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ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

『僕らはイタい生き物だ。』1巻全否定感想 オタクの報復心理で飯を食うな

漫画

僕らはイタい生き物だ。1 (電撃コミックスNEXT)


最悪につまんない上に全編に渡って底の浅い護教神学が充満してんだよ誰か窓開けろよ!早くこっから出せよ!(藤原竜也風に)

1、前提
基本的に、現段階では、ああ、ひどいな、以外の感想が出てこないんですが、それでも偉大な先人の業績を継承している部分もあって、しかし継承したそれをよりよってこういう使い方しちゃうでござるかコポォwwwとなり、よりひどさが加速する方向にしか作用してなくて色々因果だなぁと思いました。
先人の業績とは何かというと、いわゆる(コミケにいるような)オタクっぽいオタクに評論を加えようとしているときに鉄オタとかミリオタの話をし出したり「どんな趣味も突き詰めればオタク」みたいに糞の役にも立たない道徳の教科書みたいなこと言い出す奴をどうやって仲間外れにしようか、という悩みの局面で斎藤環が行った「ぶっちゃけ二次元で抜けるのがオタクかどうかの違いだと思うよ」という指摘であって、これの何が偉大かというと、まずこれがオタ系の言論人が「思ってても言わなかった事」なのと、そういう定義がむしろオタク擁護の中から出て来たことの二点であります。
それ以前のオタク言説というのは未だに宮崎事件を引きずっていて、何が何でもオタクを「性的な意味で」マトモかマトモじゃないか、という軸で争っていたのですが、斎藤環は肩書きも活かしつつ「まぁマトモじゃないと思うけど実害無いっしょ」的な過不足無いまとめ方をしていて、というか精神科的な立ち位置から言うとオタク/非オタク関係なしにマトモな人間などこの世には居ないので囀るなアホども! という感じだったのですね。そのへんに関してラカンとかも援用しつつ、二重見当識(例:アニメキャラを限り無く実在に近いものとして扱うが、それと本来対立するはずの作者や制作スタッフにに関するゴシップも好きだったりする。エロ同人の中では飲尿シチュエーションが好きだが現実には尿など見たくも無い。等々、矛盾するいくつかの現実をレイヤー分けして共存させる認識能力)が発達していることと二次元で抜けることの間にある程度関連性があり、そしてそれは、昔からあるエロ劇画(単なる「二次元『絵』」)で抜く事自体は珍しくないけれども、オタクが二次元で抜くときはまさに「二次元のまま」抜いてて、おっさんが劇画とかで抜くときにそれが現実のシミュレーション(代用)であるのに対し、オタクはまさに二次元自体を最終的な性的対象にしているということに他ならない、的な感じのまとめを行ったわけです(東浩紀の性行動を観察することによって)。

この時期のオタク評論界隈というのは、旧エヴァ以降・ハルヒ以前・エロゲ&同人全盛期で、しかも本田透とかいて、宇野常寛がホームページビルダーでレイアウト崩壊してて、オタクVSサブカル論争っていう今からすると論争未満の意味不明なポジショントークが流行った時代だったので、「何でも突き詰めればオ(略」とか言い出す人って話を一周遅らせるだけなので本当に邪魔だったんですよね。しかもタチが悪いのは、「だからアニメオタクだけが『オタク』と呼ばれて蔑まれるのは納得いかない」みたいな、主に(自称)オタク側の自己弁護に使われるロジックだったんですよねこれが。あるいはオタクの外側からの援護射撃で作家とかミュージシャン的な人とか養老孟司系が物分かりの良いつもりでこういうロジックを新聞の文化欄とかで使う場合もあったんですが、とにかく終わってたのはそれを言うことがオタクの擁護になると思われていた点です。つまり、オタクは自らを擁護するためにはむしろ意図的にオタクの定義をブレさせなければいけなかったわけですが、ここで斎藤環はむしろ定義を厳密化し底を見せてしまうことで逆にオタク擁護が可能であるという発想の転換を行ったわけです。

当時のオタクの生活を「リアリズム」的に描写したものとして『げんしけん』がありますけれども、中でも特に「リアリズム」に寄った描写の多かった前半では、まず笹原のエロ同人に対する興味が解放されてゆく過程が、ほぼ無いに等しいストーリーの駆動要因にすらなっていたのが懐かしい限りですが、とにかく(狭義の)オタク=「二次元のキャラクターをマジに性愛対象にしてる人」という、今となっては当たり前すぎて誰も言語化しないような前提を整備したのが斎藤環でした。まあ、斎藤環がやらなかったら別の誰かがやってたんでしょうけど、とにかく①それなりに権威的なバックボーンのある人が②擁護の立場で③セクシャリティをもとに④オタクの定義を更新する、という営みの上に我々の「嫁感覚」は成立しているし、その嫁感覚を所与の物として為される全ての発言や創作は「それ斎藤環が言うまで無かったことになってたから」と言いたいわけです。


2、ここで弱・強・弱
んでまあ漫画本編の話に入りますけど、すげーつまんねーからあんま言うこと無いんスよね。
とりあえず読んでて「は?」と思ったのは、ある時期までの「オタクもの」(『妄想戦士ヤマモト』とか)が仮構していたオタクVS「一般人」(弱者対強者)の構図がオタクVSアンチ・オタク(強者対弱者)の構図に切り替わっているんですね、この漫画の場合。
オタクは「打ち込む対象」が有るから強者であり、たとえば主人公のように「打ち込む対象」から見捨てられた弱者に優越する存在である的な構図が全編で反復されるわけです。
冒頭に出てくる友人・臼田は「イケメンという権威」がじつはオタクだったという(ありがちな)形でオタクの「強者」性を増す為のキャラクターですし、直後に主人公がオタクをバカにする→オタクに反論される→発達障害っぽいテンプレ回答をする「愚か」な主人公の姿を読者に対して晒し上げる、という一くさりの後、P26で異様にコスモポリタン的な妹から「いちいちオタクと非オタクに線引きをして気持ち悪がっている兄のほうが器が小さい」というような趣旨のことを言われます。平均的な社会性を具えていれば、というか普通の漫画ならこの時点でもう「改心」している所なのですが、こうした<主人公の狭量さが指摘される→主人公が教条的なリア充信仰によってその指摘を退け、より信仰を深める>というようなモチーフの反復がこの漫画では繰り返し繰り返し描かれます。それは本当に執拗にで各話2~3回はこうしたやりとりがあって、まるでミニマルミュージックだ……。
しかし、こういう「謬り」を告発し、晒し上げ、嘲笑った後に赦し、帰化帰属を認める(しかし主人公は「まだ○○までは認めたわけじゃねーからな!」とか言う)というような流れで溜飲を下げるタイプの読者ってまだ居るんだろうか。まあたぶん「お母さんが歌い手さんバカにするからRT」みたいな層だと思えば良いんだろうか。
ちょっと本筋からズレるように聞こえるかもしれませんが、こういう論展開の作品の場合、読者(そこそこ不細工)が想像的に帰属するための「イケメン(美少女)だけどオタク」という存在が仮構されます。「リア充できる筈なのにオタクをやっている人間がいる、だからオタクというのは逃避のルートではなく、主体的に選択されうる生き様である、それを選んでいる私も当然、屹立する主体である」というような展開の為の物証になると思っているのでしょうが、いい加減やめたほうがいいと思うんですよね。だってその論法を使った時点で疎外されていると言わざるを得ない……。
まあでも、オタクの集団心理というのは現状そうなっている……というか、まず、なんかこうパッとしない奴が二次元を媒介項として今やマジョリティの「オタク」へ帰属し、更に自らが所属するマジョリティを一旦「世間の無理解」に対置することでマイノリティに偽装し、「マイノリティだからこのぐらいやってもいい」的な報復心理を楽しんだ後、更に少数の「見栄えの良いオタク(見栄えのぶん、「世間」よりも上位、もしくは「世間」の中の上位にいる)」を担ぎ上げて、そこに精神的に同化することで自己の輪郭を保っている感ありますが。そもそもこういう話には「オタクに理解がない人物」っていうのが紋切り型で描かれてるんですけれども、そういう人物はだいたい「オタク=宮崎勤」的な発想をしてることになってるわけで(まさに本作の主人公とか)すけど、でも前述のような心理的インセンティブを提供していることからして、今やオタクというのは暴力的な準多数派です。


3、褒める……と見せかけて
まあ散々糞糞言ってきましたけど、73ページでデブ女が「マジすか…」と言いだす所だけは出色でした。それは前述のような自己弁護のセオリーから逸脱し、唐突にリアリスティックな人物描写が入ってくるからです。読者に提供するコンフォートの一つとしてあるあるネタで「オタク女のリアルなリアクション」を描こうとした結果、作品全体を貫徹しているドグマ(弱者のフリをする強者としてのオタク)を、知らずに侵犯してしまっているのが素晴らしいです。
同様に、劇中劇の『超ガッタイテニスRPGワンダブルス』は巧みです。「児童向けとして作り、きっちり児童の客を取りながらも、容易に性交のメタファーや代替物として解される濃厚で批評的な関係性とギミックで大友や腐女子を取り込んで顧客単価を高める」という、プリキュアやイナイレが実践し続けてきたマーケティングを余すところなく戯画化しており、それこそ本作の中で最も、というか唯一に近い形でオタクのセクシュアリティ(の隣接領域にある商圏)をしっかり扱っています。
しかしながら、P19「ぜ んぜん わかってない」「二次元にっ 恋することが 逃避なんて」と二次元のキャラクターへの情愛の存在を持ち出しつつも、セクシャリティに直結する要素からは目を逸らし、帯にも引用されているP20「この恋は無理ゲーなのに」という口当たりの良いネットジャーゴンへ繋がっていくわけなんですが、もう、何が一番嫌かって、結局このNHK紅白歌合戦の余興みたいな薄ら寒さ、ぞわっと来た。第伍回ゾッとするほど中二病が考えたっぽい武器名選手権の「いらっしゃいませ敗者様(おきゃくさま) 大気圏外(VIPルーム)へお連れ致します」に匹敵する寒気。
オタク特有のジャーゴンを用いることで軽さの中に軽さゆえの(=気取っていない、素の、心からの)真剣さを表現したつもりなんでしょうけど、コピペ等のネットジャーゴンはその起源が掲示板であるからして、任意でない文脈の中に媒介項を見出して投下タイミングを作るから面白いんであって、こういうオチありきで作られた(っていうか作れてないけど)会話って最高に寒いっすよね。そんなんじゃ甘いよ。もっと淫夢スレでも見て勉強してもらってさ、終わりでいいんじゃない? ハイ、ヨロシクゥ!

革命力11。