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ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

アクセル・ワールド試論 ハルユキの3人の母と3人の父、合計5人の親たち

0、序論
 今から述べることは、「こういうオチだったら嫌だな」という話なのですが……『アクセル・ワールド』を読んでいる間、我々は「加速世界」をリアル世界の上に貼り付けられたARだと思っています。つまり加速世界は「リアル世界」にとっての付属物、世界内世界、ミニ世界だと思っています。
 しかし、作品内の「真実」としては、実は「加速世界」こそが物理的な現実(かりに「真実世界」とでもしましょう)であり、登場人物達が「リアル世界」と呼んでいるものこそシステムが作り出した夢、「減速世界」でしかないとしたらどうでしょう。「減速世界」の中では、人々の行動には多くの制約が付きまとい、その制限を解除して一時的に加速世界=真実世界に戻ってこられるのは、ブレインバーストという特権を手にしている一部のアカウントのみ。人類が「減速状態」から開放され、「真実世界」に回帰できるかどうかは、バーストリンカー達が現実=加速世界のどこかにいるこのシステムの管理者を探し出し、それを倒せるかどうかにかかっている……。
 なんでこんなこと考えたかというと、ざっくーーりまとめると、まず『AW』を同じ作者の『ソードアート・オンライン』と比較してもしなくても、『AW』における家族の扱いというのはかなり特徴的で、それについて考えるうちにそれが『AW』において加速世界およびデュエルアバターとは一体何なのかという思考につながってゆき、それが「外部」の存在と、そこへの到達可能性を示しているのではないか、という結論に至った、というような感じです。めっちゃ長いんですが、なるべく噛み砕いて書いた結果なので、読んでいただけるとありがたき幸せ。じゃ始めまーす。


1、アクセルワールドにおける家族
 『アクセル・ワールド』において、主人公ハルユキの母と父は、それぞれ3人のキャラクターに分裂しています。っていきなり何のことやら、とうとう気でも違ったか! 噛み砕いて書いたってのは嘘か! という感じかと思いますが、この作品を読み進めて行く中で、僕の中にそのような印象がどうしても拭いがたく生まれてきたので、この論考ではとにかくはじめに、『AW』における家族の表象を扱ってみたいと思います。僕の川原礫作品知識は現在、『アクセル・ワールド』文庫5巻とアニメ12話、『ソードアート・オンライン』文庫2巻とアニメ2話まで、というところなので、ひょっとするとこの先読み進め・見進めて行くうちに、僕の今の印象を完全破壊する展開が待っているという可能性もあり、そうなってくれるとむしろありがたいのですが、とりあえずは今の時点での僕の所感を理論化してまとめていきます。
 以前、別の論考で述べましたように、アニメ、ゲーム、ライトノベル的な世界では、家族というテーマは殊更重く扱われるか、もしくは等閑視されているかの、顕著な二極化傾向があるのではないかと思います。同じ川原礫作品の『SAO』においても、家族の扱いはなかなかに重いのですが、『AW』において「家族」が果たす象徴的な意味の重さは『SAO』におけるそれの比ではありません。あとはじめに断っておくと、僕は「だからSAOよりAWのほうがすごいのだ」などいうことは全く考えていません。だいたい黒雪姫よりアスナだし。


2、ソードアート・オンラインにおける家族
 『SAO』において、キリトとアスナはそれぞれ現実の家族関係に難を抱えています。キリトは家族内で自分だけが両親の実子ではないこと、そのことを(「両親」はいずれ明かす予定だったとはいえ)隠蔽されてきたこと、そして優秀でかつ血の繋がりのない異性である妹への接し方などに悩んでいます。いわば、「家父長制のもとで家長として家を背負って立つ者の資格」を全て剥奪されたような状態にあります。同様にアスナは優等生であれという両親の期待が重圧となり、「期待に応えられなければ棄てられてしまう」という、AC的な強迫観念と抑圧のもとで引っ込み思案になってしまった、と自ら述べています。さっそく余談ですが、このACっぽさに由来する説明がアスナから若干の神秘性を奪ってしまっているとはいえ、それが帰結する健やかな前向性のヤンデレ具合のもとに満を持して放たれる「キリト君が帰ってこなかったら、わたし自殺するよ。もう生きてる意味ないし、ただ待ってた自分が許せないもの」の一言が持つ視野狭窄な怜悧さは、このところ僕をハルユキのアバターなど比較にならないくらいのガチ豚に変えつつあります。

 無論、(作品外の)現実世界において、家族関係に何らの問題も抱えていない人のほうが少ないわけですが、フィクションの世界においては描写されないものは存在しないものなのであって、『SAO』においては2人がともに(アインクラッド外の)現実の家族関係に悩みを抱えているという事実は、2人が恐ろしいほど前向きにゲームの中で「結婚」し家族となる展開の下支えとして存在しています。アスナのキャラクター造形は、今どきのラノベとしては(SAOの初出が「今時」なのかどうかは微妙になりつつありますが)むしろ例外的なくらい「家庭的」で、料理が上手く、武装においても女性らしさを忘れず、身持ちは堅いが「亭主」に対しては2秒で股を開くという、実に 「良妻賢母」的なものとなっています。「安直だなあ」と思いつつも、まだ幼い2人が現実世界における互いの家庭内喪失感を埋めるようにアインクラッド内では全力で求め合い、同居し始めたその日のうちに速攻拙い性交に及ぶ展開(すみません16.5話読んだの黙ってました。あれヤバかったです)は、読んでいて微笑ましくも気恥ずかしくもあり、そして思い返すだけで今日も奥歯が3ミリくらい磨り減る羨ましさなわけですが、そんな時は三木一馬の顔写真でダーツでもやることで気分を鎮めまして、『AW』の話に移行しましょう。


3、アクセルワールドにおける親
 『AW』を読んで、僕は家族にまつわる場面で、奇妙な心証を何度も受けました。それは特に次のようなものです。

・ハルユキの母親(有田沙耶)が、不自然なほどに登場しない。にも関わらず、その存在自体には、やはり不自然なほど頻繁な言及がなされる。
・ブレインバーストへの勧誘が「親子」のメタファーで語られ、BB内での「親子」関係に関する度重なる言及があり、その都度「親」「子」という言葉が連呼される。

 『AW』は、現実世界において父を持たず、母子関係にも恵まれているとは言いがたいハルユキが、加速世界における「親」である黒雪姫の後を、傷だらけになりながら縋るように追いかけ続ける話なわけです(この点で、アニメ1期のED映像は涙無しには見られませんでした)。黒雪姫自身が「加速世界における『親子』は血よりも濃い絆で結ばれている」的な発言をしていることも象徴的かと思います。これらの本文中での明確な言及だけでも、『AW』における「現実世界の『本当(血縁的な意味で)の』親」と「加速世界の『本当(実存的な意味で)の』親」という、それぞれ違った意味での「本当の」「親」、2種類の親をめぐる話として整理することができるのですが、僕はこれだけでは飽き足りなくなるような、奇妙な印象をもう一つ受けました。それは

・1巻において、ハルユキを取り合う黒雪姫とチユリの対立が、女同士での男の取り合いでありながら、部分的にはまるで教育方針をめぐる夫婦喧嘩のようにも見える。

ということなのです。これは完全な印象論なので、読む人によっては「ハァ? こいつ頭おかしいんじゃねえの?」って感じかとも思いますが、僕には、完全に的外れであるとはどうしても思えなかったのでした。その理由は以下のようなものです。
 黒雪姫は、ハルユキとチユリの間に、<お互いを異性として意識している気配>を嗅ぎ取って警戒します。この警戒は、無論黒雪姫がハルユキに恋していることから、チユリを「恋のライバル」として警戒している、ということなのですが、しかしその警戒が、現実にはどのような言表を取ったでしょうか。黒雪姫は、「チユリはハルユキを『(ブレインバーストでの)子』にしようとしていたのではないか」と警戒したのです(1巻P150)。ストーリー上、実際にはチユリはBBのことなんぞ1ミクロンも知らないただの短気なJCであり、黒雪姫の懸念は的外れもいいところなわけですが、このシーンは黒雪姫の「性愛関係の相においてはチユリからハルユキへの恋心を警戒し、ゲーム内覇権の相においてはチユリとハルユキの親子関係化を警戒する」という、二つの意味合いの「警戒」が重なったシーンです。そしてこの「二つの警戒」は、それぞれ位相を異にしながらも完全には分離できません。つまり「(異性として)好きだから、(ゲームにおいて)『子』にする/したい」という、性愛関係と利害関係、配偶関係と母子関係のマトリクスが溶け合った状態にあるわけですね。だから、下校時の黒雪姫とチユリの言い争いは、少なくとも黒雪姫にとっては「親VS親」の戦いという面があったわけです。
 では、その「親VS親」の諍いが、僕にとって「母VS母」ではなく「母(チユリ)VS父(黒雪姫)」に見えたのはなぜでしょうか。
 ここで表題に掲げた、「ハルユキの3人の母と3人の父、合計5人の親たち」というふざけたフレーズに繋がっていくのです。どういうことか説明させていただこうと思います。
 まず、「ハルユキの3人の母」とは、有田沙耶、黒雪姫、チユリの3人を指します。
 そして、「ハルユキの3人の父」は父(母と離婚し別居中、名前不詳)、タクム、黒雪姫の3人を指します。
 黒雪姫が2回出てきてんじゃねーか。
 そうです。だから「合わせて5人の親」なのです。なんということでしょう!


4、精神分析という考え方について
 ここでいう「父」「母」は、いわゆるフロイト的な「精神分析」というやつに立脚したものです。そして、父と母それぞれが3人ずつになっているのは、ラカンのいう「現実界」「象徴界」「想像界」という分類に基づいています。はい、一気に胡散臭くなってまいりました。
 なぜフロイト的な解釈をするのか、そしてフロイトを元にさらにへんてこにしたラカンの図式を、無批判に、それもこんなにざっくり使うのか、といった非難が当然ありうるかと思います。映画や小説のフロイト的読解、という営みには前例が多くありますが、よく行われていることだからといって批判を免れるわけではありません、当然。その批判はまったくその通りであります。
 しかし前述のように、僕が『AW』を楽しむ上で、なぜかもやもやと引っかかった感覚を、これらの図式に当てはめて整理してみるとなんとなく納得できるなあ、というような感じがあったことと、そもそもブレインバーストの設定自体が、<睡眠中に脳を走査し『劣等感』を濾し取ってその陰画としてのデュエルアバターを生成する>というもので、<無意識の反映>が振る舞いの全てを規定するというフロイト的な精神分析理論をある程度肯定しているように思えることから、このような論展開もそこそこ説得力のあるものとして書けるのではないかな、と思った次第なのであります。

 少し話が逸れますが、ブレインバーストに関する説明は、それが<神経接続された機械の内部で行われる情報処理>という意味で生理学的な、「科学的」なものとしてなされているのですが、同時にその理論(アバター生成方法など)はほとんど精神分析そのもの(にしか見えない)という、こう言って差し支えなければ、「理系」と「文系」の奇妙な野合によって成立しています(精神分析は時として「科学」を自称しますが、それは「科学」概念自体の変容を迫ってのことであり、少なくとも精神分析は贔屓目に見ても狭義の「自然科学」には相当しませんから、それはこの際置いておきましょう)。
 さらにはその「文系」的な知見における人間精神の機微と、「理系」的な理論における脳内物質が組織化する電気信号のフロー、という物理的/化学的な現象を統合する説明として「脳内のマイクロチューブが抱える量子ベクトル」という、作中での実質的な意味合いとしてはほとんど<物質化された精神(or物質のようでもある精神)>とも言えるものの存在に言及した5巻は『AW』全体を通しての大きなターニングポイントなのではないか、と考えています。ほら、マイクロチューブとの絡みで初めて宇宙とかも出てきますし。まあ僕にとっての最新巻だからそう思ってるだけかもしれませんが……。

 ちなみに「精神」を名指す言葉は英語では「サイコ」ですが、「サイコ(Psycho)」の語源はギリシア語で霊魂を意味するプシュケ(Ψυχή)であり、プシュケとは元々、ギリシア神話に出てくる、<背中に蝶の羽根を生やした女神>であります。ブレインバーストの先に、人間精神の変革・革新っぽいものを見据えている(P134「思考を加速し、カネや、成績や、名声を手に入れる。本当にそんなものが我々の戦う意味であり、求める報酬であり、達し得る限界なのか? もっと……先があるんじゃないのか……? この……人間という殻の……外側に…………もっと…………」)黒雪姫が、「人間という殻」としてはこれ以上ないスペックの肉体を有しており、同時に「精神」そのものの象徴を冠した外見をしている、というのは、おそらく意図的な設定だと思いますが、なんか軽くググった感じあまり言及されていないように思います。

 さてさて、合計5人の親の話をする前に、一応僕がどのような意味で「フロイト的」&「ラカン的」精神分析タームを使っているか、ざっくり説明させていただきます。基本的に、ごく一般的な精神分析の文脈で使っておりますから、それ系の話題に詳しいかたはこのへん読み飛ばしていただいて問題ありません。


■■■(こっから精神分析の一般的な説明)■■■

●母・父・子について

 フロイト的な精神分析においては、生まれてから大人になるまでの人間の精神の変化(あるいは発達)を、父・母・子の3者関係を使って読み解きます。生まれたばかりの子供は、母親と自分の区別がついておらず、というか「自分」「他人」なんて区分をそもそも持っていないため、母と自分を完全に一体のものとして認識しています。それは母親から一方的に無条件の情愛を注がれる、安逸で気持ちのいいものなのですが、それがある日ぶちこわされます。それをやらかすのが「父」です。「子」が「母」と楽しくやっているところに「父」はやってきて、圧倒的な力で「母」は本当は自分(「父」)の所有物であることを告げるわけですね。
 「父」によって「子」は「母」と引きはがされ、自分の力で色々と実績を出さなければ生きていくことはできない、と告げられます。ですから「父」とは「子」にとって社会だとか法だとかの代表者、代理人です。こういう、「父」の介入を「象徴的去勢」といいます。
 去勢ってのは男性器(ファルス)を能無しにしてしまうことですが、男性器というのは要は、「何かが存在していること」「何かができること」の象徴であります。表面上「ついてない」女性器と比べ、男性器というのはそこに確かに何かが「ある」ことは分かりますし、それを上手く使うと一族を増やすことができ、そして実際に「父」がそのようにしてきたからこそ「子」が今そこにいる、と気付くわけです。
 かくして、「父」によって「母」から引き剥がされ「象徴的去勢」をされることで、自分の想像上の男性器、すなわち、母親が自分を無条件に認めてくれることで成立していた<無根拠な全能感>が否定されることで、「子」は大人になり、社会に出て行くことが可能になります。いつまでも全能感を引きずっている人ってのは社会に出られませんし、出せませんし、うっかり出てしまっても、周りの人と本人とで見えている景色が違いすぎて、色々話になりません。
 さて、そうやって社会に出ていってしばらく経つと、幼少のみぎり自分と「母」の間に介入してきた、あれだけぶっ殺したいと思った「父」というのもどうやら大したことない、自分と同じように「去勢」された存在だった、ということが見えてきます。
 これがいわゆるオイディプス・コンプレックスという、複雑に絡まり合った一連の心理的葛藤の塊で、これが様々な神話や物語に見ることが出来る基本的構造だとされています。個人によって多かれ少なかれの違いはあるけど、人間の成熟の仕方ってだいたいこんなだよね、という話であります。


現実界象徴界想像界について

 ラカンの理論においては、人間にとっての世界というのは「現実界」「象徴界」「想像界」の三幅対で考えられます。「現実界」と「想像界」という言葉が、一般的な用法でのそれ(たとえば『SAO』においてアインクラッド内との対比で用いられる「現実」)と殆ど真逆なのでちょっと理解しづらく、しかもラカン自身の言うことも時期によってちょこちょこ変わったりするらしいのですが、大局としては次のような感じです。
 一人の個人にとって、自分に見えている景色そのまんまのものが「想像界」です。想像界は「目でみたまんまの世界」で、想像界では目に見えるものはすべて存在しているものだし、目に見えないものはすべて存在していない。見えているなら幽霊だろうが何だろうが存在している、そういう世界が想像界です。そして本人の意識にとっては、想像界こそが「現実」だということになっています。たとえば目の前に友達がいるとして、その友達が本当は心の中ではどう思っているのか分からない(友達だなんて思っていないかもしれない)けど、とりあえず、見ている側は、あ、こいつは友達、と認識している状態です。
 「象徴界」というのは、シンボル、つまり言葉あるいは文字の世界です。約束事の世界とも言えます。文字や言葉は、今現在実際に目の前には存在していないもののことも語ることができます。あるいはこれまでもそして今後も絶対に存在しないであろうものについても語ることができます。たとえば遠隔地に住んでいて、今現在目の前には居ない友達でも、それは確かに友達ですよね。目の前にいないから存在しない、ということにはならなりません。あるいは、嘘をつくこともできます。東京で「おれ福井に友達おるやん」と言ったら、余程変な状況でない限りはその発言は事実として扱われ、発言者は「福井に友達がいる」ということになります。それがかり嘘であっても、少なくともその場は「発言者には福井に友達がいる」という設定で推移します。こういった約束事や設定が営まれる場としての「社会」こそが象徴界であると言えます。
 そして「現実界」というのが、誰の現実というわけでもなく、とにかくただそこにあるであろう「現実」だということになります。しかし、実際に各人に見えているのは眼前の「想像界」と、「象徴界」が語る、本当か嘘かわからない視認できない世界が混ざり合ったものであって、その2つがジャマして、「現実界」というのは絶対に見えません。
 だから、ラカンにおいては現実とは、想像界のもっと先にあり、象徴界でも説明したり述べたりすることが不可能な、触知不能なもの、決して理解できない、到達できないもの、ということになります。「友達」の例えでいえば、その「友達」が本当にいたのか、そいつは話者のことを本当に友達だと思っているのか、そもそも友達って何なのか、確たるものは何もありません。それが「現実」というものです。
 というとなんだかムチャクチャな話のようにも思えますが、しかしこの「現実」というものを「絶対的真理」と同じような意味で捉えてみると分かりやすいかと思います。誰からみても共通であり、本物であるような、揺るぎない現実というものがあるなら、それは「絶対的真理」と言っても特に間違いではないかと思います。「絶対的真理」と言い換えてみると、ほら、確かに、そんなものは存在しなさそうだし、存在していても我々ごときには到達できなそう感満載ですよね。
 ですからラカン的な文脈では、「現実」を語る、と称する人間は全て、詐欺師かキチガイだということになります。ラカンは、完全な精神病者にはこのように言ってみると、確かに、という感じじゃないでしょうか。ネットの書き込みなんかでも、ほら、「事実。」とか「現実に」とか言ってるのって全部嘘っぽいですよね。たいがい出会い系の広告かオカルト隠謀論です。

■■■(ここまで精神分析の一般的な説明)■■■


5、分裂している父と母
 さて、こういった精神分析的な文脈を踏まえて、ようやく『AW』の5人の「親」についての話をさせていただきます。
 要は、「母」「父」という2人の親を、「想像界」「象徴界」「現実界」に振り分けていったら6人の親になり、そのうち黒雪姫が2人分兼任しているので5人だという話なのです。ここでの振り分けは、精神分析というものの性質上「こうやって配置してみると解釈がしやすいなあ」という程度のものなので、やや曖昧な部分が無きにしも非ず、人によってはかなり聞き苦しいところもあるかもしれないのですが、どうかご容赦いただきたい!
 分類はこんなです。

 A、「想像界」の母:チユリ
 B、「象徴界」の母:黒雪姫
 C、「現実界」の母:リアル母(有田沙耶)

 D、「想像界」の父:黒雪姫
 E、「象徴界」の父:タクム
 F、「現実界」の父:リアル父(名前不明)

 想像界、すなわち物語開始時点でのハルユキの視点では、血の繋がった「本当の」母親である有田沙耶はほとんど現れません。というか、沙耶は母親として「機能」していません。ハルユキとの接点は殆ど無く、家にいても昼間は睡眠中であるような状態であることが描写されます。夫(ハルユキの父)と離婚し、女手一つで高層マンションの家を守りハルユキを育てる為、数々の深夜勤務と海外出張をこなす、グローバルエリートととして労働しており、いわば殆ど<男性化した女性労働者>なわけです。生活上のその役割は一家の稼ぎ頭であり、母とも父ともつかないような状態にあります。ゆえにハルユキにとって、「現実」の母親というものは居ないも同然であり、求めても決して手に入らないものなのです。ハルユキは、いつも1人で冷凍食品を食べております。
 ちなみに、またしてもやや話が逸れますが、AW1巻のオマケページで川上稔が、ハルユキの部屋には窓があり沙耶の部屋には無いことを指して「窓のある部屋をハルユキにあてがう母親の優しさ」であると述べていますが、果たしてこれが「正しい」解釈かどうか、僕には少し疑問なのです。慢性的な激務に晒され、日中に睡眠を取ることの多い沙耶がむしろ窓の無い部屋をこそ必要としたのかもしれませんし、あるいはそのこととハルユキに窓付き部屋を与えることの両方が理由だったのかもしれませんが、しかし、とにかく本文において言明されていない状況が、少なくとも川上稔にはナイーヴに「母の優しさ」に映った、という点は少し面白いところであります。これが川原礫の中では本当のところどうなっていたのか気になるところです(じつは何も考えてなかったりして)。
 そしてハルユキの生活には、母だけでなく「父」もいません。父は、世界のどこかで生きているのでしょうが、とにかくハルユキの前には現れません。つまりハルユキにリアル父が「父」として振る舞うことは絶対にありません。

 沙耶の代わりに、母として機能している存在がチユリです。チユリはピザチビ汗っかきのハルユキのことをひたすら気に掛け、イジメに気付いてサンドイッチを持参します。どんなに不出来であっても母は無条件に我が子を庇護し肯定するという、フロイト的にいえば未だ父によって引き離される前の、ほとんど近親相姦的に密着した母子関係が、「想像界における母」であるチユリと、「子」ハルユキの関係です。「父」の介入が無いないまま、想像界の母=チユリの手厚い庇護を受け、その庇護に対して反発を感じつつも、結局は「母子」関係がいつ終わるとも知れないまま羊水の中で腐敗していくような状態が、物語開始時点のハルユキの置かれた想像的環境です。
 ある日、自暴自棄になって拗ねたハルユキは、チユリが持参したサンドイッチを粉砕するという暴挙に出るのですが、これはいうまでもなく母子密着状況において母親に対して振るってしまう家庭内暴力、DVのものです。ハルユキからチユリの攻撃をよもや本当に暴力として描いてしまうと、さすがにライトノベルとして出版できなくなってしまう(あと、誰も買いたくなくなる)ので、サイドイッチ粉砕はいわば、暴力行為の代替物的シーンであると言っても良いかもしれません。完全なひきこもりの人の家庭ではよく起きることだといいますが、子は無意識に<母の愛情が無条件のものであるかどうか>を確認したくなって暴力を振るうし、母はその暴力に耐えて受け止めようとするのですが、母が実際にその暴力を受け止めて耐えきってしまうと、それは子にとっては「無条件の愛の証」ではなく、「検証の為の暴力がまだ不十分だった」こととして理解されてしまうのです。かくして母子密着状況における暴力的共依存は「加速」する一方なのですが、サンドイッチ事変はまさにその典型的な形をしています。

 さて、この想像界における母子(チユリ-ハルユキ)密着状態に割り込んでくる「父」が2人います。1人は同じ想像界における「父」こと黒雪姫、もう一人は象徴界の「父」タクムです。
 黒雪姫が「父」? アホか、姫は女だろうが! と思われる向きもあるかもしれませんが、ハルユキの血縁上の母が社会的には男性労働者=父のそれと殆ど変わらないのと同様、精神分析的な位置付けにおいて、黒雪姫は女性でありながら想像界において「父」の役割を果たしている、と言うことには、さほど無理はないように思います。

 てか、いいこと思いついた。いちいち「●●界」って書くのめんどいから、想像界象徴界現実界は以下ではそれぞれI・S・Rで略記しますわ。例えば「父I」って書いたら、「想像界における父」って意味だと思ってください。今出てきているのが、母I=チユリ、父I=黒雪姫、父S=タクムです。
 想像界において密着している母子のもとに、「社会」や「法」を背負って、象徴界から「父」(父S)がやってきます。つまり「父」は想像界に介入してくる存在ではありますが、「父」のそもそもの性質というのは象徴界に属するものであります。だから、父I、つまり「象徴」性を持たない父というのは、「親だが、母ではない」という程度のもので、母子密着下の過保護な母親に対して、ちょっといい加減な所を見せる存在、様々な物語で見られる、テキトーなとーちゃん像そのものです(たとえば『クレヨンしんちゃん』におけるヒロシ)。
 想像界における母と父のやりとり、つまり梅郷中の校門前での母I=チユリと父I=黒雪姫のやりとりを見てみましょう。1巻P121「昨日ハルが暴力を振るわれたのは、先輩がちょっかい出したせいなんでしょう? なのにまだこんな風にハルを晒し者にして、どういうつもりなんですか? 何か楽しいんですか?」。これに対し、黒雪姫は次のように挑発します。「ン……、少々意味が解らないな。私が何か有田君の意に染まぬことをして楽しんでいると、そう糾弾しているのかな?」。
 ここが、僕が夫婦喧嘩のようだ、と受け取った箇所であります。まるで我が子の教育方針を巡る父母間の対立に見えてきませんか。母「もう、あなたったら、そんなこと! ハルユキの教育によくないわ」、父「まぁまぁ母さん、いいじゃないか、ハルユキももう子どもじゃないんだ」とでもいうような。


6、黒雪姫の越境と変質
 チユリに対してはDV的な甘えをぶつけているハルユキですが、ハルユキを母I=チユリと取り合っている父Iの黒雪姫に対しては、当初そのような態度に出ることはありませんでした。なにせ相手は母ではなく父ですから(黒雪姫がもたらす、何もかもが生まれて初めての加速世界におっかなびっくりでそれどころでは無かったという面もあるかとは思いますが……)。とにかく、父親はいつだって、「母さんには内緒だからな」と息子をちょっと危ない遠出に誘うものです。ブレインバーストの存在は多くの人々に対して隠蔽されており、当然母I=チユリにも秘匿されています。母には内緒の、父と子のヒミツの場所なのです。父I=黒雪姫は、想像界(リアル世界)において、全てを所有している存在です。地位、名声、容貌、知性、おそらくは財産も。黒雪姫は全能の存在です。つまりファルスを具えた人物です。
 これらのファルスが、黒雪姫をファルスの属する世界、象徴界へと招待するわけで、であれば黒雪姫は象徴界においても父の役割を果たし、父Sとして今度こそ母を奪わなければ話がおかしいのですが、ところがこのシーンで黒雪姫は、<ハルユキという1人の男を奪い合う2人の女の片方>としての振る舞いを前景化させるのです。P122「私は彼に告白して現在返事待ちだ。これから軽くデートするところだ」。母I=チユリとの近親相姦的関係にあるハルユキに対して黒雪姫は、チユリを奪うのではなく、女としての黒雪姫自身を与える形を取るのです。
 この瞬間、ハルユキにとって、母が2人になってしまいます。

 母I=チユリ VS 父I=黒雪姫

 だった争いが、

 母I=チユリ VS 母S=黒雪姫

 としての意味も持ち始めるわけです。
 この二重の「チユリ VS 黒雪姫」の争いは、黒雪姫の勝利に終わります。この勝利を母I=チユリ VS 父I=黒雪姫の争いの側から見た場合、それは父Iの勝利であり、父I子を母の目の届かないブレインバーストという異世界へ連れ去ります(母にはその詳細が知らされることはありません)。
 次に、この勝利を母I=チユリVS母I=黒雪姫の争いの側から見た場合にも、勝利は当然黒雪姫のものなのですが、ここにおける勝利は、母としてハルユキとズブズブの「母子」密着関係を形成する存在の、チユリから黒雪姫へのシフトでしかありません。黒雪姫はハルユキを別の世界、加速世界、「もっと先」へ誘う役目を果たしたはずなのですが、連れて行った先の加速世界においては、姫の果たす役割は「母」(母S)にシフトしはじめてしまいます。これは、前述のように黒雪姫がチユリとの口論においてハルユキに対して「女」としての自分の立場を打ち出してしまったことに由来します。
 このように子ハルユキにとっての黒雪姫の役割の重心が父Iから母Sに移るにつれて、ハルユキは、母Iチユリに対してサンドイッチ粉砕という暴挙に出たのと同様に、母S黒雪姫に対しても「母(RSI問わず)」に対する横暴な態度を取りはじめます。すなわち、「無条件の愛情」を渇望するとともにそれを疑い始め、母を傷付けてでもその確かさを試そうとするわけです。ハルユキは、黒雪姫の制止をものともせず、次々と「試し」の為の発言を続けます。
 P188「解っていますよ。なんなりと、ご自由に。僕はただの駒、ただの道具です。要らなくなったら捨てればいい」。
 P189「いいですよ、もうやめましょうよ/あなたは……あなたのことが嫌いなんでしょう?」。
 P190「あなたは、なにもかも完璧すぎる自分のことが嫌いなんだ。だから、自分で自分を貶めようとしている。そうなんでしょう/あなたは僕に……デブで、不細工で、嫌われ者の僕に言葉をかけ、手を触れ、好意を……好意のようなものを示すことで、ただ自分を汚そうとしているだけなんだ。……そんなことをしなくても、僕はあなたの言うとおりに働きます。僕は何も望まない。代償なんて要らない。ただの捨て駒、命令されるだけの道具、それが僕みたいな奴に相応しい扱いだって、あなたもほんとは解ってるんだ!!」。
 「好意を」を「好意のようなものを」と言い換えていることからも分かるように、ハルユキはこの一連の発言において、黒雪姫の自罰・自虐的傾向(むろんそれは殆どハルユキの妄想なのですが)それ自体よりも、黒雪姫から自分に向けられた感情の真偽(「好意のようなもの」の性質)をこそ強く疑っているわけです(まあ、思春期の少年ですしデブですし致し方ないところもあります……)。


7、略奪者タクム
 このようにして、物語の中で母Iと子の間に介入してきた父I=母Sですが、父I→母Sへの変化が始まると、ふたたび失われた父性をみたび埋め合わせる為に、父Sが投入されます。それがタクムです。
 タクムあらゆる面でハルユキを凌駕し、母Iチユリをハルユキから奪うチユリの「彼氏」であり、つまりは母Iチユリを独占する権利を持った「父」です。父Sであるタクムの「父」っぷりは、父I=黒雪姫の比ではありません。なぜなら象徴界こそは「父」の本来的な所属であり、父Sの介入とは「象徴的去勢」そのものだからです。
 そして父、なかんずく父Sとしてハルユキから母Iを奪うタクムが、ハルユキにとって自分と同じ年齢であるだけでなく、自分のたった2人の親友の片方であるということが、ハルユキの象徴的去勢を通常のそれと比べてはるかに重いものにしていて、そこが病院での対決の醍醐味であったことは、精神分析的な読解をするまでもなく首肯いただけるかと思います。アクセルワールド1巻は、ハルユキによる父殺しの話であったということですね。
 父S=タクムは、ハルユキから母を略奪します。母I=チユリを奪って自分のものとするだけでなく、加速世界において、病院で倒れている母S=黒雪姫(のバーストポイント)までもを自分のものであると主張し、ハルユキから永久に奪おうとします。
 父Sが母Sを奪おうとする場所とは、加速世界であり、加速世界とはつまり象徴界そのものだと言うことができるでしょう。タクムは想像界においては母Iを実際に占有し、象徴界においては母Sを消去しようとしているわけです。タクムが父としての性質を剥き出しにするのは、まさにタクムが加速世界のシアン・パイルであると発覚した直後です。
 P234「チーちゃんは僕の彼女だよ。だから当然直結だってするさ/君だって、チーちゃんと直結して、内緒でメモリを漁ったじゃないか? しかも、彼氏でもなんでもないのにさ/ずっと、ずっと昔からチーちゃんに、僕ってかわいそうだろ? 憐れだろ? だから優しくしてよ。もっと構ってよ。そう言い続けてきたんだ。言葉じゃなくても、態度で、目つきで……いや、君という存在そのもので/焦ってたさ。このままなら、チーちゃんは一生君の面倒を見ようとするだろう、ってね。/ハルの面倒を見て苦労するよりも、僕の隣で幸せになったほうがずっといい、ってことをさ。それが……現実的判断ってものだろう?/『いつまでも子供じゃないんだ』、だろ?/チーちゃんだって女の子……いや、女だよ。友達に自慢できる彼氏、幸せな結婚、満ち足りた生活、そっちのほうがずっと《幸せ》だっていつかは気付くさ。だから僕もがんばったよ。死ぬほど勉強して今の学校に入ったし、毎日走りこんで体も鍛えた。ハル、君が下らないゲームをしたり、ぐうぐう寝てるあいだにね」。もう十分ではないでしょうか。「母」を取り上げる「父」の発言として、これ以上的確で饒舌なものがあったでしょうか。「女の子……いや、女だよ」の裏にある、ハルユキに対するタクムの男性としての優位性の確信、「友達に自慢できる彼氏、幸せな結婚、満ち足りた生活」として語られる、タクムの社会的地位や経済的将来性、「いつまでも子供じゃないんだ」という、かつてハルユキが使った言葉の本歌取りによって自分のほうが一足早く「大人」となっている事実を告げ、自分は「子供」であるハルユキが決して敵わない象徴的「父」であることをことを誇示しているわけです。
 かつて『ガンダムSEED』において、「やめてよね……本気でケンカしたら、サイが僕にかなうはずないだろ」という、間違い無く劇中でNo1の強い印象を残すセリフがありました。『SEED』ではこの一言を境にキラがコーディネイターであるという自覚を強め、また視聴者に対してはこの瞬間における突発的な俺Tueee感がキラへの有無を言わせない強い同化作用をもたらすのですが、『AW』においてはSEEDのサイとまったく同じ仕打ちを主人公側が受けることになるとは……。


8、ブレインバーストとは何か
 ブレインバーストは、加速世界=象徴界において、自らが象徴となった者たちが闘争を繰り広げるゲームです。劣等感をモチーフとし、得意とする攻撃手段にちなんだ特徴とカラーリングを与えられたデュエルアバターとは、バーストリンカー一人一人の「象徴」そのものです。
 『AW』においては、想像界象徴界に相当する概念が、「現実世界」「加速世界」として作中で本当に空間的に存在しています。しかもこの二つの世界は、AR技術によって地理的に完全に重なり合っています。そして自らをデュエルアバター=象徴と化すことでその両方の世界を行き来することができるバーストリンカーという存在がいて、バーストリンカーはバーストリンカーであり続ける限り想像界ではほとんど何でも思うがに振る舞うことができますが、しかし想像界での権能を振るいつつ(=バーストポイントを消費しつつ)象徴界に留まり続ける為には、永久に闘争に明け暮れて貨幣=BPを稼ぐしかないのです。
 黒雪姫的な感覚からいえば、加速世界=象徴界には「もっと先」がありますが、それは精神分析的には「現実界」そのもので、人間精神には決して到達できない、その「到達できなさ」自体ですらあるのですが、黒雪姫だけはブレインバーストがまさにその為の手段であると考えている様子です。
 想像界において黒雪姫の持っている地位、名声、容貌、知性、財産等々……の、<社会的な「強さ」を保証してくれるパラメータ>は、黒雪姫をファルス的(ファルスの権能と同化しつつある/同化した)存在にし、ファルスを通じて加速世界=象徴界への参入権利を与えています。
 ラカン的理論においては、想像界から象徴界への移行は言語によってなされます。象徴とは言語であり、社会は言語によって書かれた法で規定されているからです。だから子供は言語を使いこなす能力を高めていくことで想像界から象徴界に向かっていく(=社会化されていく)わけですが、『AW』ではここに大きな断絶が存在します。想像界象徴界が「現実世界」「加速世界」として「ブレインバーストによって」重ねられているという設定が、想像界象徴界の関係を歪めています。端的に言って、「現実世界」「加速世界」の形で表現された世界においては、両方の世界の間で<何をもってファルスとするか>の基準が大きく変化します。
 加速世界=象徴界においては本人もしくはレギオンの端的な「強さ」こそがファルスです。「強さ」がファルス性を規定するのはリアル世界=想像界においても同様なのですが、ただしリアル世界=想像界では、地位、名声、容貌、知性、財産といったさまざまな形の<強さ>がありえます。それに比べ、加速世界における「強さ」は、端的な対戦の「強さ」だけです(それは移動の速さだったり技の攻撃力だったり装甲の硬さだったりしますが、それらは全て最終的にはHPの増減のみに収斂します。「現実」世界においても、あらゆるパラメータを総括して「人間力」とでも表すことは可能ですが、ご存じのように「人間力」などとという言葉は馬鹿の専売特許であり、何も言っていないに等しいわけです)。その点においてもブラック・ロータスの<強さ>は抜きん出ていたものの、同程度の力を持つとされる純色の六王と彼らが率いる各レギオンが、いまだ黒雪姫の前に抑圧として立ちはだかっており、黒雪姫は永い停滞を強いられてきました。
 その均衡を破る存在として召喚されたという意味においては、ハルユキは登場時からファルスと同化した存在です。なんせ登場時は母Iチユリとの密着状態であり、その閉じたディストピアからこそ、神懸かった「反応速度」が引き出されていたのです。
 リアル世界=想像界におけるファルスを用いて象徴的抑圧を撥ね除け、象徴界における版図を広げている黒雪姫ですが、彼女が新たに想像界から輸入したファルス的ブタを引き連れ、進んでゆく先には、当然「現実界」があるということになります。
 ではその「現実界」とは、『AW』においては一体何のことで、そこでは何が待っているんでしょう? それは、ハルユキの、あらかじめ失われた母Rと父Rが、そこにおいてどのような表象を取るかという問いと、ほぼ同じです。この概念的探究が物語後半の通奏低音になっていくのだろうと、5巻までしか読んでいない僕は思っているのですが……。
 そんなわけで、とにかくアクセルワールドはリアル(想像界)に住む人々が、ブレインバーストという象徴界を通じて、「もっと先」(現実界)の不可能性に到達しようとする物語である、と読むことができます。しかし『AW』作品内の「リアル世界」がすでに想像界象徴界から構成されているわけで、じゃあ<「リアル世界」における社会的営み≒象徴界>と<加速世界=象徴界>で象徴界がダブってんじゃん、っていう指摘がありうるわけです。ここでね、やっとこさ冒頭の話につながってくるわけなんですけれども。
 「リアル世界」が、そこにおいてどれほど象徴性=言語能力を高めていっても決して現実界へは到達できない世界であるのに対し、加速世界は、そこで<最強のレベル10バーストリンカーになる=象徴性をMAXまで高める>ことで「もっと先」=現実界へ到達可能な世界なんです。
 つまり現実世界では言語=象徴の力に限界がありますが、加速世界の言語=象徴(=アバター)に限界がありません。なぜでしょう? って考えたときに、それは――最後の最後にある意味でラカンを裏切る形ですが――『AW』の隠された設定として、本来「現実」には一切制限など無く、<制限を課している者>がどこかにいるからだ、そいつを倒せ、というようなオチが用意されているから……だったりして。冒頭に掲げた大胆予想はそういう意味なわけです。までも、盛大に滑ってほしいところですわ。


9、まとめとイジメと現実の母と
 こうして書いてみるとなんとも類型的な精神分析的作品批評に堕してしまったの感がありますし、あと最後のほうは「世界」を球状のメタファーで捉えたときに(たいがいの人はたいがいの場合球状の認識をしているものです)、「現実」を球の核として捉えるかそれとも球の外側全般と捉えるかというような、トポロジー的な概念遊びにすぎないとも言えます。

 ところで母といえば、以前の記事で触れた大津のイジメ問題で、「加害者親族に警察関係者がいた為警察の捜査を免れた」というのは嘘だったらしく、ほっとしております。本当だったら怖すぎる。
 しかし代わりに新しく登場した情報では、加害者のお母さんは自分の息子を擁護するためのビラを作って配ったりされていたらしいということで、またしても不気味な話ではあるのですが、ああ、ここまで出しちゃう奴いるんだ、クルイ(狂い)って思いまして。そうそう。一緒じゃん、俺らの内側とって。じゃあ表現しなきゃうそつきでしょ、と思ったわけであります。 この加害者の母の行動こそは、まさにフロイト的な意味の、無条件の肯定であり、おのれの息子が残忍極まりない、実質的な快楽殺人者であったとしても、想像界において「母」は際限無く愛を注ぎ続けるものなのですよ。間違っているがゆえに完全に正しい、この底無しの慈悲と狂気こそが、ある意味で人間世界の常態であります。


おまけ
 黒雪姫は想像界の父であり象徴界の母であり、つまりファルスを具えた母であり、と同時に現実界を目指すプシュケの作用そのものでもあり、さらにいえばハルユキに加速世界での統合的身体を与える鏡の役割も果たしているということができるかもしれません。いくらなんでも黒雪姫一人に色々機能持たせすぎやろの感もありますが、しかし黒雪姫にはリアルの黒雪姫と学内アバターのスノーブラックが鏡合わせになったビジュアルってやたら多い気がしませんかね? 鏡合わせの構図が多い理由が、単に見栄えがするからというだけであれば僕がとんちんかんに勝手に色々なものをありがたがっているという話ですけれども、このへんの話ももう少し書くことが貯まったらまとめてみようかと思います。おしまい!