ガクショウ印象論壇

同人誌用の原稿ストックを目的として、ラノベ読んだメモなどを書きちらすブログです【ネタバレだらけ】

安易な世代論と古今東西文学者聖杯戦争 奈須きのこと佐々木中の類似性

 何気なく河出書房新社のHPを見ていて、佐々木中の新刊(それも小説第2弾)が昨年末に出ていたことを知りました。これが、あの、『しあわせだったころしたように』というんですが、概要を読んでみると、その、どうも「ころしたように」は「頃、したように」と「殺したように」がかかっているらしく、さすがHIPHOPに精通したアタルだっちゃ、タイトルからライムしてまっせ、とか思うよりさきに、え、なにこれ講談社BOXから出るの? え違うの普通に河出の単行本なの? ご冗談でしょう? ご冗談でしょう、ファインマンさん? 中森明夫河出文庫版の東浩紀『キャラクターズ』解説で佐々木中を指して「あれで小説さえ書かなければいいやつなのに……」と苦笑混じりに書いていたことを思い出しました。
 まあ小説がアレなのはアレなんですけど、よく見たらアナレクタシリーズの新刊告知も出ていて、どのタイトルが『この熾烈なる無力を』っていうんですよ。あれっ、これ何かに似てるなーって。この感じ。何だっけ、ああそうだあれに似てる「全て遠き理想郷」。
 結構似てる、とか、ぽい、とかじゃなくて、すんごく似てると思うんですよ。おなじひとが書いてんの? ってぐらい似てる。「己が栄光のためでなく」とかも似てる。半端なく似てる。『この日々を歌い交わす』とか『砕かれた大地に、ひとつの場処を』とかも似てる。っていうか書きながらどっちがどっちだったか既に分からなくなりつつあるくらい似てます。こうやって並べたときに、事前知識なしにアタルとキノコに分けられる人とかいんの? いたら逆に、僕はそいつのこと一生涯信用しませんよ。
 この類似性については、調べてみたら東浩紀が「佐々木中なんてエロゲで言えば奈須きのこみたいなもん」と発言しているらしい、ということが分かったのですが、「エロゲで言えば」なんて前置きは要らなかったんや! アタルとキノコは中身も似てるんです。どこが似てるのかっていうと具体的には、もつれながら全力疾走する文体とか、謎の断言調とか、断言の源泉になっていると思われる網羅的な自分ルール世界が似ていると思います。

 あたるんの場合は、大変に単純化して言ってしまうと、ピエール・ルジャンドルからの影響(影響というか、もともとルジャンドル的な傾向のあった佐々木中が事後的に準拠元としてルジャンドルを見出してるのかもしれませんが)であって、ようは文学的≒法的≒言語的世界というのは論理の無限連鎖であって、ある言説の根拠を別の論理に求め続けるのだけど、「論理的」であるためにはこの営みは中断を許されず、しかしどれだけ「論理的」に掘削していったところで絶対的な根拠というものは見出されない(当たり前だ)から、ある程度のところで循環論法的なものが発生します。そういう循環論法が発生する理路の周辺一帯をルジャンドルは「ドグマ的構造」と呼んでいて、一般にはたとえば「自然権」とか 「理性」とかいう言葉の周囲でこういう循環が起きます。「ドグマ的」というのは、一般的な言葉遣いとしては、「教条的」とか「アホ」というような意味で使われますが、ルジャンドルにおいては、「しゃーないねん。そういうもんやねん。ウチらにはこれっきゃないねん」的な意味で使われている。ような気がする。無限後退を強制的に打ち止めする言葉だから、これは宿命的に異様な断言調子になります。その断言調子で何について語るかと言うと、あたるんって文学がキマっちゃって現実界(ラカン的な意味で)行っちゃったみたいな人の話異常に好きで、主にそういう人の逸話を滔々と語ります。試しに『切り取れ、あの祈る手を』の一部を引用してみます。

 

言語学、そしてオリエント学とチベット学の権威にグリューンヴェーデルという人がいました。彼は1922年、『トゥスカ』という本を満を持して江湖に問います。トゥスカとはエルトリアのことです。エルトリアとは、紀元前一世紀ごろまでイタリアの中部にあった国で、インド・ヨーロッパ語族に属さない独自の言語を持っていました。古代エジプトの文献に見える「海の民」とは彼らのことだという説もあり、また古代ローマの王の数人はエルトリア人だったという説もあります。(中略)かくして、グリューンヴェーデルの名声は地に堕ちることになります。何故か。彼が解読したと言うテクストが、すべてある種の悪魔や呪術をめぐる荒唐無稽な幻想や、ありとあらゆる性的倒錯の巨大な一覧表のようなものだったからです。」

 

 あの本大体全部こんな感じです。これ読んで僕は思いました。「で、このグリューンヴェーデルってのは第何次の聖杯戦争に出てんの?」って。あたるん解説だと結局ニーチェカフカムハンマドも安吾も結局全部このノリで「魔術師」みたいになって、こいつら「魔術師」をラカンのR-S-Iに沿って並べて「根源」探しさせてるのがあたるん。きのこ先生のほうはもう、言うまでもなく複数作品に跨がった共通の世界観、自分設定の嵐。で二人とも、そういう世界観を表現する文体っていうのはもう、ああいう過剰に迸った文体しか無いんだろうなって気がします。書き手だけが所有してる情報が文字の背後に膨大にあって、書き手はいかにして読者にあまねくそれを伝えるかみたいなことに必死。きのこの場合も、インタビューとか読んでると、自作のキャラについて「誰某と誰某だったら直接対決したら誰某のほうが強いはず」とかなんとかそれ系の言及がすごい多くて、多分この人にとっては「誰某と誰某では誰某のほうが強い」とかいう情報は「自分が作った設定」というよりも「オレだけが知ってる情報」なんじゃないか、と思いました。創作ではなく、創作に対して先駆的に存在している情報。きのこはそれ受信してディクテートするだけ、っていう映画版恐怖新聞みたいな。そんで全部書き写すには時間も紙幅も足りねぇみたいな。あたるんにおける、言語世界のルジャンドル的解釈と文学者列伝がさらに渾然一体となっている。どちらにせよきのこもあたるんも、出し惜しみとかしてる場合じゃないから結果的に良心的。
 劇場版『Fate/stay night』が公開される時に辻谷耕史が「原作やってみたけどマジですごかった、奈須きのこは『イジメ世代の文学』だと思った、奈須君自身がイジメてたとかイジメられてたとかってことじゃなくて、教室っていう空間ですぐ隣に理不尽で精神肉体問わずの一方的ですさまじい暴力があるっていう異常な時代からしか生まれてこない才能だと思った」みたいなことを言っていて、あ、なんか腑に落ちるわーと思いました。
 そう思いながら何気なく調べていたら、奈須きのこ佐々木中は、Wikipedia情報が正しいとするなら、じつはどちらも1973年生まれなのです。佐々木が8月で奈須が11月。世間的に「今イジメが熱い!」みたいなことになったのが1985年(うわー僕の生年だー)だと言われているので、奈須中は自分達が丁度中学に上がるくらいのときにイジメ的環境が整いました! っていう、超大変な世代だということですね。たいへんだー。彼らと同じ年代(1973年4月~1974年3月生)が他に誰かというと、ざっとWikipedia見て、われわれキモオタに関係がありそうなところだと、鼠先輩、小西克幸(声優)、荒川弘鳥海浩輔(声優)、藤田晋(サイバーエージェント社長)、金田朋子(声優)、平川大輔(声優)、斎賀みつき(声優)、かかずゆみ(声優)、伊藤健太郎(声優)、柚木涼香(声優)、GACKTみずしな孝之宍戸留美(声優)、阪口大助(声優)、戸賀崎智信(AKB48劇場支配人)、吉野裕行(声優)、綾峰欄人森久保祥太郎(声優)、堺雅人川本真琴椎名へきる(声優)、杉山紀彰(声優)、岸尾だいすけ(声優)、田口宏子(声優)……てか声優多っ。あとロンブーの、1号だか2号だかわからないけど田村淳。
 ロンブーの田村淳といえば、われわれキモオタから見てこれ以上ないくらい100%のイジメっ子の見本だと思うんですけど、彼が1973年生まれというのは大変興味深いと思いました。いわばイジメのエリート。とはいえ田村淳が本当のイジメっ子なのか、それとも間近でイジメを目撃し続けた世代としてイジメのエミューレーションが異常に上手いだけなのか、それは分かりません。いじる一方で後輩への面倒見はとても良いとの説もあるし、どちらにせよ「イジメ世代の文学」ではありますね。
 てか小西・鳥海・平川・伊藤・阪口・吉野・森久保・杉山・岸尾ってすげえ。73年生まれだけで乙女ゲー1本作れる。にしてもこうして並べると、岸尾・鳥海・吉野あたりはもういい年なのにまだ「若手」って印象がどことなくあって、平川・伊藤・坂口あたりが壮年差し掛かり、小西がちょうどその二者の間、森久保は年齢不詳の勘違いV系男(褒め言葉)、杉山はそいつらに「センパーイセンパーイ」つって付いてきそうな、そんなイメージ。全員同じ歳なのにね!
 安易な世代論というか一般に世代論というのは安易になる宿命だと思うのですが、それでも人格形成期の中の同じ時期にある程度同じ体験をしている、というのは、各自がそれをどうやって受容・消化してきたのかという対比を見せてくれるので、まあやはりそれなりの妥当性があるものなのだと思いまして、ここにこのように残しておく次第であります。
 まあでもデリダの『火ここになき灰』とかも似てるから、73年だけが何だってわけでもないのかもしれませんがね。