ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

アニメーション映画『ハル』感想 ヒューマニズムの危うい均衡

だいぶ前(本当にだいぶ前)、細谷佳正日笠陽子主演の中編アニメーション映画、『ハル』の試写会に行ってきました。監督は『四畳半神話体系』などの絵コンテをやっていた牧原亮太郎、脚本は『野ブタ』(古いか)とかの木皿泉。あと大事なことですが、サブキャラに宮野真守。僕は、べつに関係者とかではなく、単に知人の声オタ(細谷推し)が券を余らせたというので、行ってきました。ほそやんの私服はダサかった。木皿泉(片方)は、こう、青コーナー、50ぱぅーんど、おばっさ~ん! って感じ。

 

 以下、盛大なネタバレを含みますのでご注意ください。ふだん僕はとくに断りもなくネタバレをばんばん書いているのですが、今回、わりとそこ頼りな作品の為。

 

 

 

■1 朝ドラ風のなにか

 この映画の舞台は京都です。冒頭は京都の山間部で年老いた職人が藍染めを行っているシーンから始まります。見終わってみればトータル一時間程度しかないこのフィルムにおいて、この藍染めのシーンはやや長すぎるといってもいいくらい丹念に描かれています。その老職人に付き従っている、弟子あるいは丁稚のような人物は、カタコトの日本語を話しています。このシーンは、朝ドラ的なお約束でケレン味を効かせると同時に、この作品が人間の文化あるいは文化的なるものを重点的に描きつつ、「継承者不足の伝統工芸」に象徴されるような、現実の経済原理に即して動くことを予期させます。

 藍染めが一段落したところで、職人の背後の空で、飛行機が爆発します。このシーンはあまりに性急な展開とも相俟って、質の悪いギャグか、あるいは演出の失敗のようにすら見えるのですが、見終わってみればこの唐突さにこそ意味があるようにも思えます。話を進めましょう。

 

 場面は変わり、ロボットがハルという青年の外皮を着せられて起動するシーンになります。ハルは飛行機の爆発で死んだ青年であり、ハルの死によって引きこもってしまったハルの恋人・くるみの精神医学的な治療の為に、ハルのロボットが採用されたことが語られます。ここからこの映画は、「ロボットのハル」がいかにくるみのワガママに献身的に付き合うか、といったシークエンスを語るのですが、その際に都度都度ハルの手助けをするのは京都の町の古い住民であり、デイケアセンター「狐狸庵」の老人達です。ネトウヨが聞いたら発狂しそうな施設名ですが、これもある意味では日本社会のなかのマイノリティ(まあネトウヨに言わせれば朝鮮人はマイノリティでは無くパチンコ利権とソフトバンクの割引プランで日本を影から実効支配している勢力なのですが)の互助コミュニティを連想させるネーミングと言えなくもないですね。まあとにかく、ここでデイケアセンターの老人達は、棄民達が身を寄せ合うことで文化的な生活を守っているという、まあコミュニティものの定石パターンを踏襲してくれます。なんつーか、ボロを纏えど心は錦、的な、これからの浮き沈みも歌えば楽しYeah(B'z)的なやつですね。老人達のコミュニティは、終の住処として非常に楽天的に描かれています。

 

■2 スイーツ女、カルチャーを語る

さて、ロボハルとくるみのやりとりが続き、かつて人間として生きていた頃のハルとくるみのエピソードが断片的に挟まれます。そこでのハルは「金を持たないことがいかに惨めか」を語り、一方のくるみは「収入は少なくても慎ましく楽しく暮らせる」と言うようなクソロハスイーツなフワフワプランを語ります。このくるみの主張は、自分の手芸店(?)を持ちたいというような夢とセットで語られ、一方でハルの言葉は、自身が奴隷階級からの成り上がりであるという事実をバックボーンとして語られる為、くるみとハルの食い違いは「夢VS現実」の様相を呈します。

 

この辺りから、物語は徐々に居心地の悪いものになって行きます。2人の外側にいる視聴者にとって、ハルは圧倒的に経済的現実を背負っているのに対して、くるみは明らかに現実の見えていない糞女なのですが、同時にくるみが前述のデイケアセンターを始めとする地域住民の為に行ってきた様々なことには、確かに愚直にヒューマニズム的な誠実さがあり、金の為に物件を売り渡してしまうことはそのヒューマニズムの喪失であるというような実感を与えます。「夢VS現実」であったくるみとハルの闘争がはより先鋭的になり、「文化的倫理性VS経済的合理性」の形へと変化します。

「文化」とは、冒頭で延々と描かれた藍染めであり、京都の古い町並みであり、デイケアセンターで朗らかに過ごす、役目を終えた老人たちの生活であり、くるみの送りたかった慎ましくも幸福な生活です。

「経済」とは、ハルが出自として語る奴隷労働であり、奴隷労働の裏付けとして語られる「機械はメンテナンスが必要だから最も危険な仕事は人間が行う」という冷酷な資本主義的マネジメントであり、その犠牲となっていた幼少のハルです。

はじめは「貧乏な生い立ち」程度に匂わされていたハルの出自は、ここで唐突に、『ナチュン』ばりの凄惨な、掛け値無しの奴隷労働として描かれ始めます。ここでハルの言う「金を持っているとみんなが優しい」という言葉は痛烈です。ここでいう「みんな」は、明らかに「くるみの人間性/文化性を称揚する京都の町の人々」であり、そしてその人々の「人間的」な生活は、ハルのような奴隷がいることによって成り立っていることが視聴者に暴かれてしまっているからです。つまり、冒頭から幾度となく提示され、物語の基調を為すかに思えていた「文化VS経済」の構図が、ここで「文化⊂経済」に突如変わってしまうわけです。

 

■3、世界は誰かの奴隷で出来ている

ハルの過去が語られ、くるみの夢が間接的にハルのような無数の犠牲の上に成り立つものであることが暗示されると同時に、ハルと同じ現場で奴隷労働に従事していたリュウという青年が登場します。リュウは怪しい男達に追われ、逃げながらも飄々とした言動でハルに語りかけてきます。普通のアニメであれば、リュウのようなキャラクターは、言ってみれば両津勘吉のようなもので、様々な悪事を働きつつも最後はその責任は有耶無耶なままご破算になり、周囲もそれを「なんだかんだで憎めない」トリックスターなのですが、この作品においてリュウの登場は、ここぞとばかりに投入された宮野真守の怪演の甲斐もあって、明確に不吉な空気を纏っています。そして視聴者にとっては、これも通常のアニメの想定から外れる、居心地の悪い展開になっています。

リュウの、冗談にしては度が過ぎる(アニメのセオリーに馴れた視聴者は、この期に及んですらまだリュウの行動に両津勘吉性を期待してしまう……)行いが、リュウ自信によるネタばらしによってただひたすらシリアスなまま収束し、そこで明かされる●●が●●●●であるということを以て、今まで視聴者がハルの「献身性」だと思っていたものは、ハルの外側の視点から見てみればただの利己的行動(二人の生活を再演したいという抑えがたい欲求)にすぎなかったということが暴露されます。

くるみとハルの、「経済VS文化」のすれ違う諍いは、すれ違うどころかくるみの事実誤認(本当は「文化⊂経済」)であると明かされた後、更にもう一段階、くるみの欲望の下部構造であったハル自身が、実はそのくるみとの人生を行き直したいという欲望を持っていた、という、クラインの壺的な位相のねじれを持っていることが分かります。

そしてその曖昧な境界は、冒頭の「テロ」による飛行機爆発でなし崩しになり、アガンベン的な例外状態の中でハルの「経済」の延長線上にある欲望(あるべきだったくるみとの幸福な生活の残骸)だけが前景化することで再びフラットな地平に回帰しています。

 

テロとは貧困によってもたらされるものです。それは経済資本の貧困が解放戦線の出で立ちで表れることもあるし、象徴資本の貧困が宗教紛争の様相を纏って表れることもあります。あるいは両方の貧困がもたらす想像力の貧困であったりします。例えばオウムのようなものですね。

くるみが抱いていた儚い文化性は、今となってはハルの経済性(テクノロジーを前提とした幸福で負荷の少ない生活)の中に包摂され、欲望のサブジャンルの一つに成り下がっていたわけです。成り下がった、というよりは、その二人が言い争っていた段階で既に構造としては浮かび上がっていながら、なおも想像的にはタイマンを張り続けていたものが、いよいよ現実の暴力の前にその関係性を固定したというような形です。

 

 

■4まとめ

奴隷労働やテロ(自然に考えるなら、これは奴隷労働が存在するような経済的格差によって招来されている)などの凶事が時たま顔を覗かせながら、なお社会が平然と営まれているという現実と、その中でたまたま凶事に遭遇したことで不意に平衡を欠いてしまった一人の人間にフォーカスし、寓話的に描いたものが本作でした。

この物語は、我々のコミュニティも文化も人間性も互助も、全てはしばしば犠牲を伴った危うい均衡の上にしかないことを示しています。では、現状危うい均衡の上にあるから、あるいは残忍な児童搾取や格差の上にあるから、我々の文化は欺瞞でしか無いのか。何の価値も無いのか。というと、それもまた短絡的で謬りなのだということが示されています。ラストシーンでは、最終的にくるみの死を直視したあとのハルの平穏な生活と、くるみの菩提に手を合わせるハルの姿が肯定的に描かれています。

くるみの死を受け入れることを、ある種の通過儀礼(にすぎないもの)として予定調和的に社会内に位置付けるのであれば、それは経済的合理性の全面勝利であり、優れたリスクファクターマネジメントであり、くるみとの死別は結局は単なるハルの成り上がりストーリーの一部分、付属物となり下がります。ではその反対はというと、ある種の否定神学に陥るけれども、くるみの死を合理的に咀嚼した後にも、ハルの中に残る歪なくるみの人格や、結局はそのくるみへの執着が捨てられなかったハル自身の合理性の綻びであって、それはくるみの文化性を信頼するなら、作中の遠い未来に奴隷労働を根絶する啓蒙の光になる(あるいは本当にくるみがスイーツクソ女に過ぎないならば、それはそれで見て見ぬフリのまま素敵な私お店が営まれていくだけなのですが……)ものであり、そのどちらが優位となるかは、ハルという一人の中でどうなるのかと言うよりは、ハルに投影された我々の意識次第なのでしょう。

しかしそれを十分に説明するには尺が足りなかったように思いますね。

 

革命力71。