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ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

乙女ゲーというサバルタン 岩崎大介と声優とキャラソンを取り巻く環境について

1、声優の現在
 いきなりですが、男性女性問わず、いまや声優を取り巻く言説環境は、極度に重層化した、ハイコンテクストな世界になっています。
 たとえば釘宮理恵の声は、今となってはもはやその声紋単体で「ツンデレ」以外の何物でもなく、もし釘宮が今さらおしとやかな病弱少女の役にでもキャスティングされようものならDVD及びBD発売時の店頭POPには「釘宮なのにツンが無くてつら……これはいい」とでも書かれるに違いありません。
 また、キャスティング時の声優同士のシナジーにおいても、ブログやTwitterやラジオ等で供給される「誰々ちゃんのおうちにお泊り!」だとか「○○さんっていつもそうなんだよwww」的な交友関係の情報を前提にした設計がなされます。仲の良い声優同士を起用するほうが収録現場も和むでしょうし、それ以上にファン達が、声優同士をなかばセットとして扱い、その関係を常に気にかけておりますから、自然な流れとしてそのような起用方法が一般化してきているのだと思います。一時期の堀江由衣田村ゆかりだとか、その後の田村ゆかり水樹奈々だとか、今ではあまり見ませんが中原麻衣清水愛だとか、男性だと小野大輔神谷浩史だとか、杉田智和中村悠一だとか、男女ペアだと神谷浩史斎藤千和とか、日野聡釘宮理恵だとか。誰しも心当たりのある組み合わせがあるんじゃないでしょうか。
 つまり声優というのは、アニメの作品内世界を音声化する役目を担いながら、その過程でアニメ外での自身にまつわる情報をアニメ内にフィードバックする存在でもあるわけです。「○○という作品において親友同士を演じたあの2人が別の作品で今度は主従関係を……しかもヘタレSと腹黒な手下だと……? ハァハァ」というような見方は、今となってはむしろごく一般的なアニメ視聴の作法であります。


2、役者の中の「声優」
 むろんこれは声優に限らず役者全般に言えることであり、たとえば北大路欣也が小心者の役で映画に出演することなどまずありえないかと思います。これは主に彼の力強すぎる顔に起因するわけでもありますが、基本的に彼はその顔(や芸名)から連想されうる「豪胆な実力者」的な役以外で出ることはまず無いでしょうし、万一彼が気弱な青年……青年はさすがに物理的に無理だわ、気弱な年金生活者の役だとかを演じることがあれば、これは意図的な「ギャップ」狙いの配役ということになります(例えば、ソフトバンクのCMの犬の声なんかがそうじゃないかと思います)。僕は実写俳優にはあまり詳しくないのですが、こんな感じで実写俳優においても、こうした外見的身体的要素だけでなく、声優たちのように作品外での交友関係などが作中に上書かれることが、確かにあるとは思います。ただしそれは、それが声優において行われる度合いに比べればじつにたかがしれているように思います。
 なぜなら声優の場合、声による演技は、顔や外見と違ってある程度随意的に変えられるため、声優は実写俳優にとっての「身体」に相当するものを複数所有することが容易(容易とまではいかないかもしれませんが、鍛錬によって可能になる度合いは大きい)であり、それまでに演じた役(=出演作品から作品外部へ持ち出せるキャラクターイメージのストック)がそもそも多いこと、そして、役者なんだか歌手なんだかラジオパーソナリティなんだかよくわからないという、「声優」という芸能人カテゴリの明らかに進みすぎた局所的マルチタレント化によって、一人一人の声優が保持し作品内に供給することができる情報の属性や種類もケタ違いに大きくなっていることが挙げられます。

 たとえば神谷浩史の役柄を抽象すると「頭の回転が速く警戒心の強い饒舌な皮肉屋だが本当は臆病な強がりで、世間的な感覚を鋭く持ち立ち回りに長ける反面、ピンポイントにどこか大きく抜けたところや致命的な欠陥がある」といったところで、神谷浩史名義で発表された楽曲も基本的にはこのラインを外さないような作詞作曲がなされているように感じます。また、猫好きであることを買われての『ぱにぽにだっしゅ!』猫神様役や、本人の飼い猫の名前と同じ「ニャンコ先生」が登場する『夏目友人帳』に出演したことと、その長期化、『化物語』における羽川に対する阿良々木暦役の演じ方などを以って、総合的に「猫関係の声優」であるような扱いも存在します。
 こうした、複雑なハイパーリンク的コンテクストの重層性こそが、コンテンポラリーアニメの楽しみの醍醐味であり、しかし同時にアニメをもはやバラエティ番組とそう変わらない芸能環境にしてしまっている元凶でもあって、アニメ視聴者諸兄にとって両義的で大変に悩ましい課題であるかと思います。


3、ポルノグラフィと語り、岩崎大介
 さて、そういった現代声優文化を踏まえた上で、男性声優の大きな活躍フィールドの一つである乙女ゲームと、乙女ゲー界で異様な存在感を放つ岩崎大介という人物について見て見ましょう。
 岩崎大介は乙女ゲーメーカーRejet(リジェット)を率いて『スカーレットライダーゼクス』『TOKYOヤマノテBOYS』『Vitamin』シリーズ(これはリジェット立ち上げ以前の作品ですが)などを手がけるディレクターであり、これらの作品の無数のテーマソングやキャラクターソングの作詞も担当しています(完全に余談ですが、ディレクターとしての彼のコンセプチュアリティは、乙女ゲーディレクター時代のぼくのひとつの目標でした)。
 さて岩崎大介という人には、雑誌やblog等のメディアにおける本人の露出過多と自分大好き感(経営と創作の二足草鞋の俺TUEEEE感)、女性向け作品なのに滅却し切れていない男性的感性、一本のタイトルを分割発売する商法、そのわりに最近あまりヒットに恵まれていない商業的実績、ときに訴訟モンだろこれってくらいの露骨すぎるインスパイアっぷり……などから批判者やアンチも多いわけなんですが、彼のメディア露出にはもっと分析的な目が向けられてもいいんじゃないのと思うわけです。岩崎大介の言動は、乙女ゲーという、酷く汚い言い方をすれば「オタク女性向けの間接的/代用ポルノグラフィ(というか時としてオタク女性用ポルノそのもの)」であり、しかしポルノ的効用を持つプロダクトの中でも、ヘテロであることでむしろ主流(主流とはつまりBLです)を外れた「マイノリティ」であるもの、ポスコロ的な言説を弄するならいわばサバルタン(=自らを語る言葉を持たないもの)とも言える乙女ゲーの世界において、例外的に表出し顕在化した言説だからです。

 男性向けポルノにおいて、「日活ロマンポルノはエロという様式美を借りることで却ってあらゆる前衛的・批評的な表現を可能にし映画藝術の開拓者になった」だとか、「2000年代のエロゲーは可塑性と不可塑性が入り交じったゲーム内世界に没入することの実存不安に対する自己言及として自覚的なループ構造の導入という文学的転回をもたらした」というような、充実した分析(という名の自画自賛でもある)が溢れているのは、それ自体が社会のジェンダー的構造、ジェンダー的抑圧に基づくわけですけれども、その構造への敏感さを自認する諸般のジェンダー的研究が、乙女ゲー分析においてはパッとしないというか、乙女ゲーというものの存在を等閑視しているのは片手落ちの感があります。
 通常は抑圧されているとされる「女性の(による/ための)性的言説」それ自体は、多くの社会学的な目線での性的メディア分析(つまり、多かれ少なかれジェンダー的視線を内在した、サブカルチャー研究)の対象とされています。レディースコミックやTL(ティーンズラブ…若年層向けの性愛コンテンツ)を含む少女漫画、ドラマ、映画、ファッション雑誌などのジェンダー的分析ですね。しかし、言うなればこれらは「女性一般」のための性的メディアであります。ではポルノグラフィに高い文脈性を求めるオタク女性向けのメディアを対象とした分析はどうなのかといいますと、これは一目で分かる異形性(ヘテロ視点で)と市場規模から、もっぱらBLのみが有難がられて研究されているという現状があるかと思います。まるで研究者達が口を揃えて「オタク女のヘテロ性愛など分析に価しない」と言っているかのようにも見えます。そこには「オタクの女はみんなBLにしか興味がないし、それ以外に興味を持つべきではない」というような、オタク女性たちが自らに課した規範的空気すら感じられます(「ホモが嫌いな女子なんかいません!!」)。都市伝説レベルでは、腐女子による抜け忍狩りなども聞いたことがありますぞ。まあこれは冗談だとしても、オタク女性という少数派のなかの、さらに少数派である「二次元(準)ポルノにヘテロセクシュアリティを求める女性」なんか絶対数が少なすぎて「研究」としての一般的妥当性を欠くとか、あるいは業績的収穫が少なそうだからやりたくねー、という事情もあるのかもしれせん(とはいえ僕も血眼になって探したというわけでは無いので、すぐれた先行研究をぼくが見落としているだけという可能性も大いにあります。最近では谷川ニコ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』という作品のような言及も見られますが、この作品は「喪女」という<安全な女>に対して注がれる男性の性的視線に寄り添ったものと言えますし、色情狂じみた少女というのも、その対象がもっぱら二次元のイケメンに注がれているという点さえ除けばむしろエロマンガ的文脈においては古典的であり、「その点」には本質的な差異はありません。つまり単なる「喪女萌え」マンガだし、もっと抽象すれば「えっちな女の子大好き!」というだけの話です。この点では亜樹新『フェティッシュベリー』などがかなり鋭く切り込んでいる数少ない作品ではないかと思います)。


4、岩崎大介と「意味の過剰」
 そんな状況ですから「盛んに自己言及する乙女ゲー提供者」という岩崎大介が非常に例外的な存在である、ということは段々お分かり頂けてきてるんじゃないかと思います。

 さて、作詞家としての岩崎大介の特徴です。
 第一に、露骨なエロ。ただし、ヘテロなエロを志向しているにもかかわらず、むしろ聴き手の気恥ずかしさを逸らす目的で同性愛的な読み替えも可能なエロ表現(ただしこの同性愛的な逸らし方は本人の意向なのか、共同作詞者である栄裕美子の手腕なのかは不明です)。
 第二に、ジャニーズやヴィジョンファクトリーの男性アイドルの影響を感じさせる、ルビ・当て字・連想・ダブルミーニング、略称・略語・極端な口語やスラングなどによる言葉遊び、日本語と英語がちゃんぽんになった極めて日本語的な(外来語を積極的に取り入れることはむしろ日本語の特徴です)語呂合わせや押韻、対比……などの修辞法による、「意味の過剰」が見られること。
 第三に、この意味の過剰による1曲ごとの絶対的な歌詞分量の増加が、ラップやセリフの明かな多用を惹起していること。

 ……とだけ言われても大概の人は「は?」って感じだと思いますので、僕の申し上げていることが伝わりやすいと思われる歌詞を引用してみましょう。『スカーレットライダーゼクス』のキャラクターソングで、ヨウスケ (CV鈴木達央)とタクト (CV宮野真守)によるデュエット『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』の、ラップ部分です。


ヨウスケ:L.A.GでHUG 愛のSPLASH 接吻[キス]で殺す炎天下
タクト:我慢限界FULLでスロットル? ストロベリィなSmileでBreak a 紅夜[スカーレット]
ヨウスケ:What Your Name?からBed Inまで キミとBeyond Beyond タイトにRide on
タクト:真夏の戦場[サマースクリュー] いわば 煩悩だらけ 狼に「変身!」で奪っちまわNight
ヨウスケ:EveryTime EveryWhere 愛[ラヴ]なJUICEを何回MIX?
タクト:108[ワンオーエイト]? Not 1008[ワンオーオーエイト] とにかくキミがほしいだけ
ヨウスケ:Ah,Motto! 悩ましげに
タクト:Ah,Zutto! 振りきってよ
ヨウスケ:オマエの声[ボイス]
タクト:脳溶解[メルトダウン]
ヨウスケ:もう何も?
タクト:いらない?
ヨウスケ&タクト:Just Feel It 「……愛してくれないか」(※セリフ)


 イカレてますねぇ。一応解説しますと、「L.A.G」は主人公達の所属するヒーロー組織(とかその基地)の名前ですが、床に敷かれた「ラグ」とのダブルミーニングであり、床でもつれあったまま交わされる衝動的なセックスの隠喩ですし、「我慢限界FULLでスロットル」は性交中の動作の表現と思われますが、それをヒーロー達がバイク(作中での呼称は「フェイザー」)に跨がるイメージに重ねています。いちいち解説するときりがないのですが、この調子で全編にレトリックが張り渡されているのがお分かりいただけるんじゃないかと思います。そしてこの歌詞はヒロインがヨウスケとタクトによって取り合われる(あるいは複数人との同時性交を享受する)描写とも取れますが、部分的には、ヨウスケとタクトのヒロインを介さない攻撃的な同性愛的関係に読み替えることも可能かと思います。ちなみにタイトル『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』というの発音は「あいのぜろきょりしゃげきらぶしゅーと」ではなく、「らぶしゅーと」だけが正しいのです。なぜなら「愛の(LOVE)」と「0距離(ラブ)」が掛詞となっていて、「射撃」に相当する語が「shooooot!!!!!」だからです。

 あるいは、たとえば『VitaminZ』のオープニングテーマであるキャラクターソング『絶頂[クライマックス]HEAVEN』において「教室(batle field)」と打たれたルビは、『月華繚乱ROMANCE』のオープニングのキャラクターソング『Crazy 4 Me』では「教室(Jail)」になります。同じオブジェクトをバックストーリー設定によって読み替えているわけですが、岩崎歌詞においてはこれらは単に最初からカタカナや英語で「バトルフィールド」「ジェイル」と表現すれば良いというものではありません。同じ「教室」というオブジェクトが『VitaminZ』のキャラクター達にとってはヒロインを巡っての「バトルフィールド」であり、『月華繚乱ROMANCE』のキャラクター達にとっては「飛び出」すべき「ジェイル」である、という意味の複数性こそが問題なわけです。これらの二曲において「教室」がルビによって読み分けられている一方、「絶頂(クライマックス)」というルビは両方に共通して用いられています。ストーリー上『VitaminZ』と『月華繚乱ROMANCE』は世界観を共有していることも特に無い為、これらの2曲を縦貫する共通項は岩崎大介だけであり、これらの共通するルビと共通しないルビ両方が混在しているという事態は、岩崎による自作の刻印のようでもあります。

 このようにして岩崎ワールドにおいては一つの言葉が複数の意味を持ち、拡張された意味はそれぞれ別の連想を次々と呼び込み、相互に参照し合い、しばしば岩崎大介本人にも制御や切り分けが不可能なほどの強度で増殖します。その結果「一曲分のコンテクストなのに一曲に収まり切らない分量で、しかも少しでも削ると意味が成立しない」という謎の歌詞が生成されているかのようですが、収まらなくなった部分はメロディパートに乗せず、セリフとして独立させて、もしくはラップとして凝縮してでも採用されることになります。
 ラップそのものについては既に上で引用してしまっていますが、この、過ぎた饒舌によるラップの多用は、第三の特徴と位置付けることができます。同様に、ダブルミーニングやルビを伴わない即物的な言表は、メロディを伴わずラップでもない独立したセリフの形で、これも頻繁に入れ込まれます。「もう離さない」「恥じらってんじゃねぇよ」「教えてくれよ」「愛してくれないか」「楽しもうぜ」「これからだろ」「分かってんだろ?」「かかってこいよ」等々。
 勿論、キャラクターソングというもの全般が、声優のポピュラリティに強く依存したプロダクトであり、音楽自体を主体とした「一般的」な音楽商品ではまず用いられない、セリフという表現形式が用いられているという側面もあるのですが、岩崎大介の歌詞におけるセリフの登場率は、キャラクターソング市場全体から見ても顕著な高さを示しています……というかセリフ無しの楽曲がそうそう思い当たらないくらいですし、ラップの採用率はそれ以上に有意な高さを見せています。
 そして前掲のように、岩崎詞の真骨頂はデュエット曲にこそあり、二人の声優が「意味の過剰」をポリフォニックに間断なく浴びせかけてくるさまはそれだけで圧倒的なのですが、注目すべきはそのデュエットの声優の組み合わせがほとんど何の文脈性も具えていないことです。たとえば前掲の『愛のZERO距離射撃-loveshooooot!!!!!』における鈴木達央宮野真守という組み合わせの間には、この論考の最初に述べましたような<多層化した、ハイコンテクストな世界>というものが、私の思いつく限りではほとんど存在しません。それはまるで、歌詞外にある既存の声優文脈や情報の持ち込みを遮断するためにそうしているかのようです。


5、『うたプリ』における外部文脈挿入
 作詞においては技巧の限りを尽くして多層的な言語/音声的表現を追究している岩崎大介が、アニメ/声優周辺でごく一般的に行われている<作品外からの「持ち込み」による意味の多層化>は断固として拒絶している、という状況は、少し奇妙に映らないでしょうか。
 これと真逆の例として、乙女ゲー発のコンテンツでありながら、乙女ゲープロパーのユーザー以外にも広くリーチした『うたの☆プリンスさまっ♪』というタイトルがあります。『うたプリ』はアイドルになることを目指して早乙女学園へ入学してきた少年たちとヒロインとの恋愛をテーマにしていますし、早乙女学園を経営している人物・シャイニング早乙女が名前からしてどう考えてもジャニー喜多川を元ネタにしていることから始まって、音楽的にもジャニーズ事務所などが作り上げてきた男性アイドルの様式美の上に成立しており、その意味では岩崎大介同様、借景的世界観にある程度依存したコンテンツではあるのですが、その上に構築されている情報環境の様相は岩崎大介作品のそれと大きく異なっています。
  率直に言いますと、『うたプリ』においてはまず作中の男性キャラクター同士の関係性に大きなウエイトが割かれており、さらにそこには、そのキャラクターを演じている声優同士の、作品外での関係性がある程度反映されていると見ることができるのです。実例をご覧頂くのが最も分かりやすいかと思いますので、以下に具体的に引用して参りましょう。

 この作品で初期からメインを張っているのは、

 

Aクラス
一十木音也 (CV寺島拓篤)
聖川真斗 (CV鈴村健一)
四ノ宮那月 (CV谷山紀章)

Sクラス
一ノ瀬トキヤ (CV宮野真守)
神宮寺レン (CV諏訪部順一)
来栖翔 (CV下野紘)

の6人のイケメン高校生ですが(現在はアラブ人が攻略可能になったり先輩とか白人とかいろいろ出てきてます)、デュエット曲やドラマCD、グッズ展開、版権イラストなどではもっぱら、

Aクラス           Sクラス
一十木音也 (CV寺島拓篤)と一ノ瀬トキヤ (CV宮野真守)
聖川真斗 (CV鈴村健一)と神宮寺レン (CV諏訪部順一)
四ノ宮那月 (CV谷山紀章)と来栖翔 (CV下野紘)

の2人ずつの単位で扱われます。現在となっては追加メンバーを加えた派生ユニットの楽曲や、ユーザー投票によるシャッフルユニット企画なども持ち上がっていますが、楽曲面以外も含めればこの2人単位を重視する方針は今も変わっていません。
「ハート」を重視する感性派の一十木音也と完璧主義な理論派の一ノ瀬トキヤ、どちらも名家の生まれで幼馴染み同士でありながら融通の効かない聖川真斗と絵に描いたようなチャラ男の神宮寺レン、6人中最高の身長(186cm)で一見乙メンだが眼鏡を取ると凶暴化する二重人格の四ノ宮那月と、低身長と可愛い外見がコンプレックスのオレ様キャラで実は双子の弟がいる来栖翔……と、キャラ設定もおそらくはこのツーマンセルをある程度前提として対照的に考案されています。
 次にこれらキャラクターに割り当てられている声優について見てみましょう
 一十木音也役の声優寺島拓篤はいわゆる「オタクが高じて声優になった」パターンで、ギャルゲーをこよなく愛し、キャラクターソングでは歌唱力は二の次とばかりに、役に入り込んで歌います。『うたプリ』で一十木音也として歌う際の無邪気で開放的な歌い方と、『ルシアンビーズ』のジェシー役として歌った、RIZEを思わせるダミ声のミクスチャーロック風楽曲『ガチンコfreedom』、『月華繚乱ROMANCE』の鹿野葵役での耽美な一昔前のV系風楽曲『Crazy 4 Me』、ユニット「G.Addict」でアルビレオとして歌う際の、R・O・Nなどが手がけるデジロック風味楽曲、『猛獣使いと王子様』シルビオ役での『Hello again』……これらはどれも全く違っており、寺島はじつにオタクらしく「キャラソン」本来のミッションに忠実であると言えます。
 一方、音也と対になるトキヤ役の宮野真守は、幼少から劇団ひまわりに所属し、実写や舞台でのキャリアを積んできたいわゆる「リア充」「パンピー」サイドの声優です(ちなみにデキ婚という点でも「リア充」「パンピー」的です)。乙女ゲーにも多く出演していますが、キャリア上の代表作は(腐女子向け魔改造が施された『00』だとはいえ)『ガンダム』や、『ウルトラマン』シリーズに連なる『ウルトラマンゼロ』、『デスノート』『ポケットモンスター(ベストウイッシュ)』といった、いわゆる「権威」のある作品の数々です。声優というものに興味が無い人にも、出演情報をもとに宮野のことを説明することは可能ですが、寺島を説明することは非常に困難です。基本的に、寺島の出演作の名前を聞いてピンと来るような人は、そもそもてらしーをよく知っているオタクです。
 寺島も2012年6月にソロ名義のアルバム『NEW GAME』での歌手デビューを果たしていますが、先行する宮野は現時点でソロ名義でのシングルを7枚、アルバムを3枚リリースするに至っています。宮野は、トキヤのキャラクターソングでは確かに神経質で完璧主義を匂わせる歌唱をしているものの、それをソロ名義での楽曲と比較した場合――これは私的な印象となってしまいますが――少なくとも寺島拓篤ほどの歌い分けが志向されているようには感じられません。
 勿論宮野もプロ中のプロですから、『STAR DRIVER 輝きのタクト』ツナシ・タクトのキャラクターソング『First Galaxy』においてはトキヤよりは朗らかな歌い方が志向されていたり、『デュラララ!!』においておそらく「カラオケに行った紀田正臣」の設定のもとで歌われているTHE BLUE HEARTSの『リンダリンダ』で確かに高校生のカラオケらしい微妙な力みなどが表現されていたり、『桜蘭高校ホスト部』の須王環役での『GUILTY BEAUTY LOVE』では環の脳天気なナルシシストらしさが表現されてはいるのですが、そうは言っても本人の安定した高音域と伸びやかなビブラート(通称マモラート)を活かした歌唱というラインは外さず、基本的に宮野真守は何を歌っても宮野真守です。これはキャラクターソングでもノンタイアップでも同様で、先天的な本人の声質や音域という物理的諸条件に規定されている部分が少なからずあります。
 こうした「一般人」的出自と、生得的な歌唱(ごく普通に歌を上手く歌う)の性質の両方から、宮野の音楽活動のコンセプト自体も必然的に「リア充」的なものになります。彼のソロ音楽活動の「一般人っぽさ」を物語るエピソードとしては、ソロ出演した2011年のアニメロサマーライブが挙げられます。ここで彼は、韓流っぽさも感じさせるR&B~ハウス風味のノンタイアップアルバム曲『BODY ROCK』を披露し、ごく一部の熱心なマモラー以外にトイレ休憩を提供しました。ちなみにこの曲の作曲者は、EXILEなどにも楽曲提供をしているSTYという人物です。直前に歌った『うたプリ』OPの『オルフェ』や、公演後半で『デュラララ!!』OP『裏切りの夕焼け』を谷山紀章とデュエットで歌唱した際には会場を大いに熱狂させていただけに、『BODY ROCK』での水を打ったような静まり方は多くのオーディエンスの印象に残りました……。
 『うたプリ』内で常に対として扱われ好対照を見せている音也とトキヤにおいては、その中の人(=『うたプリ』世界外存在)である寺島と宮野の対照性もまた、視聴者が参照するべき多重的な情報の1つとして存在しています。

 同様に、聖川真斗役の鈴村健一と神宮寺レン役諏訪部順一の関係性を見てみましょう。『うたプリ』以前から鈴村と諏訪部は「謎の新ユニットSTA☆MEN」(※全角表記が正式)の中核メンバーとして長期的に活動しており(まあ、活動自体は断続的なんですが……)、STA☆MENの結成は、方々で鈴村が吹聴していた(とされる)ユニット結成計画を酔った諏訪部がブログ告知したことで実現したとされています。呑気で楽観的なレンを真斗がブツクサ言いつつ教導するような『うたプリ』作中での二者関係は、STA☆MEN結成エピソードの反転図にも見えます。こうした関係性を反転・複層化する要素が、乙女ゲーである「うたプリ」が腐女子にも人気を博す原因の一つにもなっているのではないかと推測されます。

 最後に四ノ宮那月と来栖翔のペアですが、ゲーム内においてマイペース(眼鏡装着時)な那月に翔がキレツッコミを繰り返す関係は、来栖翔役の下野紘が日頃谷山紀章にいじられるままキスマークまで付けられるような関係の変奏として見ることが可能です。また、歌唱力において下野紘は下手とまではいかないまでも上手いとも言いがたく、少年を思わせる声質をしていることもあって役になり切った「音痴もの」のキャラクターソングを何度も歌っています(『みつどもえ』の矢部智『わが名はチェリーボーイ』、『神のみぞ知るセカイ』における『集積回路の夢旅人』桂馬ver.、『かんなぎ』での御厨仁役でのカラオケシーン等)。
 対して谷山紀章は、飯塚昌明とのユニットGRANRODEOとして華々しくミュージシャン活動を繰り広げており、現時点でシングル17作、オリジナルアルバム4枚(秋にはさらに1枚出ます)を数え、日本武道館や各地のZEPなどでの無数のライブをこなし、声優業界で1、2を争う(とされる)歌唱力を前面に押し出していますが、宮野真守以上の「誰のキャラソンを歌っても紀章にしかならない」感から、谷山の歌唱法を敬遠する人が多いのも事実で、地獄のミサワカッコカワイイ宣言!』のWEBアニメにおける蒼夜薫への谷山のキャスティングはこうした文脈を踏まえてのメタ的なキャスティングであるとすら言えます。
 このように<歌はさほど上手くないがキャラになり切って、時には音痴にすら歌う>下野と、<抜群の歌唱力だがキャラソンがキャラソンらしくない>谷山の対照性は、先述した寺島・宮野の対照性と同質のものですが、程度においてはそれを上回っていると言えるかもしれません。
例えばアニメ版6話では、谷山演じる那月(正確には眼鏡が取れた「砂月」)は、トキヤの失敗したライブステージを乗っ取り、例の、完全に谷山紀章そのものとしか言えない歌唱(曲は『オリオンでSHOUT OUT』)を見せつけます。
 このシーンは、自分の古いキャリアであるHAYATOを「双子の兄」と偽っている、つまり制度的な二重人格者であるトキヤ/HAYATOを、トラウマに由来する「真性」の二重人格者である那月/砂月が攻撃するという、うたプリ内に張り巡らされたコントラストとコンテクストが一段と複雑化する大変面白いシーンです(ちなみにストーリー的にはかなりクソな場面です)。
 このように『うたプリ』においては盛んに作品外の文脈が作品内に持ち込まれ、熱心なファンの間ではそれらの情報と作品内の設定を照合して楽しむ岡田斗司夫的な営みが行われております。


6、セクシャルな語りへのジェンダー的抑圧
 ここで挙げた「うたプリ」は、アニメ化作品であり、おそらくは当初からアニメ化を見込んでの企画であって、乙女ゲー市場の中でもどちらかといえば外部文脈の持ち込みの度合いが高い作品ではあります。一般論としては、乙女ゲー全体においては、おそらくアニメほどには、<作品外からの「持ち込み」>は行われませんが、ただ岩崎大介の場合は、作品全体のコンセプト自体は露骨な借景である(たとえば『SRX』は、「変身ヒーロー」という現在では一般化したテーマを扱っているとはいえ、名前からも分かるとおり実態としてはぶっちゃけピンポイントに平成仮面ライダーそのものですし、そもそもリジェットのキャラクターソングにおいて多用される、時に露骨にセクシャルな表現を行いつつもそれを男性同性愛的なニュアンスでズラしてゆく手法自体がジャニーズ事務所の長年のマーケティング成果の横取りと言えなくもありません)という事情を踏まえると、作品のマクロな設定においては他文脈からの借用を多用しますが、それと対照的に、ミクロな設定においては他文脈の持ち込みを行わないのが岩崎大介の特長だと言えます。
 つまり岩崎大介は、着想においてはパクリと言われても仕方がないようなネタの引っ張り方をしますが、そこから先は完全に自分のフィールドとして閉め切り、ほとんど独善的なまでに「自作」であることに拘り、外部の文脈の侵入を許しません。このような事態を指して、僕はリジェットのプロダクトにおいては<岩崎自身が表現しようと意図したもののみが表現されること>に心血が注がれていると言うこともできるかと思います。この迸ったエゴが岩崎大介の魅力でもあり、しかし「一緒に仕事する人は大変だろうな……」という思いも抱かずにはおれません。
 でもなぁ。岩崎の手を離れてyura(アイマスの作詞の人です)が手がけるようになったアニメ版Vitaminの歌詞には「キレイに作ってんじゃねェよ……」と、それこそ岩崎大介が入れるセリフのような感想を抱いてしまうんですよなぁ。

 繰り返しになりますが、乙女ゲー周辺においては、ジェンダー構造的に「語り」は抑圧されています。研究者の目が向けられないというだけでなく、同じオタク女性の中でもBL愛好者の女性からは、乙女ゲー愛好者やドリーム(登場人物名前を自由に設定できる小説)の愛好者はしばしば「女々しい」感性として、逆説的ですが、じつに「マッチョ」な差別を受けます(男性同性愛ドリームについてはどのような扱いか僕には不詳)。一時期Twitterで流行した「ホモォ」連呼が、オタク内あるいはWeb上で性癖においてもはや多数派を勝ち取ったことを高らかに顕示する、ファルス的な欲望に駆動された「環境型セクハラ」とどう違うんだろうねえと僕は思いました。これは「BLが家父長制的な規範を一見それと分からない形で保持していながら、同時にその書き換えを予期したものである」というような、能天気なクィア・スタディーズ的「解放理論」からすら決定的に後退した、単純な男性原理の内面化でしかないように僕には見えてしまいました。とにかく、乙女ゲーには語る言葉、語られる言葉が無い。あるいは極端に少ないというのが僕の印象です。
 岩崎大介が男性であること(社会的に男性であることそれ自体と、さらにいえば男性的男性であることから帰結する旺盛な自己顕示欲)は、エロ歌詞という形を取ってのセクシュアリティへの言及に、例外的に豊富な語彙をもたらしていると言えます。しかし、やはりどこまでいっても彼は男性であり、そのうえ乙女ゲー一般の話に敷衍することができない独自性まで備えてしまっています。それをこのようにドヤ顔で指摘して書き散らす僕もまた男性的男性であり、「乙女」としての乙女ゲーマー自身と、「乙女」がプレイするものとしての乙女ゲー(男性の手による商業娯楽、という意味付けを問わない位相での「乙女ゲー」)は、いまだ語るべき言葉を持たないサバルタンのままなのでありますが、そこに語られる言葉があるべきだというような僕の考えそのものが、とことん男性的なお節介であり、当の乙女ゲーマー的には静かに暮らさせてくれよという感じだとは思います。


 今回の論考の概案自体は数年前から持ち続けていたものですが、このたび言語化しようと思い立ったのは昨日『月華繚乱ROMANCE』のOP曲『Crazy 4 Me』を聴いて久々に血が滾ったからであります。※試聴

まあ黙ってこれ聴けや。かっこいいよね。
僕も「恥じらってんじゃねェよ……」とか言ってみたい(アスナに対して)。
 そういえばアスナって乙女ゲーとかやるのかな……普段ゲームはしないって言ってたけど、ガラケー時代はそういう人でも携帯アプリの乙女ゲーの二三はやってるものだったし、何しろ恋に恋する年代やからな……。