みたいな元教師で乙女ゲ会社経営してる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは」みたいな雰囲気でスタートしました(これは僕が心の中でアテたノリであって、本当にこのように発言したわけではありません)。

 

■諸注意

※以下、
スライド内で言及したことについては●色
・口頭での説明やアドリブ?については●色
でパート分け歌詞っぽくあしらい、ダミーヘッドマイクで2人の岩崎大介から囁かれちゃう禁断のシチュエーションドラマをお送り致します。
なお、通常の文字色については不詳僕が小姓のごとく補足するコメンタリートラックとなっておりまして、だいたい「※」で記載しております。
数字まわりに関しては、岩D本人が公開情報から引用したもの以外は意図的に丸めておきましたが、たぶんTwitterとか検索すれば誰かしらがそれっぽいの投下してると思います。
そしてなにより録音撮影禁止であるため、メモと記憶を頼りに再構成しているためあやふやな部分があるかもしれません。補足などいただけるとより最大多数の最大幸福(ルビ:ユートピア)に近付くかと思います。是非是非。

そして内容的に、簡潔にまとめることも考えたのですが、貧乏性なため取ったメモはなるべく全て活用したいということで、このように無駄に一万字超えの長文となりました。

 

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■スライド1
(※会社ロゴと講演のテーマが書かれている)
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・自身の経歴について。教員→ゲーム開発会社(※ヒューネックス)→Rejetを起業。
・「今日の講義、いままでの講義の倍の人数らしいですね。(耳に手を当てながら)。はい、ということで」
※ドヤァ!!
・90分という短い時間ではあるが(※短くない)、何かきっかけになるような講義ができれば嬉しい。
・コールアンドレスポンスというか、応えてもらうのは難しそうなので、挙手のところだけは協力してね?

 「女性向けのゲーム」を知っている人は。
 →4割程度が挙手

 「そもそも女性向けゲームがよく分からない」という人は?
 →5人程度が挙手。
 ※この教室にいて乙女ゲーよく分からない人=興味が無い人=巻き込まれたくない人。そら手も上がりませんわ

 

・乙女ゲーの展開している場所とは。ゲームプラットフォームには3DS、PS系、PC等々ある。

※だから、どのハードで出るかは乙女ゲーの定義には関係がない、という事だと思われる

ウイニングイレブンのようなスポーツゲーム、FF・ドラクエテイルズなどはRPG。では乙女ゲーは?
・ジャンルでいえば「アドベンチャーゲーム」。

 アドベンチャーゲームをやったことがある、駒大の学生のみ挙手してください。
 →20人程度が挙手

 

アドベンチャーゲームとは、『シュタインズゲート』『ロボティクスノーツ』のような、可愛い女の子が沢山出てくる所謂「ギャルゲー」的なもの。
・では乙女乙女ゲーとは?「ギャルゲーの対になるもの」という感じの、イケメンが出て来るゲーム。
・内容としては、説明がしづらいものだが、わかりやすくまとめると「ギャルゲーの対になるもの」で、イケメンが出て来て、恋をして、最終的には結ばれるというゲーム。
※アンタんとこあんま結ばれねーじゃん!(個人の感想です)

※乙女ゲーがギャルゲーと「対になるもの」という説明は興味深かった。勿論、システム的にはその通りなのだが、需要のされ方には相当な違いがあると思う。なにせ実社会における恋愛で男女の役割がまるで違うからだが、そこんとこを相当深く知っているであろう岩Dがアッサリと「対になるものです」というのは、学生相手だからセーブしてるような気もした。

 

・今日、講義にあたって、弊社の事業とかを調べてきた人っていますか?
→5人程度が挙手

 

・乙女ゲー市場は、山口教授が言うように、「ハッキリと把握されていないのに業界としては伸びていると見做されている」

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■スライド2
「Rejetとは?」
A.女性向けコンテンツ制作会社です
(ゲーム、CD、グッズ、イベント)
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・シチュエーションCDなどの音源、グッズ、イベント運営などをやっている。
・「イベント」と言われても何の事か分からないひとも多いと思うが、女性向けコンテンツにおいて絵やシナリオと同等に大事なファクターとして「声優」があり、売上を左右する要素である。
・その声優を招いたイベントを、大きい会社だとパシフィコ横浜を2Days4回まわしとかの規模でやる。
・とにかく、自社は「ゲームだけ作っているわけではない」。

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■スライド3
「五年以内に75%」
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・何の数字でしょうか。答えは「起業後の会社の平均倒産確率」です。
※正直、「俺が今後獲りに行く予定の乙ゲ市場のシェア率です」とか言うのかと思ってワクワクしてた。言ってほしかった。

・今年で6年目に突入。つまり、生き残る25%に入れた。その理由は。90分では全ては語れないが、後ほどで少し言及する。
・ビジネス展開の分析にあたって一番大事な要素とは? フィールドである。

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■スライド4
「なぜ生き残れたか」
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・プロダクトのクオリティだけではない。

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■スライド5
「まわりを取り巻く環境」
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■スライド6
(※家庭用ゲームの市場規模のグラフを提示)
一兆円産業→5000億円割れ
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・かつては家庭用ゲーム市場は7000億円超程度の売上があり、一兆円産業と呼ばれていた。
・(※2007年頃のグラフを指して)DSバブルだった頃なんですよね
※2007年はニンテンドーDSの単年推定販売台数700万台、累計販売台数2100万台で死ぬほどバブりまくってた時期。

・今、家庭用ゲーム市場はシュリンク……というか右肩下がりになっていきます。これは避けられません。女性向けに限らず、全てそう。
・なぜなら少子高齢化で人口が減少しているから。
・ゲーム業界のビジネスとは「ハードウェアありき」
・自分達はカートリッジやROMを販売している立場=プラットフォームとなるハードウェアの売れ行きによって自分達の作ったソフトの売れ行きも左右される立場。
・「ゲームソフトの開発だけやっていたら、ハードウェアの売上に左右される」ことから逃れられない。そのため、Rejetはゲーム開発以外もやっている。
・自分は今38歳でファミコン世代。ゲームとともに育ったから、ゲームは大好きだが、墜ちて行く業界だということを認識しなければならない。現実として縮小している。
・ゲームハードの衰退と同時に起きているのがスマートフォンである。
(※手元のiPad mini Retina スペースグレイを猥(Y)な手付きで撫で回しながら。)


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■スライド7
スマホ市場が5000億円突破)
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・いま、空前のスマホゲームブーム。パズドラが衰退したとして、たとえば次はmixiのモンストの波。
mixiDeNAの株価を一瞬抜いたことも記憶に新しい。
※ここでソシャゲやスマホアプリ展開の話をするかと思いきや。

・パッケージゲームのコスト構造について。パッケージゲームはパッケージの製造費がかかる。さらにハードメーカーへのロイヤリティも発生する。
・それらのうち、パッケージ製造原価が軽減できるだけでも当然スマホ市場に移行するという流れが生まれている。それを認識していただけると面白いかなと思います。
※何がおもろいんや!

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■スライド8
コンテンツ産業三重苦時代!

・家庭用ゲームも売れない
・CDも売れない
・アニメも売れない

ユーザーを取り巻く環境が激変(ルビ:エヴォーション)

「無料で見れる、聞ける時代」
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※きた!きた!まさかのパワポでルビ(文字にルビが振ってあるわけではなく、本当に文字通り、リテラルに「(ルビ:エヴォーション)」と書いてあった。
※更に面白いのは、まさかの脱字である。
※更にひとつの可能性として、岩D専用作詞制作PCでは「げきへん」と打つと「激変(ルビ:エヴォーション)」って変換されたり「煽動」って打つと「キャンペーン」って出たりするのかもしれない

 

・すでに新作ゲームの殆どがヒットタイトルのナンバリングタイトルばかりになってることは気付いている人も多いと思う。
・音楽市場はもっとひどい。収録スタジオがどんどん倒産している。
・例えば有名なドラマー呼んで10万円/1日拘束した場合、通常の売上げではリクープしないでしょう? 
※大学生諸氏は「リクープ」の意味がわかるのかアレですが、ようは利益回収です。


・リクープしないから作れない、作れないからスタジオが干上がる、業界が縮小するという負の連鎖が止まらない。
※「負の」は彼の中では「(ルビ:ネガい)」だったのかもしれない

 

・しかし、ユーザーにとっては便利な時代。便利さからは誰も逃れられない。便利な方向へ向かっていく流れは止められない。つまり、昔のビジネスモデルのままでいては生き残ることはできない。
・アニメはとにかく「板が売れない」
※「板」とはディスクのこと。DVD、BD。パッケージの映像ソフトが売れないということ。

・音楽CDなら一度PCに取り込んでスマホで聞かれてしまうし、アニメや映画の映像ソフトなども、動画アップロードサイトにすぐ上げられてしまう。(※良いか悪いかはさておき、現実に)無料で見れる、聞ける時代になってしまっている。
・構造が変わっている。勿論、海賊版に関しては、会社から問い合わせて削除要請をしているが、イタチごっこにならざるをえない。「昔は違法アップロードが存在せず、ソフトが購入されていたのに」という人もいるが、とにかく現に誰かがアップロードしてしまうということは現実であり、それをどう超えるかだけが問題である。
※現状に対するシビアな認識。対症療法的な対策は当然を行いつつも、根本的にそれを出し抜くような方法でコンテンツを展開するしかないと腹を括っている印象。

・「僕が今、直面しているのはこの現実なんで」
※キメゼリフだ……

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■スライド9
2013年度売上規模イメージ
主要な家庭用女性向けゲームを発売しているゲーム会社

300億以上
コナミ:857億4000万円
コーエー:375億7600万円

 

中間層
アイディアファクトリーなど。

 

10億円規模
10億7000万円
リジェット。
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・女性向けオンリーで10億った。
※ちなみに、据え置きではなくモバイル市場だがボルテージなどは女性向け専業で90億円程度の年商があったり、ブロッコリーうたプリアイランドのサーバートラブルに伴って公表された損失額から逆算された売上げはアプリ1本の一週間の売上げで3億3千万円程度。だから伸び代はまだありそうではある。

参考:

ボルテージIR情報

IR情報|株式会社ボルテージ

 

うたプリ課金島沈没事件

ブロッコリーがブロッコリー栽培と勘違いしてそうな“うたプリ課金島は開発元を変更して3ヶ月で仕上げます”案件から聞こえるデスマーチ : 市況かぶ全力2階建

 

コナミの売上はソーシャル/アプリに移行中。
・女性向けの比率は微々たるもの。つい先日も、ときレスの運営権もコナミコーエーに移った。

・よく勘違いされるが、「女性向けゲームが売れている」わけではない。その他のコンテンツ市場が沈没してるから、相対的に上がってるように見えてるだけ。
・儲かる市場だと思って参入する会社が多いが、大抵は見込み違いですぐに撤退する。
※普通の考えなら市場規模くらい調べてから入ってきそうなものだが、確かに一時期のGREEあたりのサードパーティーにはそういうわけのわからない参入組もいた印象。


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■スライド10
一定の規模の会社で、「女性向け」オンリー勝負している企業は(ほぼ)ない。
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※この時の俺TUEEE感たるや

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■スライド11
・なぜ?
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・女性向けにチャレンジしたプロジェクトが頓挫する理由はいくつかある。

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■スライド12
女性向けであるがゆえの問題

・総タイトル数
・各タイトルの平均売上本数
・海外展開しづらい
・ゲーム開発の組織構造
・流通の営業の問題
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・経営者視点で見た場合、他に売れるタイトルが沢山あるのに乙女ゲー市場でわざわざ勝負する必然性がない。売上構成比率が全体の0.数%。
・しかも女性向けはユーザー数が限られ、売上げの上限が見えている
・恋愛の価値観の違いによる、海外展開のローカライズのしづらさ。それに起因する、海外での売上げを見越して多めの予算を使うといった事ができない状況。
・「たとえばインドとかでRejetのゲーム流通させたら僕とか逮捕されちゃう」会場爆笑。
・ゲーム業界特有の、男性中心社会。特に体力面。また、見合った待遇が伴うかどうか。
・流通会社にとっても同様に、ユーザー数が限られ、売上げの上限が見えている女性向けコンテンツの為にリソースを割くことができない。結果、営業攻勢が弱くなる。
※冷静に状況分析して絶望感漂わせた上でちゃぶ台返してそんな殺伐とした業界に俺が革命起こしてやるよ的な二段オチを持ってくるところとかまさに我らリジェカスが望んでいた答え。

※「好きだからやっている」と宣命したあとに「好き」を成就させる為に外部の仕組み(※岩脳内ではアーキテクチャー)と戦(※岩脳内ではバトル)ってるんだ的な、今宵「好き」の定義は書き換わる。俺の戦術で。的な、感情と計算の二正面作戦。熱狂的な偏愛を具現化するための、冷徹な戦略。

・作詞をしている理由。頑張っているディレクター達の業務の全てに関わることはできないからせめて作詞という部分で一緒に取り組んでいる
※言っていることは分かるが全く意味不明

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■スライド13
日本の乙女ゲーム市場はニッチ市場
ガラパゴス的な成長を遂げた市場

※ニッチ市場(ニッチ市場、ニッチマーケット)とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ(需要・客層)を持つ規模の小さい市場のこと
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・ニッチ市場だからといって、需要サイドが甘いわけではない。「売れてる声優さん使えば売れるんでしょ?」と思って入ってきて一瞬で退場するメーカーもいる。
・すぐに撤退する理由は「彼らにとっては作りたいモノじゃないから」。

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■スライド14
その中でも

Rejet
にしかできない事をしよう。
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・今日の講義はグローバルメディアスタディーズ学部の授業ということで、メディア展開例を挙げてみます。進化論を提唱したダーウィンが言うには、「生き残る者は強者ではなく、変化に対応した者」。Rejetも常に変化を志向している。

・変化、そして問題解決のためには周囲を知らなければならない。そう考えて取り組んできた一例を挙げてみる。

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スライド15
①様々な異業種とのコラボ戦略
タワーレコードカラオケの鉄人、Smart など
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※図版付きでした。

タワレコカラ鉄、の中にもリジェット作品のユーザーがいた。
タワレコの担当スタッフがSRXの初期三部作の音楽(※『SUNSHINE RED DISC「愛のZERO距離射撃-love shooooot!!!!!-」』『STAR YELLOW DISC「無敵のTwinkle★Star」』『LOVELESS BLUE DISC「彷徨えるヒステリックラヴァー」』)が大好きだったとのこと

カラ鉄の中にもファンがいた。「作品のね?」
※「あ、俺のファンってことじゃなくてね?」というお茶目(Charm)感あれば最高である。真相は不明。

・こういったキャンペーンを、単発ではなく「渋谷ジャック」の一環として実施。販促は「点と点を線にする」ことが重要。
※これは宣伝広告の理論として非常に王道(ただし忠実に実施できている例もまた少ない)。たとえばAppStoreやGooglePlayで広告費を使ってランキング順位を上げる場合、事前にテレビCM等で認知させておき、その後にランキングで実物を目にしたユーザーがテレビCMを思い出してダウンロードするような流れを作るのが一般的。

※ただ、これって相当なキチガイじゃないと怖くてできないことなわけです。死ぬまで倍プッシュみたいなもので、ソフトバンクブシロードのような扁桃体がクラッシュしてる超能力Z戦士達にのみ許される技。

 

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■スライド16
②音の差別化
業界平均30万円
Rejet制作費200万
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・多額の費用をかけており、音楽CD単体で考えた場合、絶対にリクープしない。
・これは、自分が作詞をしていて音楽が好きなだから、ということもあるが、それよりも一分半の中でどのように伝えるか。
・プロモーションの過程において、「文字は読まれない」と考えている。音楽が良くて何度も聞いてもらえるなら、紙に刷ってバラまくよりも効果的。費用対効果がある。効果があるからやるっている。

※音の宣伝効果があるというのはその通りで、押井守なんかも費用の使途として音響の費用対効果の高さを指摘しているが、とはいえ数字で見た場合の極端な印象は免れ得ない(全てが全てこの費用感でやってるわけでは無いと思うが)。
※この費用対効果の見解について、自分の詞が乗っかるプロダクトに資金投下しまくってる疚しさや後ろめたさが一切ないのかといえば、本気でそう思っててもおかしくないが、疚しさと実際の計算合理性とが渾然となって降り注ぐ葛藤の雨、みたいなパターンが信者的には一番美味しいわけよ。

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■スライド17
③自社店舗運営
パルコ渋谷店内で常に売り上げ上位トップ5。
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(※ミネラルウォーターを持ちながらウロウロし始める。)

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■スライド18
回収できる独自の土壌(ルビ:フィールド)作りをする
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※出、出~!! またしてもルビ奴~!
※このあたりでそのうち自らのライフヒストリーを曲にでもするんじゃないかとすら思えはじめる。

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■スライド19
デベロッパーの下積み時代で感じた事
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・4~5年の間、ガムシャラに作品作りを続けた。しかし、前述(※スライド12と思われる)のような構造までは変えられなかった。

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■スライド20
「幾ら、良い作品を作っても変わらない」=会社を創ろう。
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・会社を作り、仕組みを整える。
※会社のブランディングもその中に位置付けられるだろうし、更に言えばD本人の出たがりな性質と、会社および会社トップのブランディングという広報機能に幸福な一致があったと思う。

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■スライド21
「売れなければ、次が作れない」を変える。
=仕組みを創ろう。
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・売れないと会社が潰れてしまい、次回作が作れない。しかし「売れない」とはどういうことか。必ずしも、ゲーム自体の魅力やクオリティで全てが決まるわけではない。

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■スライド22
(※卸価格と流通マージンについての記載)
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・これが、売れないということの本質。前述の通り、流通会社にとって多くの営業人員を割ける商材ではないことは分かっている。「本気で作ってるんだよ。なのに何で『女性向け』ってだけで本気で売らないんだ。ふざけるな」(ドス声)「……と、言ったところで世界は変わらなかった」(おだやか)

※はいここで小芝居頂きました!!さすが元教員と言いますか何と言いますか。自分の人生ひとつこのぐらいドラマティック形容できなきゃゲームなんか作れないですよね。

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■スライド23
今までのやり方に、こだわってたら(※スライド3でいう)75%の中に入っていただろう。
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・社内は今50人程度の体制。社内に「事業推進部」と「開発部」を置いていて、事業推進部の仕事はゲーム外部にある、販売やプロモーションのための「仕組み」をどんどん変えること。
※僕の脳内:事業推進部「売ってやるよ!拡張(ひろ)げてやるよ!」

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■スライド24
Rejetにしか出来ない事をしよう。
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■スライド25
経営者としては、良い作品を産み出すのがゴールではない。
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・良い作品があるのは前提で、その外側をどう整えていくか。
※家庭用ハードの市場が縮小しているのに家庭用ハードで出し続ける理由として、最後まで残ってハードウェアメーカーからの寵愛を受け、ロイヤリティが軽減される可能性なども見据えているかもしれない。

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■スライド26
=業界の環境・待遇が悪い
=定着しない
=業界が成長しない
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・この状態を改善することが経営者の仕事。
※この種の「クールな現状認識+底に溜まった危機感=イノベーションで突き抜けます! 本当はちゃんと頭使えば関わった誰もがハッピーになれる方法があるんです!」的な、ある種の主知主義テクノユートピア思想+根性論の野合ってそれ自体ベンチャー企業あるあるだし、これまでも構築済みデッキとして大量生産されてきた側面はある。それはまずもって、近年の企業インフラのIT移行による利便性向上や、その施工を請け負うような会社の多くが高収益体制を築いていることによって一定の説得力を帯びてきたからだと言えそう。

 

※その中で「好待遇のほうが実は合理的だからそうやってます!利益を追求したらホワイトになっちゃったんですよ~」っていうのもパターンとしてはよくあって、昨今のNPOブームや社会起業家ブームみたいなものにも見られる、「べき論じゃなくて経済合理性で自然に物事を解決しましょう」的な、ある種の力学重視の考え方と通底するものがある。完全な余談だが、「会社は学校じゃねぇんだよ」の人はそんな流れに全く無意味に逆らっているため、人々に得体の知れないモゾっとした気持ちを起こさせるのだろう。

参考:

会社は学校じゃねぇんだよ|松村淳平のブログ。


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■スライド27
(※社内の年収モデルの記載)
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・ちゃんと利益が出たなら社員に還元したい。高級車に乗っているゲーム会社社長などもよく見るが、自分は可能な限り社員に支払いたいと思っている。
志倉千代丸のことしか思い浮かばなかったが、仲良さそうだしあてこすっているわけでもなさそう。

※このへんで講義時間が終わってしまい、駆け足に。

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■スライド28
女性向けコンテンツの制作環境を整える。
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■スライド29
外部才能の発掘
イラスト、音楽・シナリオetc...
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■スライド30
売れない、目指さない、あつまらない

関連する業種の、素晴らしい才能と協働(※スライド一瞬で流れてしまったため不確定)
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・ゲームが売れないから、それを職業として目指す人もおらず、人材が集まらない……というような業界の現状を変えていく。

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■スライド31
(※リジェロゴ)
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■スライド32
利益は作品を創る為の単なる手段に過ぎない

でも手段がなければ色々な事が、できません
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■スライド33
リジェットの存在意義はお客様に笑顔になってもらうこと。
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・これは胸を大にして言いたいこと。
※「胸を大に」!!肝心なとこまちがっとる!!無いπはアレとしても!!

 

※こっから質疑応答。だが挙手した人の声が全然マイクに入らない。
聞こえてない岩D、若干狼狽

教授が聞き出して補足。
Q「キャラクターづくりで苦労してることはありますか?」
岩「乙女ゲーの人気キャラクターには一定のテンプレがある。俺様とかツンデレとかヤンデレとか王子様系とか。通常はこういう要素を組み合わせて個性を出しているが、その枠内にばかり収まるわけにも行かず、その部分に一番苦労している。

※講義後に質疑のための行列が長々と出来た。同教室では次のコマの授業は無いらしく、延々と個別の質疑応答およびサイン会が続く。なお、最初に並んだ女性は何かプレゼントっぽいの蜜してた。

※ていうかな!俺もスタクラの会員証にサイン貰いたかったんだよ!

 

■全体感想:
※わりとアドリブで思考しながら喋っているようで、逡巡するような、話題が循環論法に陥りかかっているような箇所も無いこともなかったが、その場合は可能な限り原型を損なわないように整形した。

※自社の待遇面の話などもあり、かなり頑張っている印象だったが、とはいえ世の中には「タイムカードを切ってから残業」のような禁術もあったり、トップと中間管理層で考えてることが全然違ってて、見えない形で制度が裏切られてるとかよくある話で、そこは若干ディスカウントして考えるべきであろう。

※単純な感想として、大学生向けとしては非常に良い教材だったと思う。以前は教員だったということもあり、人にものを教えるのは好きそうな印象。しかし「僕は教えないんです。本人が気付くまでいつまででも待つ」とか言い出しても全く違和感ないが。

※読み返してみて、僕の文章は所々茶化すトーンになっている部分があり、人によっては不愉快に感じることもあるかもしれませんが、僕でも2chのリジェアンチスレとか見ると心が痛む程度には1ファンでありまして、このように白く歪んだ想いのゲリラ豪雨が僕の愛(I)し方ですんで、仕方ない。これは変えられないわけです。この現実をまず認識して!世界を変えろよ!

まったくもって涙が止まりません。岩D、カッコイイ。
せ~の!Rejet、サイコー!


※ところで愛=革命(アイハデッドオアラブ)はいつになったらカラオケに入るんだよ怒

 


それにしても、岩Dを召喚した慧眼の山口教授。

駒大HP:
http://gyoseki-komazawa-u.jp/kzuhp/KgApp?kyoinId=ymisgegyggk

本人HP:
http://www.h-yamaguchi.net/

著書の一覧を見る限りリアルオプションに造詣が深い方のようです。

リアルオプションとは、適当私が適当にググったところによると、<プロジェクトの価値を算定する際に、「スモールスタートができたり、途中で方向性を変更できるプロジェクトって、それができないプロジェクトよりは爆死の可能性が低いよね」ということで、少し高く評価できるよね>という理論です。

参考:
http://www.weblio.jp/content/%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

といたしますと、シチュエーションCDで様子を見てから、イベントやゲームに移すかどうかを検討するリジェットの基本スキームは、いささかおしゃれな物言いで申しますと、リアルオプションに全振りした事業マネジメント方針であると言えますね。
岩Dのいう「仕組み」の一つが、リアルオプション理論に基づいた柔軟性のあるプロジェクトマネジメントなんですなあ。

そのせいでヴァンキチがゲーム化しないんでしょうけど…。

 

 

以上。お疲れさまでした。