ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

GRANRODEOの『RIMFIRE』=反原発という妄想

The Other self(アニメ盤)RIMFIRE

 

声優の谷山紀章さんことKISHOWが取り組むGRANRODEOの新曲『The Other self』が発表されまして、黒バス二期のOPになり、作画なんか凄いを通り越して気持ち悪い(凄いを通り越さなくてもとりあえず気持ち悪い)感じで非常に良いのですが、それをほわーっと見ていて、昨年に発表されたGRANRODEOのシングル『RIMFIRE』についてほわほわーっと考えたことを思い出した為、ここに書き記さんとす。

なんか去年、『RIMFIRE』が出るちょっと前ぐらいだったと思うんですけど、坂本龍一が産経新聞に熱烈に叩かれて話題になってたんすよ、反原発だからつって。でもミュージシャンにはどっちかというと反原発が多いというか、ロックな人とかは特に、不謹慎な言い方するとようやく「反抗するべき対象」が見つかってイキイキしてた感すらあったんですよね、当時。
それと比較して声優の静観っぷりといったらすごい、今も当時も。軽くぐぐったけど山田栄子Twitterの名前に「反原発」って付けて叩かれてたくらいしか見つかりませんでした。
勿論今ぶいぶいイワしてるたいがいの声優って、主要なファン層がネトウヨ層と被ってるから、っていうのもあるのかと思ったんですけど、それなら逆に原発推進を明言してファンに媚びるっていう方向性もありうるわけで、それすら行われていないところを見ると声優っていうのはマジでノンポリなんだと思い、それが良いとか悪いとかではなく単純に興味深かったんですよ。

 ミュージシャン、特にロックな人たちが反原発になりがちなのって確かに浅薄っちゃ浅薄なんですけれども、そもそも<ロック的な価値観>の、有無を言わさぬ強度とか魅力ってそういう浅薄さ、脊髄反射感と表裏一体だったわけで、「浅薄だからダメ」って一概に言えないと思うんですよね。まあ坂本龍一は主にテクノな人で、テクノってその発展系のエレクトロニカとかドローンとかも含めてインテリ寄りというか、そもそもそ電子的な知識が要る場合も多くIQ高め(とされる)の音楽なので、雑に政治色出すのが許されないというか、出ると一気に文化左翼臭が鼻につくってのもあるわけですけど……。
 ほんで産経新聞みたいに、いやしくも文化欄とか抱えて大新聞、全国紙を自認するなら、フリでもいいからそういう文脈を「私どもも頭ではわかってますがね、」って顔してからじゃないと、政治的主張以前に「新卒かな?」って思われちゃうと思うんですよ。まあ新卒に任す欄じゃないのはさすがに知ってますけれども、っていうか産経に文化欄ってあったのか? っていうか文化欄が無い新聞ってのもあるのか? わからない。なんかむかし呉智英が「産経新聞は大衆の心を理解してるから全国紙で唯一占いコーナーがある」って指摘してたのを思い出しましたけど、とにかく文化欄があるのかどうかは不明。
 それに当時の産経の記事みたいに「電気を使って自己表現してるんだから電気の批判すんな」みたいな理屈だと、ロジックとしては「子供は親にどんだけ虐待されても逆らっちゃだめ」みたいな話になると思うんですよね。だって産んだの親だから仕方ないよねって。でも時系列上の因果律と責任上の因果関係って、相似形になってるだけでモノとしては完全に別物じゃないですか。JavaJavaScriptぐらい違うでしょ。だからあの、全国紙に書いていいことじゃないと思うんですよね。教授批判をするにしても、もっと別なの無かったのか。新聞らしく「眼鏡、オシャレでない オシャレ文化人なのに」とか、そういう批判があってもよかったのではないか……。

 そんな中GRANRODEOの新曲(当時)が発売されまして、オリコンデイリーにも入っていて、曲も大変カッコ良く、ファンとしては嬉しい限りだったんですが、この曲の歌詞で一カ所だけ、前後の文脈と照合して全く意味が分からない箇所があるんですよ。それが「文殊の智慧も悪魔のように」って箇所です。『RIMFIRE』っていうこの曲は、インタヴューとかも参考にすると大筋で「(自らの)小賢しい知性が、手抜きや妥協への誘惑をしてくるけど、初期衝動に忠実であれ」っていうような意味かなーと思います。それ自体は黒バス全体のテーマとも共鳴していて、より強い無理目の相手にぶつかっていく、っていく少年スポーツ漫画の基本原理ですから、今更何を言うものでも無いんですが、まあそれはそうとして唐突に「文殊の智慧」と言い出すのがよく分からない。
勿論この曲以前以後にも「極寒の文豪よ何故に老婆を殺した」(=ドストエフスキー)(『進化と堕落の二元論』)とか、「一番影響受けた本は銀行の預金通帳だろ」(=バーナード・ショウ)(『Y・W・F』)とか、それっぽいオマージュや引用句を持ったグラロデ曲は色々あるんですが、『進化と堕落の二元論』は安吾やソクラテスにも言及しながらそれこそレトロな文学青年風の語彙で当世を揶揄して見せるという昭和のアングラ風刺劇風の曲ですし、『Y・W・F』もタイトルが「良い子・悪い子・普通の子」の略である通り、頭でっかちに悪ぶってみたところで所詮「普通」の枠組みから逃れられない、悲しい「都会的」な生を呆れつつも愛する、という一貫したテーマのライン上にこれらの引用句を乗せているんですよね。それに比べた時に『RIMDFIRE』の「文殊の智慧も悪魔のように」の意味不明さがあまりに異質なわけです。
 ただの「知恵」じゃなくて「文殊の」だから、慣用句に従って「3人寄れば」だとすると3人でどうにかこうにか切り抜ける的な作中描写があればそれを参照してるってことなんですが、あんまそういう描写無かったですよね(まあ本編はBGV的に流し見してるだけなんで確証無いですが)、というより、デュエットCDが出まくってるのとか、犯罪予告が「腐女子に人気があって云々」みたいな口上で出てることからも分かるように、黒バスの基本的な構成単位って2人(というかホモカップル)であって、つまりここで言う「文殊の智慧」というのは「3人寄らば」の含意ではない。では何なのか、と考えるとあとは高速増殖炉もんじゅぐらいしか思いつかないわけですよ!

たまのやる気もディスカウント だらしねえmyモチベーション
文殊の知恵も悪魔のように
 
焚き付けられてからようやく顔を出した導火線だって
吹き出す炎の中でビビってどうかせんといかんが

我先に挑め かさばる意図へ手を伸ばして
ひとつになる決心を

どうかせんといかんが、ってダジャレなんだけど、同時に「この箇所に二重の意味がありますよ」っていうメタメッセージとも取れなくもない。
そもそも谷山紀章自身が、震災以降のZEPP TOKYOでのライブ時に「ZEPPっていうのは、全電力を風力とか自然エネルギーで賄ってるんですよね。まあ、だから何だって言うわけじゃないですけど。僕はそれ以上は言いませんけど」とか、なんかそんなこと言ってたので、あながち間違いでは無い気がするんですよ。つっても紀章はインテリなので皆まで言う無粋を心得ているので、自分では絶対言わないだろうし、指摘されても「そうだよ」とは言わないだろうし、もし本心に反原発的なあったとしてもそれをこういう外野からラベリングされるのとか超嫌がりそうですけど。

とはいえ所謂「ロック的な心性」で原発を解釈した時、「今が良ければそれで良い! 明日の事は明日の俺が考えるぜ!」という享楽的な方向性でいけば消費社会万歳、ありがとう原発! な方向に行くし、システムから疎外された俺達! 夜の後者窓ガラス壊してまわる! って方向にいけば脱資本主義、ヒッピーカルチャー的な方面に行ってファック原発! な方向に行くのでそもそも両義的なものであり、したがって問題の本質はGRANRODEO反原発かどうかというよりはロック的な心性の脱中心性と可塑性そのものにあるのですが、まあとにかく私個人としてはどっちかというと原発行政(に代表されるパターナリスティックでギャンブル的な地方統治)が嫌いなので、そこから大好きなGRANRODEO反原発性を読み取ってみるという傍迷惑な試みが今日も続いております。