ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

ハラスメントフラグ! そういうのもあるのか ~その……で、できるの……? SAOの中で……?

 記事を読んでいただいたかたから、「SAOちゃんと読めやボケ」というつっこみをいただきました。いやぁ、反応があるって本当にいいもんですね。すみません。あらかじめ当該記事でも断ってはいるのですが、無論ちゃんと読んでいませんでしたので、特に食事関係に目を光らせて、SAO1巻と2巻だけですが今度はわりとしっかり読んでみました。ちなみにAWのほうは記事を書いていた時点では5巻のラストジグソー戦のあたりを読んでいて、書き終わってから最後まで読みました。その、やっぱりクロム(ネタバレ)、でも最後の師匠が××で×××のところは本当に泣きそうになりました。いやあ。本当にギミックの使い方がうまいなあ、この人。冨樫義博にも言えることなのですが、ゲーマーがゲームっぽい話を作って、それがいい方向に作用している作品というのは本当に楽しいものであります。

 それでまあ『SAO』の食事に関する表現をざっと見ていくと、冒頭でヒゲバンダナが言う「ピザとジンジャーエール」(ただしこれだけゲーム外に置いてきてしまった物の話)、70ページの「ゲーム内で仮想のパンだの肉だのを詰め込むと空腹感は消滅し、満腹感が発生する。このへんのメカニズムはもう脳の専門家にでも聞いてもらうしかない」「蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない」あたりが最初ですね。「蛇足だがゲーム内で排泄は必要ない」のあたりがもう、コキュートスでお清めパターンな感じがし始めてますが、それは後に置いときましょう。

 長々とした説明は、まずP81で、ラグー・ラビットの肉に絡んでなされる説明「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよいSAO内で、普段口にできるものと言えば欧州田舎風――なのか知らないが素朴なパンだのスープばかりで、ごく少ない例外が、料理スキルを選択している職人プレイヤーが少しでも幅を広げようと工夫して作る食い物なのだが、職人の数が圧倒的に少ない上に高級な食材アイテムが意外に入手しにくいという事情もあっておいそれと食べられるものでもなく、ほとんど全てのプレイヤーは慢性的に美味に飢えているという状態なのだ。もちろん俺も同様で、行きつけのNPCレストランで食うスープと黒パンの食事も決して嫌いではないが、やはりたまには軟らかく汁気タップリの肉を思いっきり頬張ってみたいという欲求に苛まれる」あたりかと思います。ここにちょっと違和感ありますよね。現実では味わえない、ギルドを組んでモンスターと戦うという体験をする為に作られた(まあ「本当の目的」とやらは別なんでしょうけど、少なくとも9割がたのプレイヤーはそういう体験を求めてやって来ているはず)はずのSAO内で、しかし「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよい」わけは無いだろうと思われますから、やや端折られていますが、これはデスゲーム化によってゲーム観が変質し、生存のためにリスクを最小化したプレイングを強要されているプレイヤー層にとってはそうなった、というような話なのだとは思います。まあとりあえず進みましょう。

 次はP83の「路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで、妙な匂いのする茶を啜っている時だけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい」という所なのですが、ただここは「《猥雑》の一言に尽きる」というアルゲードの街を説明する描写の一部であることも踏まえると、ここでいう「茶」は食品というよりは煙草のような習慣性嗜好品で一服してる的な位置付けなのではないか(あとひょっとして本当は水煙草か何かのシーンを描こうとしたが編集部的にNGだったのではないか)とも思われるため、少し留保が要りそうです。

 そして調理が初めて登場するのがP102ですね。読み進めながら僕にだけ緊張感漂う一瞬でしたが、ヤターーー!! ハイパー安易キターー!! 美少女剣士アスナたんの「調理スキル」でほかほかごはんが出てくる、『ドラえもん』でいったら「植物改造エキス(I)」みたいな世界観。あーこれやっぱりお風呂入らなくてもコキュートスでお清めパターンだわーマジ安易だわー。むしろ味とか内容とか詳細に描写すればするほど安易になっていくわー。

 これは元の論考の時点から同様ですが、川原てんてーが安易だというのではなく、むしろAWにおいて「肉体の檻」という「現実」を描き切る川原てんてーですら「ゲーム内<ゲーム外<小説外」という2重疎隔というか、メタ的表現、それもたとえば『生徒会の一存』のような「メタ的表現あるいはメタであること」(=構造論的なメタ、批評的なメタ)を目的とせずに、あくまで劇中劇であるものの存在(=ストーリー上のメタ)を表現しようとする際には、「ゲーム内」と「ゲーム外」の距離を意識的にリマインドさせない限り、現実世界(小説外の、という意味での現実世界)の読者は、結果的には「小説内の人物(ナーヴギアを被って病院で糞尿垂れ流してる人達)」という段をすっ飛ばしてゲーム内のキャラクターと同化してしまい、結果「安易なファンタジー」を直接的に提供しているのとほとんど変わらなくなってしまう、ということが言いたいのであります。
 ただ、元の文の書き方が悪く、というかやや論点がズレていた部分がありまして、僕の書き方だと「食品描写の濃淡と量が、作品内における食事全般がもつ象徴性や重要性と連動している」というような意味に取れてしまうのですが(というか書き始めた時点では半ばそういうつもりだったのですが)、実際には描写そのものの量や執拗さというよりも、単に食品と摂食行為そのもののストーリー内での位置付けがもたらす差異についての分析、であることをもっとしっかりとした中心軸にするべきでありました。反省。

 さて続けますと、次がP150、「丸いパンをスライスして焼いた肉や野菜をふんだんに挟み込んだサンドイッチだった。胡椒に似た香ばしい匂いが漂う」。胡椒に「似た」何かということですね。続けて「アインクラッドのNECレストランで供される、どこか異国風の料理に外見は似ているが味付けが違う。ちょっと濃い目の甘辛さは、紛うことなく二年前まで頻繁に食べていた日本風ファーストフードと同系統の味だ。あまりの懐かしさに思わず涙がこぼれそうになりながら、俺は大きなサンドイッチを夢中で頬張りつづけた」「一年の修行と研鑽の成果よ。アインクラッドで手に入る約百種類の調味料が味覚再生エンジンに与えるパラメータをぜ~~~んぶ解析して、これを作ったの」ときた。まあそこはいいです。アスナさんは美人ですし、われわれキモオタの妄想通り料理が好きでかつ上手くて家庭的。一応は「一年の修行と研鑽」を積んでいらっしゃいますし、そもそもが「美人の女性プレイヤー」というある種の特異点ですから、問題にするならむしろ設定上のその存在自体であって、食品に固有の問題というわけではありません。
 それよりも問題は「どこか異国風の料理」のほうであり、「日本風ファーストフードと同系統の味」でこそ無いにせよ、日本人ばかり1万人も集めてきて(まあもう2000人くらい死んだけど)ゲームに閉じ込めておき、「食べることのみがほとんど唯一の快楽と言ってよい」環境でさしたる不満も出ないというのはちょっとヘンなのではないでしょうか。みんな他に食べるものがないから却って「どこか異国風」の料理にも満足している? どうでしょうかね。こればっかりは、本当のところどうなのかは本当に8000人集めてどっかに閉じ込めてパクチーだけ与えて飢えたパンダとか放ってみないとわからないところではありますが、ただ、たとえば前のほうに出てきた黒パンに限って言えば、現実の黒パンって、そんなに美味しいものじゃないですよね。少なくとも実際に僕が食べたことあるのは、これモック? って疑うくらい硬いやつと、硬くは無いけど思い出すだけで頬が痛くなるくらい酸っぱいやつでした。まあどっかにちゃんと美味しい黒パンもあるんでしょうけど、それって現代の日本人が食べても美味しいようにある程度品種改良された黒麦やライ麦と酵母と味設計のもとで作られてる筈で、おそらく忠実に中世ヨーロッパの原料品種と技術で作ったら、現代の日本人にとってはさらにクソみたいなパンが出来ちゃうんじゃないかなーと思うんですよね。それが、いかにそれしか食べ物が無いという事情もあるとはいえ、そして食べられなくはない程度には毎回腹も減っているとはいえ、普通に受容されてるのってなんか、へんだなーと思うんですよ(ちなみに、アニメ版ではこのへんの構成が大きく変わっていて、2話で語られるゲーム初期の話でアスナがパンを不味そうに食う、という場面が追加されており、ある程度納得の行くものになっています)。
 たとえば僕が今、なんか時空の裂け目的な何かで突然中世ヨーロッパに飛ばされて、「アンタの食事スープと黒パンだから一生!」って言われたら、悪くないぜとかどうとか考える以前に、おんおん泣くと思うんですよね。山崎パンとかと比べて。こんな岩みたいなパンなら山パン高井戸工場で鳥肌実が作ったパンのほうがまだマシだって。オヤシロさまごめんなさい今度からちゃんと春のパン祭りも祭りますから、お願いだから山パン食わせてくださいって思うと思うんです。だって、僕が小学生の頃なんか、給食のパンとかメッチャ残されてましたよ。マズすぎて(1990年代の福井市の給食は本当にマズかったのです)。日本人の日本人による日本人のためのパン、しかも一応何種類かあって毎回同じにならないようにしてあって、給食という強制イベントで供されてすら、残飯にシュウウーー!されてたわけです。これ、条件は考えようによってはアインクラッドよりシビア(人間にとって)で、不可避のイベントであり、逆にパンにとっては相当甘い条件なわけです。それでも残された福井のパンたち。誰からも必要とされない存在。で、キリトさん達がうましうまし言って食ってるってことは、少なくとも福井給食と比べたらSAOの黒パンのほうが旨いというわけですよね。是非、どこぞのパセラなどで期間限定SAOキッチンとか開いていただいて、そのうまい黒パンとやらを食べさせてもらいたいものでありますが、とにかくSAOの世界というのは、シビアだシビアだと言いながら、こと食べ物の味に関してはイージーモードであり、我々の味覚の期待を大きく裏切るようなことはないわけです。
 くどいかもしれませんが、現実には日本の商社マンなんかは1年も海外勤務をすると味噌汁が食べたくて涙が出たりすることもあると聞きます。少なくとも食べ物に関しては、アインクラッドよりもグローバルサラリーマンのほうが辛い、というわけです。追い打ちのように、「こっちがグログワの種とシュブルの葉とカリム水」と言いながら混ぜて口に含んだらマヨネーズの味、なんてシーンもありまして、マヨネーズってのもけっこう象徴的だと思います。ご存じのようにマヨネーズって味の支配力が強くて、何にかけてもマヨ味になりますよね。だからマヨラーとかいるわけですけど、あの子供味覚的な、最大公約数的な味という、まさに安易な食事の象徴とも言えるわけです。
 次がP171「緑茶にレモンジュースを混ぜたような味」の回復薬。ああ、回復薬っぽい感じしますねえ。苦酸っぱい。効きそうだ。
 P184には、食事シーンではありませんが食品に関する言及として「さっさと用を済ませて、なんか暖かいものでも食いに行こうぜ」「もう。君は食べることばっかり」というやりとりがあります。P191が「火噴きコーン十コル! 十コル!」「黒エール冷えてるよ!」の「あやしげな食い物」。「あやしげ」と言いながらも、これは明らかに現実のスタジアムにいるポップコーンとバドワイザーをモチーフにしていると思われますし、ここでも食品だけでなく総合的な意味で我々の生活感覚をそうそう裏切らない営みが行われています。また聞きかじりの話で恐縮ですが、たとえばインドではチャイなんかの飲み物は素焼きのカップで供され、カップは1回ごとに使い捨てられます。素焼きとはいえ、焼き物のカップがパリーンって捨てられてるわけで、はじめて見た日本人は驚愕すると聞きます。アインクラッドの「あやしげな食い物」と比べたとき、僕には素焼きカップ入りのチャイのほうが、我々の感覚から乖離しているように思えます。
 さて、幾許かの「シリアス」なシーンを挟み、僕が最も問題にしているP238「牛型モンスターの肉にアスナ・スペシャルの醤油ソースをかけたステーキ」が登場です。「食材アイテムのランクとしてはそれほど高級なものではないが、何せ味付けが素晴らしい」。前述の通り、アスナは「数少ない女性の美人プレイヤー」という、特異点というか統計における外れ値みたいなもんなので、「醤油ソース」がアスナの手によって供されているということを考えれば確かにある程度の整合性は取れます。ただ、そうは言ってもこれまであげつらってきた、アインクラッドにおける「異世界なのに日本的でイージーな食生活」という流れをなぞるものであることに変わりはありません。

 続く「食後のお茶をソファに向かい合わせで座りながらゆっくりと飲むあいだ、アスナはやけに饒舌だった。好きな武器のブランドや、どこそこの層に観光スポットがあるという話を矢継ぎ早に喋りつづける」は、現実のイチャラブカップル的生活のままの会話が単語レベルでだけファンタジーに置き換わっているという、我々の「(当然そうあるべきという)期待を裏切らない」設定を一文で総括しているような箇所です。ちなみにこのあとが、話題の夜の営みコース。ゴクリ。なんだか乙ゲディレクター時代を思い出しました。なんかね、乙女ゲーのネタとして、新撰組とか戦国武将とかってすごく人気あるんですけど、乙ゲで描写される彼らの倫理観とか衛生観って、完全に現代人のそれなわけですよ。指摘するのもヤボだけど。あれと実によく似ています。ラノベのプロパー読者って総体的にはマッチョな思考パターンをしていて、乙女ゲーなんて女どもが追いかける軽薄なイケメン集団の茶番劇だと思っていらっしゃるのではないかと思いますが、その「ガワだけファンタジー」「ガワだけ時代劇」感においては、いかに気宇壮大なサーガを描いていようと、ラノベ的世界と乙女ゲー的世界は完全に機能的等価物であります。

 話を戻しまして、P257~258「ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物に調理し、食卓に並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に」。また醤油。醤油は大事ですよね。日本人に生まれてしまうと、醤油無しで1週間持たせることは不可能に等しい。だけど、くどいようだけど、負けたらガチで死ぬとか言ってる世界に醤油味が存在して「わぁいきりとしょうゆだいすき」じゃあ困るんですよ。いや困りはしないけど、いろいろ残るわけですよ。しこりが。
 ウサギの肉は、むしろ苦労してとったけどこの時期のは脂が抜け切っててパサパサしてた……みたいなほうがより「シビア」ではあったと思います。まあそこは三人称で書いても厳密には一人称的視点が必ず紛れ込む、小説という形式にはそもそも難しい表現ではあります。ムスリムにとってしか美味くない食物もムスリム視点で描けばうまし以外の表現には基本なりませんから、それはいた仕方ないところではあります。
 SAOでは、アスナに関して先述したように、リアル美人の女性プレイヤーがいかに希少か、という点で、自然主義的な描写を採用し、安易さへの一定の歯止め(美少女プレイヤーがいっぱいな世界というのは、これは食べ物に置き換えていえば、何を食ってもとびきりうまい世界ということだからです)をかけているのですが、その希少な美人が主人公になびくという点で、最終的にはむしろ安易さを増大させてしまっています。まあ美少女が主人公になびくのはラノベ様式美であって、基本的に川原てんてーにはその責任は無いのですが、ただAWにおいてチビデブ汗っかきでしかもイジメられているという異形の主人公を造形された川原てんてーが、SAOにおいてはイケメンで最強の主人公を恥ずかしげもなく出してくるあたりは、単純に執筆時期による自作相対化の進み具合の違いというような面もありそうではあります。

 無論、設定上は、当初のSAOはお気楽な「世界初、中に入れるMMORPG」であり、そこで営まれるはずだった、お気楽な、いいとこだけ取ってきたガワだけファンタジー的生活が持続していながら、一方で生命の危機だけが迫っているというアンバランスでグロテスクな設定に意味があるのだとは思います。これはこれで確かに大変面白い思考実験だとは思います。しかし僕のような訓練された豚ラノベ者達(そして豚ラノベ者にはそもそも高練度の精鋭しかいない)は、「負けたら死ぬというリスクを負っている、現実(小説内)世界の病院に置かれたプレイヤー達(の体)」ではなく、あくまで、<小説内のゲーム内のプレイヤーキャラクター>に同化しているわけです。そこでは「負ければ死ぬ」という設定は完全に後景に退いています。勿論、小説なんだから、すべて絵空事なんだから、べつに電撃文庫読んだって死ぬわけではないのは当たり前なわけですよ。しかし、前項で述べてきたようなことは、ようは物語内部に没入している視点からですら、「負けたら死ぬ」という設定をなかば「……という設定のRPG」止まりに押し留めているように思えます。この視点は作中でもある程度は触れられており、「ゲーム内で死んでも、それで本当に現実の肉体までが殺されているという証拠は無い」と主張するプレイヤーの一派というものも出てきますし、主人公達も何度かその可能性を考えたりはしますが、しかし大勢としてはやはり、「ゲーム内で死んだら本当に死ぬ」ということが、だいたいのプレイヤーには、かなりの確度で信奉されている見解ということになっています。
 しかしそれでも、やべーマジ死ぬ死ぬとか言いながら、お子様味覚のままでも絶対うまいであろううさぎのシチューだの醤油味の牛肉だのを食ったり、アスナたんに人差し指で背筋をつーと撫でて「こんなこともできなくなっちゃったよなぁー」とか言ったりするセクハラを楽しみつつ夜な夜なバーチャル中出しセックス。これですよ。どうせ普通にスプリングベッドの寝心地が、いやそれ以上の快適な寝心地がするであろう寝床で。それのどこが異世界かと。めっちゃこっちの世界じゃねえかと。異化してないぞと。最高じゃないですか。最高だと、おもいますよ。だが残る。しこりが。
 それはそうと拙者、俄然夏コミの目標が屹立いたし申した。

 というわけで、適当にしか読まずに分かったような顔で出て行く緊張感でしたが、大学のころとあるカント研究者に「よく知らないことでも『知らない』って開き直った瞬間に全部終わるから、第一には少しは知ったような顔をして、そこから必死に追いつくのだ」と言われ、「なにこの詐欺師かっこいい」と思った経験が生きたな……。


 そういえば、半年くらい前に文芸批評家の坂上秋成主催?で十文字青先生を囲む座談会、的なイベントがあったとき、十文字青作品や、竹宮ゆゆこ作品のような、「シリアス」な作品(ラノベプロパー寄りの読者にとって、時として「ラノベのお約束」をいともたやすく踏みにじり、実存的不安を与えてくる作品)群にSAOが連ねられていて、僕はSAOをちゃんと読んでいないにもかかわらず、生意気にも、そこにちょっと違和感を覚えて、次のような趣旨の発言をしたのでした。「しばしば『お約束』や『様式美』を踏みにじってくる竹宮ゆゆこ作品や十文字青作品の持つ緊張感と比べると、SAOにおける『負け=死、というデスゲーム』の要素は、所詮は<すんでの所で勝ち続けてSAO内でも数少ない美少女を嫁にしてしまう>という筋書きが予め織り込み済みであることを念頭に置けば、むしろ読者の俺tueeee的自意識を補強する役割しか持たないのではないではないか。したがって、ゆゆぽや青先生の、ある意味『意識の高い』作品と比べると、SAOは、少なくとも今回のような見地からの分類においては、違った属に振り分けられるのではないか」。この見解は今に至っても基本的に変わっておらず、それをより詳細に述べたのが今回の記事ということになります。まあだからといってSAOがゆゆぽ作品や青作品と比して劣るというわけではまったく無く、そもそも「意識の高さ」それ自体が良い面とクソな面の両方を供えた二面的な性質でもあります。
 ただ、セカイ系のストーリーの背後にある「セカイの滅亡」という大局がいささかも「シリアスさ」を約束しないのと同じで、それに比べてたとえば『とらドラ!』の亜美ちゃんは、まあ最終的には「改心」してしまうものの、ある時点まではいわゆる「糞スイーツ女」であり、われわれのようなキモオタが話しかけても普通に無視するかもしくは「ハァ?」しか言わないような、「他者」でありましたし、「どうせ最後のほうでは『改心』するさ」という楽観すら抱かせないような、読者にとって「他者」あるいは「外部」としての機能を持っていたように思うわけです。
 それと並べてみたときに、アスナ死亡シーンでお約束通りアスナが生きている(あるいは生き返る)ことを、期待と同時に確信しない読者はいないわけです。観光地的な異世界しか描いてこなかったSAOの中で、ヒロインは決して死なないか、万に一つでも本当に死んだ的な展開が一度は開陳されたとしてもどうせデータストレージから再構築されてうんぬん的な形で復活するよな、というような期待を読者は持ちます。それが端的に表れている箇所というのは結構あると思いますが、たとえば2巻P181では、死んだプレイヤーの幽霊をネタにアスナをからかったりするキリトさんが見られます。本人も「不謹慎な冗談だったな」と言っていますが、言うまでも無くこのセリフ自体がさらに「不謹慎」なわけで、斉藤環的な指摘ではこういうメタ視点での「ネタ」的な見方をしつつ、しかし同時にストーリー自体に「ベタ」にハマるというような矛盾した態度を矛盾したまま温存する能力こそが現代的オタクに固有のスキル「多重見当識」なのだということになりますので、ぼくがあげつらっているのは<多重見当識の作用の仕方>である、とも言えるかもしれません。
 そりゃアスナ可愛いし生きてたほうがいいと僕も思いますよ。いいじゃない、現実逃避なんだから色々ご都合主義でも。はい、いいんですよ。ただ、後書きなんかからもわかるとおり、言ってみれば人間にとってのゲームと暇つぶしについての思弁小説でもある本作において、この種の<安易さ>が残存する意味、というのはもう少し追求されていいんじゃないかと思います。川原てんてーはそのへん非常に禁欲的というか求道者的な作家で、「ゲームの中に入りたい!」というような身も蓋もない欲望に対して、それを忠実に描きつつも常に慎重に倫理のカウンターウエイトを乗せてきた人だと僕は思うわけです。
 たとえ息抜きの為の娯楽であっても、殺すの殺されるの言いつつ美少女と戯れる、というような逸脱的享楽を、何の留保もなく受容するということは倫理的に許されないわけです。許されないというか、楽しみつつも「ああ俺いまゲスいなぁ」という感覚をどこかに保存しておくことが必要だと思うわけです。最強プレイヤーとしてリスペクトされながら、ゲーム内で1、2を争う美少女を嫁にしてメシを作らせ、見せびらかしながら夜な夜な犯したいという願望は、結果論としてはアスナはキリトにぞっこんなわけですけれども、実際に読者はSAOの出版にはるかに先行してすでに抱いている一般的な欲望の可能態の、一つの現実態なわけです。これを正しくゲス視し続ける視点を持てない、持てなくてもいい、ということになりますと、同じ理屈で、たとえばレイプ描写だとか拷問描写だとかを好んでエロ漫画を読む人(僕でーす)は現実にレイプを指向し何の躊躇も持っていない、という大谷昭宏的なキチガイ理論こそが正しかったのだという倒錯的な結論を招いてしまうわけです。


 ちなみに短編集であるところのSAO2巻では、以下の箇所に食品関連描写が観られました。

P35、チーズケーキ
P41、酒のようなもの(「ルビー・イコール」)
P106、茶
P108、ホットドッグ(のようなもの)
P126、香草と干し肉のスープ
P133、ハーブティー
P143、ホットドッグ(のようなもの)
P178、目玉焼き、黒パン、サラダ、コーヒー
P196、スープとパン
P207、フルーツパイ、マスタードたっぷりのサンドイッチ
P221、街路樹の実
P246、パン、目玉焼き、卵、ソーセージ、野菜サラダ、茶
P267、カエル(スカベンジトード)の肉
P287、バーベキュー
P313、ワイン

こうして並べてみると1巻よりも増えているっぽく、しかしまあ短編集なのでどうしても場面の切り替わりに食事シーンを使ったりするという演出上の都合もあってさほど重要とも思えない食事シーンも多いのですが、これは単に川原てんてーが結構食い意地張っているという可能性も、微妙に捨てきれませんな。

 

 ところで僕、抱き枕カバーくらいはたぶん買うと思います。アスナの。